第8話 セリ2-3

「俺は円満退役したの。ホラ、ここな、こめかみから顎までざっくりグチャグチャだろ。眼球こそ無事だったが、視神経と瞼をやられた。視界が狭い。一月ほど野戦病院にいたが、傷病者は兵役免除されるんだ。だからまあ、年季明けってのは嘘だが、こんなの説明されてもわかんねえだろ」

「うーん」


 まず間違いなく聞き流しただろう。軍の勤務規則なんて説明されても、ねえ。


「というわけで、俺の開業資金は無事確保できたから、明日から内装入れて準備だ」

「ササヅキは調査はしないの?」

「それを誘ってたんだがね」


 イスに座り直したヨークンドがカップを傾けながら首をすくめた。

「俺は引退したの。内装も備品も支払い止めて待ってもらってたからな、そんな時間はない。諦めろ」

「ハイハイ」


 ササヅキは軍人を辞めて食堂を開くために故郷に帰ってきたのだ。繋がった。用心棒といったクセにほとんど娼館にいなかったのはでまかせだったからだ。


「じゃあササヅキ、あたしササヅキの手伝いできる?」

「店のか」

「うん。ネーヴァンジュの手伝いだけだと返済ぜんぜん足りないし、まだ外に働きに行けるほど勉強できてないんだもん」


 街へ来て驚いたのは、識字率の高さだ。あたしの村では村長様くらいしか読めなかったのに、ここでは自分の名前くらい当然書けるという人ばかり。日常的な短い文章なら書けるという人も多い。鏡文字を書いてしまうあたしのレベルではまだまだ足りないのだ。


「といっても掃除くらいしかまだやることないな」

「いいじゃないか、この子面白いよ。ササヅキの心配してわざわざ来たんだろ、それもひとりで。一番小さい子なのに」


 確かに一番小さいけれど、面白いとはどういう意味かわからない。


「この年の女の子が群れないなんて珍しいだろ」

「ヨークンド、お前変なことに気がつくな、確かにそうだ。なんでひとりで来た。なにが気になった?」

「だって他の子がビックリするような話だったら悪いから。ササヅキ仕事もしてなくて、お金大丈夫なのかなって思ったんだもん。でもひとりで来て正解だったよ。ひとり頭中銀貨2枚で、残りが小銀貨1枚なら、すぐ返済できるレジーディアン抜かしても中銀貨17枚以上負担してるってことでしょ」


 この部屋へ来たときにした質問をもう少し効率よく話せた。

「それ暗算か?」

「暗算ってなに?」

「紙や計算機を使わずに頭の中でだけ計算する方法だ」

「うん。紙もペンも計算機も持ってないもん」


 ニヤニヤ聞いていたヨークンドが身を乗り出してきた。


「そりゃすごい。……って、え? 教会で配られなかった?」

「授業中は石板と石筆を貸してくれるよ。だけど終わったら回収するから持ってないよ。地面に書いたりして復習してる」


 ふたりがぐっとこっちを見るのがちょっと怖い。なんか変なこと言ってるだろうか。


「みんなか?」

「持ってないのが? 復習してるのが? みんな持ってないよ。復習してるのはあたしとハルタだけ。ハルタは本が読めるようになりたいんだって。昔おばあちゃんが本をくれて、文字も教えてくれてたけど死んじゃったから忘れちゃったんだって」


 その本ももうハルタの手元にはないけれど。家を出たときに持っていたものはみんなすべてなくしてしまった。


「へえ、その辺の子より熱心じゃん。ハルタって子はいくつ? 僕がふたりに石板と計算機を買ってあげよう。ああ、施しじゃなくて投資だよ。教会の勉強がもの足りなくなったら王立学校に来るといい。推薦してあげるよ」


 勉強道具はうれしいけれど、曖昧に笑った。学校というのが教会より本格的に勉強する施設だとはニュアンスでわかる。

 けどいま既に借金で暮らしてるのにそんなところに通う余裕、どこを捻ってもでてくる気がしない。でももらえるものはもらっておきたい。銀貨1枚で着替えとこまごました生活品を揃えて、ちょっとしたお菓子を買えるお小遣いを残しておきたい。


