第11話 レジーディアン2-2

(そう、ササヅキは、だから)


 いつまでも家のことを口にするレジーディアンを馬鹿にしていたのだ。いや、呆れていただけで馬鹿にはしてないかもしれない。あの人は基本失礼だが、子供たちをきちんと守っている。ホーリを教会にやった時は、債権放棄だと恩着せがましくぼやくササヅキを浅ましいと眉を顰めたが、寄付金を出したことまでは知らなかった。


 そう、ホーリの暮らしにササヅキはなんの責任もない。なのに苦労しないようにそんなところまで手配していれば、多少はぼやきたくもなるだろう。ここへ来て平民の暮らしを間近に見て、普段使いのドレスがどれほどの食料に替えられるのかをレジーディアンは初めて知ったのだ。


(もしかしたらあの苛立たしい口調は心配してのことなのかしら)


 ササヅキならレジーディアンの痛みを『本当に』わかってくれるかもしれない。貴族とも縁のある彼ならば。政略結婚など当然のことだ。しかしこんな形で売られてしまう娘はいないだろう。今までのすべてを誰かに投げつけたい。


(わたくしだって、この縁談は父が用意した最高の《売却》だと思ったのよ。だからこそ喜んでその日を待ったのに)


 商品を売り渡すのに、婚姻した妻が失踪するよりも婚約中に誘拐される方が堅実に遂行できると判断したのだ。両親の愛は『わたくしである』というだけでは注ぐ価値なしと見なされた。そういうことなのだ。


 喉から叫びが迸りそうだった。けれど教育係に叩き込まれた貴族のたしなみはレジーディアンを悲慟から縛った。その反面、誰かに縋ることもしたくなかった。縋ろうとした紐の先が、今切れていたと知ったばかりだ。けれど。哀しみと怒りと虚無が交互に襲ってくる。けれど、でも。幾度も。


 ―――だれかたすけて。


「わたくしはなにも、なにもできない」


 ここで暮らすには生活力で他の娘たちに劣り、自分の生活圏にも戻れないことが確定した絶望が、レジーディアンの中に染み渡っていく。


 皆が必死に道を拓こうとしているのに、『たしなみ』でしかない技能。磨く腕もなく、いかに甘えて生きてきたか。


(ああ、これでは、『ひとり』すら成り立たないのだわ)


 わたくしはどこにもいない。


 その思いが渦を巻き、レジーディアンはベッドを降り、ササヅキの店ではなく1階のカウンターに足を向けた。

 もうずいぶん明るい。娼館はひっそりと沈み、姫たちの睡眠を保障している。いつ眠っているのか不思議だけれど、ネーヴァンジュはやはり起きていた。


「どうしたんだい」


 涙の跡を見咎めたネーヴァンジュに話があると告げると、ロビーではなく裏のテーブルに回るよう促された。冬だというのに冷たい、オレンジを炭酸水で割った飲物を差し出され口を付けると、またじわりと涙が浮かんできた。それをぐっと目を閉じて堪える。しばらくそうしてから、ネーヴァンジュを正視した。


「家名を捨てます」

「……ふうん」


 ネーヴァンジュはあまり驚いた様子ではなかった。


「いいえ、捨てられたのはこちらなのね。ネーヴァンジュ、わたくしここで《姫》を目指してもいいかしら。わたくしは秀でた技など持っていない。けれど、たしなみは広く学んだの。オリゲヌの一流奏者になれなくても、ファーデの一流演者になれなくても、その両方ができる。本は書けなくても恋文なら書けるし、詩も唄えるわ。わたくし、家や夫に頼って生きていくのはできない、もうできないの。信じられなくなってしまったから。わたくしにはわたくししかないんだわ」


 結局我慢できなかった。目を開けていられなくて瞼を閉じる。熱い涙が頬を、顎を伝う。ネーヴァンジュは柔らかい布でそれを押さえながら拭ってくれた。


「あんたがそれでいいならあたしは磨いてあげる。少し髪の色をいじって、名前も変えて、派手だけどギリギリ清楚な化粧を覚えて《姫》の基礎が整ったら王都のもっと大きな娼館でデビューするといい。あんたはその素質がある。美しく、おっとりと優雅で、貞操を誓った恋人に裏切られた傷を持つ。男は物語のある《姫》に惹かれる。自分こそが救うのだと夢を見る。


 その夢を大事にしてやるといいよ。あんたが今の顔で笑えば男はみな奮い立つ。レジーディアン、忘れないことね。寄って立つ者は自分だけと気づいたこの日を」


 ネーヴァンジュはわたくしの頬を両手で包み、唇を重ねてきた。口づけは初めてだったし同性ともするものだとは知らなかったけれど、そのまま受けた。しばらく舌を絡ませて、ネーヴァンジュが離れたときには涙は止まっていた。


