第9話 セリ2-4

 あたしがササヅキについてる間にハルタはペンと紙を買ってきてレジーディアンに神聖文字と挨拶などの定型文を書いてもらい、それを見本に石板で練習していた。レジーディアンの手跡はとてもきれい。貴族に生まれるとああなるのだろうか。あたしも16歳になったらあれくらい優雅に書けるのだろうか。ハルタほどは頑張れないあたしの石板を見る限り望み薄だ。


 文字を覚えるのは大変だ。基本神聖字が32文字もあって、それが組み合わさると何通りもの単語になって、さらにそれを並べたりつなげたり変化させたりするのだ。喋ってる言葉と同じと言われてもぴんとこない。


 その点数字はわかりやすい。基本神聖数字が10個あって、組み合わせでものの値段を比べたりどれを何個食べていいかわかる。規則性があって例外がない。でも初めに教えてもらった加算減算だけじゃ全然足りなくて、寄付という名目の追加授業料を払って、乗算と除算を学んでやっとホントの基礎が揃うので、ちょっと狡いと思う。

 そう言ったらマーナに「変な子」って言われた……。ハルタにも算術は無料分だけでいいやと苦笑いされた。でもハルタは語術で道が開けそうだからそれもそうだろう。


 いいな、ハルタ。


 たったひとつしか違わないのに、ナリアン先生から代書業はどうかと提案されて、目を輝かせていた。

 算術、役に立つんだろうか。なにか仕事ができるんだろうか。じわりと不安が襲う。一番ちいさいあたしは一番長くササヅキに依存する。一番多額の借金になる。

 ……いいもん。食堂手伝うからなんとかなるもん。たぶん。





 冬の中頃、ホーリが後月からキリア教に入信することに決まった。


 ホーリは箱から出た日からずっと泣いていた。それでも秋の間は娼館の水汲みや下働きはなんとかやっていたけど、冬に入ってからだんだん手が付けられなくった。一日中布団で泣いていて、ご飯も食べない。

 泣き声に「帰りたい」「おかあさん」と混じるので、たぶんもともと離れたくなかったんだろう。女工の年季明けには帰るつもりだったのかもしれない。でも今回、家からの迎えは(当然)なく、先の見通しはない。ホーリは耐えられなくなったんだろう。ホーリと同郷の子はいないので、もともと弱いのか箱に閉じこめられてたせいなのかわからないけれど。


「あいつは教会が引き取ってくれる。人の出入りがはげしいここにいるより、そのほうがいいだろう」


 ササヅキが諦めたように宣言した。レジーディアンは『見捨てる』ことにショックだったらしく一瞬表情を険しくしたけど、言葉では責めずに唇を噛んだ。


 だってレジーディアンだってホーリを救えなかったのだ。あたしたちはみんな自分のことで精一杯で、誰かを助けるなんてとてもできない。余裕があるのはササヅキだけで、そのササヅキだって既に充分手を割いてくれている。引き取ってもらうと言ったって、実際は寄付も渡す。ホーリがここで作った借金プラス寄付金はササヅキの持ち出しになる。借り入れ帳に寄付額を書き込んで、その後ろを棒線で消し込んだ。


 そうだね、ここはいい街だ。余剰があって善意が生を賄う。


 ―――ホーリはどこにもむいてない。役立たずはひっそりと処分され、幼くても動けば人買いに売られる。生まれた村ではあたしたちは選べず病めず働くしかなかった。ホーリの村もそうだったはずだ。もし女工になっていてもやっぱり病んだだろう。


 文字も数字もなくても動く身体があればあの村なら生きていけた。あたしたちの歳なら頭を使ってものを考えるということを、する必要がなかったのだ。母親の指示に従って家を調え、家畜の世話を焼き、畑で雑草を抜く。水を汲んで運ぶ。川の桟橋で洗濯する。妹たちの遊び相手になる。寝かしつける。

 まるで違う世界だ。

 ほんの3ヶ月前まではそこにいたのに。




 冬が終わる頃には新年からの目処がたった。

 ミトラとドゥーネとあたしはササヅキの手伝い。下拵えと掃除、ホールの接客。


 ミトラはもともと料理が好きで、ササヅキが食堂を始めると知って頼み込んでた。ずいぶん渋られてたけど、それでも冬の準備期間にはひたすら娼館の食堂(こっちは中の人用)の手伝いで少しでも技術を上げようとがんばってた。家族用を作るのと、大人数用を作るのは手順から違うそうだ。


 ドゥーネはパン作りのため、朝は娼館で、昼以降はササヅキの下に入ってる。もちろんどっちの料理人もパンを任せるほど寛容じゃない。素人だからね。だからやってることはミトラと一緒。


 マーナは基礎が終わる前に教会通いを止めてしまった。冬に9歳になってすぐ、ハーケルンの伝手で周辺部の農家に勤めに出た。ただ、あたしとひとつ違いのマーナも小さい。どうしても力仕事は戦力にならない。それでもマーナはここに残るよりいいと言って出て行った。マーナはササヅキが嫌いだ。苦手、かな。だからだと思う。


 ノイルは家でも家畜の世話をしていたということで、裏庭でマーノンの手伝いに精を出している。マーノンは娼館の厩と家畜を切り盛りしている人。だからノイルは実質娼館で雇われた形だ。マーノンが言うには、馬と相性がいいので、お客さんの馬を預かるのが楽になったそうだ。このまま居着いてくれると助かるらしい。マーノンはけっこう歳なので、世話のこつは得ていても、日々の掃除なんかは大変みたい。




 ときどき、なんでこんなに必死になったり不安になるのか不思議になる。


 なんで生きたいんだろ。


 不思議だけど、死にたくなかった。家族から売られても、口を塞がれて箱の中で逃避していても、死にたいと思わなかった。もっと死んだ方がマシと思う目に遭えばそう思うのかな。

 それでも、いろんなものが止まったままだったのがやっと動き出した気がする。ホールの掃除、厨房で洗う野菜の順番、剥いたり擦ったり水にさらしたり叩いたりの下拵え、下げた皿の洗浄。馬を連れた人の引換板や宿を希望する人の案内、ベッドメイク。

 やることはいっぱいだ。でも、やることが決まったのがうれしくて、半年前までの、家の手伝いから何とかして逃げだそうとしてた自分とあんまり違って笑ってしまう。

 がんばるよ、ササヅキ。

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