 なんとここにはお菓子や甘いパンが売ってるのだ。お腹がいっぱいになってしかも甘くてふわふわしたクリームやハチミツやジャムが挟まっている。夢のよう。10日に1度でいいからあれを食べたい。ちなみに同じように教会帰りに菓子パンを食べたドゥーネは「パン屋に就職する!」と息巻いていた。気持ちはわかる。


「まあ、ササヅキがこの店開くのに用意した軍資金はそんなもんじゃないから、その辺の知識が追いつくと面白いな。見たことのない小金の計算ができるなら、大きい金額のイメージもすぐつくようになるさ。これは向きと慣れだからな。ササヅキが教えてやれよ」

「ああん?」

「見習いに雇えよ。鍛えたらチョーダイ」

「俺は親じゃねえんだよ」




 でも結局は雇ってくれた。まあ使い走りだけどさ。次の日から細工屋や問屋や大工組合やなんやかやと伝書鳩になって駆け回り、内装の打ち合わせをするササヅキの隣で話を聞いたり、減価償却とか製造原価とか維持費とか光熱費とか廃棄率とか初めて聞く言葉を暗記したりササヅキのかけた費用がどう動いてどれくらい稼いで何年くらいで増加予定なのかという計画をみっしりたたき込まれる。


 理解はしなくていいとは言われた。そこに動くお金の動きだけわかれと。商売を始めるというのが想像以上に手間とお金がかかるということはわかった。

 それからいちいち現金を用意するのではなく、銀行に預けたお金を書面でやりとりすれば安全に支払いができるというシステムも知った。現金運搬中に襲われる危険から守られる反面、預けることで手数料が発生するので一概に素敵とは言えないが、支払い能力が認められれば期限付きで借り入れもできるというからすごい。


 父さんがツケでお酒を買ったりする事はあったけれど、こんな仕組みは村にはなかった。ササヅキはこれを真似てあたしたちに融資をしてるのだという。


 備品が届く前に3階建ての建物全体に害虫除けの薬を塗っていく。背の高いところはササヅキや臨時雇いの人がしたけど、あたしたちの届くところは総動員で働いた。直接返済のチャンスだ。前に嗅いだ獣避けに似たツンとする緑色の薬品をびしゃびしゃになるくらい濡らして回って、その日はみんなオフロに入っても臭いが取れなかった。


 2日後から備品が届き始めた。食堂だけでなく2階と3階を宿屋にするので、テーブルやイスだけでなくベッドや書きもの用の机が運び込まれる。

 マントをかけるフックはササヅキが自分で釘打ちしていた。以前の家なら父さんがしていたようなことだが、この街では業者にお任せするのが通常なのでササヅキは職人さんたちから妙なとこで吝嗇だなと笑われていた。

 けど、減らせる出費は減らしたいっていうのをあたしは笑えなくなってた。ササヅキが軍役中に貯めた開業軍資金もくらくらしたけど、減りっぷりはぐらぐらだ。中銅貨でおやつパンを買うか止めるか迷う身としては吐きそうなレベル。


 しかもササヅキは言わなかったけど、あたしたちのいったんチャラになった借金は、その日のうちから生活費でマイナス増加してて、この先も全員がよそへ働きに出られるまで止まらないのだ。吐きそう。


 娼館から繋がってる扉の隣にあるせまい階段。これを上ると小さな部屋がいくつもあった。3階には広い部屋もある。どの部屋にも入れたての家具が鎮座ましましてる。広い部屋の前でササヅキがいった。


「ここをお前ら用にしようと思う。個室にしてやってもいいけど、その分料金は取るぞ。どうする」


 娼館から移ってくるのはあたし、ハルタ、ノイル、ドゥーネ、ミトラ。この広さなら全員で使える。

 みっちり並んだ5つのベッドとその下の木箱とカゴ。それがあたしたちの現在のすべて。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る