第10話 レジーディアン2-1
彼が。麗しい婚約者が。
《よつ石》の噂を確かめるべく、レジーディアンに靴下を脱がせた男。胸の桃石も見たがったがさすがに婚礼前の行動としては限界だった。ティルンガに売れば金になると……事業が上手くいっているというのももしや嘘だったのではないか。
館に籠もってろと命じたササヅキの言葉が蘇る。
『せっかく助けた命をむざむざ投げ捨てる気はねえぞ』
あれはそういう意味だったのでは。
人を疑うことは卑しいこと。高貴な娘のすることではないこと。
けれどいったん始まった疑心暗鬼はするすると次の疑いを連れてきた。
せめて父に伝えたら。私たちは騙されていると忠告できたら、レジーディアンの働きを讃えて、家でなくても領地のどこかに連れて帰ってくれるのではないか。
その夜は遅くまで布団にくるまって算段を練った。早馬を頼むのはいくらかかるのだろう。ここではただの未成年でしかないレジーディアンに馬を出してくれるのか。ササヅキの名を出せば信用されるだろうか。
明け方近く、我慢できずに起き出した。娼館の朝は早い。見送りで玄関がごった返さないように巧妙に時をずらして客を送り出す。姫たちはその後二度寝に入る。正しくは、姫は客の隣では眠らない。フリだけだ。なので朝寝は正式な休息時間である。
その見送りよりも前に、レジーディアンは部屋を出て、隣のササヅキの食堂に向かった。ササヅキの店も早い。まだ開店前だが内装準備がおしているので大わらわなのだ。その中にいたセリをこっそり呼ぶ。裏口に出てきたセリが「おはよう、どうしたのレジーディアン」と首を傾げるのをそっと押さえる。
「セリ、あなたササヅキと仲いいわよね」
「んんん? なに?」
「ササヅキの持ってるメダルを借りてきて欲しいの。第五王子直属部隊配属だった証明の。あと、早馬を頼めるだけの費用を貸してちょうだい。返すのはすぐにできるわ。ネーヴァンジュに預けてある分があるから」
「ササヅキに頼めば? どっちも貸してくれると思うよ」
「わたくしあの人と話すといらいらしてしまうの。セリなら大丈夫でしょう」
「いいけど、じゃあ説明して。後でぜったい怒られるのに理由も知らないままなんて嫌だ」
最年少のこの少女にどこまで理解できるだろうか。逡巡したが、早口に説明する。自分を陥れた婚約者を、知らずに商売付き合いしているであろう実家を助けたい、あわよくば自分の功績を認めて必要だと感じてくれるのではないか―――口にするうちに、浅ましい気分になった。でも婚約者が許せない。
セリは大人しく聞いていたが、レジーディアンが言葉を切ると、難しい顔をした。この子は自分の半分も生きていないのに時折とても大人びた表情をする。
「あのさ、レジーディアンの婚約者って、そのあたりじゃレジーディアンの家より格式高くて名家なんだよね?」
「そうよ。我が家にはもったいないほどの良縁だった。それがまさかこんな理由だったとは思わなかったの」
「うーん、ちょっと思ったんだけどね、お金もあるんだよね」
「ええ、彼の実体はわからないけれど、ご実家は本当に立派でおじいさまは大地主でもあるわ」
「あ、ごめん、レジーディアンのほう。でもやっぱり、そしたら婚約者のひとの単独じゃなくて、レジーディアンのおうちも共謀した可能性、ないかな。そのひとに恩を売れれば、しかも犯罪の証拠でも握ってれば、そのひとのおうちに恩が売れるでしょ。レジーディアンが嫁に行くのは恩を売られる側でも、これならより強固な恩が売れる側になれる」
雷に打たれるひとは、どんな気分なのだろう。一瞬で死んでしまうなら、なにも感じないだろうか。
「そんなはずはないわ。わたくし、両親には愛されて、大事にされて、いつも」
「愛してくれる両親でも、子を売るよ」
セリの目には同情が宿っていて、そんなものとても受け取れない。
けれどここにいるのは愛されても疎まれてもすべて親に売られた子供たちだ。
気がついたら自分のベッドに運ばれていた。目覚めたレジーディアンを覗き込んだのは青ざめたセリだった。
「セリ……」
「ごめんねレジーディアン。ササヅキに怒られた。『言葉を選べ』って」
身を起こすと腰にクッションをあてがわれた。
先ほどの会話が蘇る。一瞬怒りが駆け抜けたが、すぐに消えた。昨晩の興奮は遠い。
「いいえ、セリの推測は、きっと真実だわ……。わたくしが考えたことはわたくしの都合のいい展開だもの。迎えなんて」
初めの連絡で、見限られていたのだ。それが覆ることはない。そう考えれば筋が通っているのはセリのほうだ。
「うん。ササヅキは、レジーディアンが正しくてもあたしのが正しくても、レジーディアンが気がついたことを婚約者のひとにも実家にも知られないほうがいいって。早馬も出すなって。もしその婚約者が集団売買に絡んでたらあぶないって。ササヅキからヨークンドに連絡取るからなにもするなってさ」
「ええ。もういいわ。わかったの。―――セリ、大丈夫だからひとりにしてくれる?」
「……うん、わかった。おなかが空いたらこっち来てね。ササヅキが特別ごはんを作って待ってるから。おいしいよ」
「ふふ」
そっとドアが閉められた。鍵をかけなければ。けれど力が入らない。ベッドで身を起こしたまま、膝を抱えた。涙が止まらない。ひとりだと思った。手紙と小刀。あの時も切り捨てられた悲しみに胸が張り裂けそうだったのに。いまは空虚がここにあるだけだ。胸に触れると穴が空いていないのが不思議になるほど。
指が桃石に当たる。こんなもののせいで、安穏とした日々を手放すことになるなんて。
そうだろうか。いったいいつからの計画だったのか。《よつ石》は本当に珍しいのだ、レジーディアンが思っていたよりきっとずっと。父にとって娘は商品で、高く売れるタイミングを測っていたのだろう。富豪でも貴族ではない。もし地位と引き換えになるならば何でも払うつもりだったのか。
ほんとうにひとりだ。
なんの展望もないまま娼館の一室で泣く自分が惨めだ。とっくに現実を受け入れた少女たちに比べて自分の楽観はなんの根拠もなく。いや、あったのだ、今朝までは。なんだかんだいっても両親は自分を助けてくれるだろう、振り向いてくれるだろうと信じていた。その根拠はとうに失っていた。
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