「忘れるんじゃないよ、あんたがここで決意したことをね。この先どんな男に逢おうとも、だ。これは《姫》に伝わる呪い。全員が知ってる訳じゃないけどね」


 婚約者がささやくような甘い言葉はなかった。やはり恋情的な意図ではなかった。頷く。忘れない。この唇は、身体は、自分の物だ。交わすものは熱でなく愛でなく。


 そう、愛でなく。





 ササヅキには「あんたのようなお嬢さんに娼婦なんてやれるのか?」と驚かれたけれど、自分はもう『どこかのお嬢様』ではないのだ。


(わたくしはレジーディアン、自分という資財しか持たないおんな)


 そういうことだ。

 今となっては手切れ金としか形容できない家からの送金を、新しいドレスを誂えるのに使った。この界隈では破格の化粧品と装飾。それでもこれから向かうところで侮られないためのもので高貴な《姫》には必要な経費だそうだ。


(そしてわたくし自身の値段も)


 ネーヴァンジュが組合を通して多少の嘘を乗せた身上と商品としてのランクを書いた紹介状を別の娼館に送った。その返事を待っているところだが、以前にも同じ伝手を使ったそうで、言い値で返ってくるだろうと言われている。春に証文が届けば移動だ。


 今までの淑女教育とは違う、高級娼婦としての立ち居振る舞いは、それでも今までの教育が役に立った。基本的には同じなのだ。違うのは慎ましやかにと習ったものを色を添えてと言われるところ。美しさの意味が違う。


「ただまあ、『元本物のお嬢様』ってのが売りなのだから、元の所作も無くさないように。ここぞというところで狙って崩すのね」


 レジーディアンより早く姫見習いに入っていたエッダとニンスだが、ニンスはまだメインが下働きで、ひとつ下のエッダだけが時折一緒にネーヴァンジュの指導を受けた。娼館と食堂の両方で下働きをしているハルタから手跡を頼まれたのもその頃だ。


「そんなものをどうするの」

 書いて欲しいと頼まれたのは、恋人にしばしの別れを悲しむ言葉、再会を願う詩、逢瀬を喜ぶ礼状。ネーヴァンジュに覚えるよう言われた文面だ。


「私、代書屋を目指してるの。ここの姫たちの代筆ができるようになれば多少は稼げるし、本気の練習のほうが力になると思うから」

「でもハルタ、あなたまだ10にもなっていないのでしょう。働くには早いのじゃないの」


 下働きしているのだからすでに『働いて』はいる。だがササヅキとネーヴァンジュは年少組を使ってはいても、実質は養っていると同義だ。成人までとはいかないだろうが、しばらくは焦る必要ないのではなかろうか。彼らはそこまで鬼でないとレジーディアンは知っている。


「でも、ちびの私たちのやれることって結局はたいしたことじゃないから、養ってもらう分まで返せないんだ。その、レジーディアンと違って私たち、ササヅキに借金してる身だからさ」


 ……そうだった。


「そうだったわね。……ハルタ、これもあげるわ」


 両親と婚約者に手紙を書いたとき揃えた便箋と封筒を、見本の手跡に重ねる。


「え、いいよ、こんな高級な紙、高いでしょ」

「いいえ、わたくしがこれから行くところではこれではかわいらし過ぎるのよ。未成年用のものだからもう使う機会がないの。姫用にはならないけれど、本気の練習に使ってちょうだい」


 この気持ちは施しではない。昂揚と、これは。


(友への羽翼だわ)


 誇らしく胸が躍る。同じだ。自分は彼らと同じ、己で立つ者。分かち合う者。


 本当に自分は箱入りだった。ほかの子供たちはみなわかっていたのに。なんて見当違いな慈悲を振りかざそうとしていたのか。自分の手にはなにもないというのに。

 ここでの真の上位者はササヅキとネーヴァンジュだけだ。そして彼らの優しさは初めから限度があると示されていた。それは忠告でもあったと今更気づく。彼らは『親』ではない。


「あの人は初めから頼るなと言っていたわ……」

(そう、そういうことだったの)


 あえて突き放すことで、甘えで崩れてしまうのを防いでいるのだ。なんて厳しい。


「なに?」

「なんでもないわ。ハルタが早く仕事に就けるように祈るわね」

「ありがとうレジーディアン。レジーディアンも、婚約者が泣いて悔しがっても手が届かないようなかっこいい姫になれますように!」

「ふふふ」


 何度も礼を述べてハルタが部屋を去った後も、レジーディアンは微笑んでいた。

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