第5話 レジーディアン1-2
安堵からか水浴びの冷えからか、翌朝から熱と悪寒で朦朧としていた。その後の移動で更に足を痛め、歩けなくなったのは自分だけという再び理想とは大違いの惨めな現実に打ちのめされ、それ見たことかというササヅキの顔が憎らしい。
年下の少女たちに心配されたのも悔しくみっともない。挫折を隠しつつ心配する幼子たちに微笑んだ。あくまで優雅に、高貴さを損なわぬように。マルケランカに着いてからも庇護者としての腕を振るう機会はなかった。麻袋の中で手足を拘束されたレジーディアンは無力だった。しかし解放されてからも全くの無力だ。自分が力だと思っていたものはなんだったのか。
ここでもレジーディアンには個室が与えられた。姫用の部屋だと、娼館の主でありササヅキの姉になるネーヴァンジュに説明される。
「ササヅキから頼まれてるよ、タダってわけにはいかないけれど、ここをお使い」
当然狭く小さい部屋だったが、他の子供たちは床で丸まって眠っている。レジーディアンはそうはいかなかった。移動中の箱馬車では眠りが浅く、身体が軋む。一日目にして降参した。しかし他に方法はなかった。ササヅキは車輪にもたれて眠り、幼子は木の枝や土の上に寝床を作っていた。慣れの問題だからと慰められたときには絶望的な気分になった。本来ならば情けをかけるのはこちらのほうなのに。
「ウチのみせは客と姫が一緒に部屋に向かうから間違ってこっちに来ることはないけれど、中から鍵はかけておいたほうがいいわね。それから服も、後で誂えてあげよう。古着でもいまよりはまともに着た気になれる物をね」
見抜かれていた。1枚のワンピースに軽い上掛け、ドロワーズの他にシュミーズと、ササヅキはレジーディアンには他の少女たちよりはるかにマシな一式を用意してくれたが、すぐ下が素肌というのは心許ないし、なにより寒いのだ。
「わたくし、これでほかの子より債務が増えるのね」
「ああでもササヅキが言ってたけどね、状況が違うからあんたは迎えが来るだろうし金の心配はいらないだろうってさ」
「そうね……早くお父様に連絡が行くといいのだけれど」
やっと家と連絡がとれるのだ。
どれほど心配しているだろうか。ふたりの姉より末子の自分がかわいがられていたという自覚はある。家は姉婿が継いだが、レジーディアンの婚約者は家より歴史ある大きなお宅の次男だ。自分で事業を興して評価も高い。直継ではないが破格の縁談と言っていい。
「他の子たちも早く迎えが来るといいわ。みんな心細い思いをしているでしょう」
粗末な暮らしに音を上げたのはレジーディアンだけだが、唯一の頼りがササヅキという現状は非道過ぎる。憤慨を込めつつ、声は荒らげないようにネーヴァンジュに続けると、なんとも言えない顔をされた。
「わたくしへんなことを言ったかしら」
「ええと、『おやさしい言葉』だとは思うんだけど、あの子たちは自分でどうにかするしかないから気にしないことだよ」
「どういう意味かしら」
「迎えが来るのはあんたひとりだからね。……いや、そうだと良いねと思うよあたしもね。でも、あの子たちには言わないで頂戴。本人たちが口にしない望みを暴くのは非道だよ……そうね、これは娼館のルールでもある。他の姫にも不用意なことは言わないでおいて。それで傷つく娘はいないけれど」
意味はわからないが、馬鹿にされたのとも違うが、レジーディアンには納得しがたい要請だった。しかし止められたことを知らぬ顔で続けるような愚かさを披露する気はない。娼館など本来なら身分ある淑女が足を運ぶ場所ではない。けれど憐れまれ、助けられているのは自分。
レジーディアンは口を噤んだ。
じりじりと手紙を待つ日々だ。父と婚約者への手紙はネーヴァンジュが用意してくれた簡素だけれどリボンの箔の入った便箋ですでに送った。まだ届いてすらいないだろう。ここはずいぶん西寄りだ。王都に近い。ひとりで部屋にいても仕方がないので、朝食後はロビーで外を眺めながらぼんやりと過ごす。他の子供たちはネーヴァンジュの指揮に合わせパタパタと走り回り用事をこなしていたが、すべてレジーディアンにはできないことだった。
いや、本当は、できることなのかもしれない。
しかし無力を知ったレジーディアンには早く以前の暮らしに戻ることしか願えなかった。ネーヴァンジュもササヅキもなにも言わなかった。
その日もぼんやりと外を眺めていた。郵便屋が配達にきたのは午後まだ浅い時間。差出人はレジーディアンでも、元第五王子直属特別部隊第二隊隊長という肩書きのササヅキの名で早馬に乗せた手紙はかなりの緊急便で届いたようだ。返答もみなの想定よりかなり早く戻った。厳重に封された木箱を逸る手で開けると、油紙に包まれた小刀が転がり出た。
意味がわからず、ぎくりとする。慌てて同封されていた手紙を開くと書記の代筆ではない、見馴れた手跡が現れた。懐かしさに胸が熱くなる。ほんの3ヶ月前なのにとても遠い。
しかし内容は想定外のものだった。父と婚約者の連名で届いたそれは中にそれぞれと母の手跡で別々に、心配と労いと、そして婚約破棄が記載されていた。
「……どうして?」
自分も最初に疑った純潔の喪失。その潔白を証明できないまま社交界に戻るのはレジーディアンの名誉に傷が付くだろうと、嘆き心配する言葉で綴られていた。自分の手紙ではあえて触れなかったのだ。それこそが何事もなく済んだという証になるだろうと。しかし彼らの文面からは、それは有罪と決定づけられ、慰めと嘆きが聞こえてくるようだった。心身の療養にと、より西にある親戚の別荘へ行くことすら勧められた。
迎えにくる気などさらさらない。婉曲に断言されていた。
まさかと思った。甘やかな愛を囁いた婚約者の、嘆きに見せかけた掌返しも、醜聞に傷つくのはお前だから遠くにいるほうがむしろいいだろうと説得する父の手跡も。母ですら女の幸せを二度と得ることのない娘への慰めばかりが並んでいた。
二度と。
(わたくしは誰にも犯されていないわ。辱めは受けたけれど、でも)
理解が全身を冷やしていく。ここで自害せよと暗に込められているのだ。真実など関係なく、レジーディアンは見捨てられた。
そう、結局、自分に敷かれていた路は適度な社交と跡継ぎの生産。あの田舎の社交界などさぐり合う腹はない。レジーディアンの実家は周辺一帯の権力の頂点であり、その果実を家名を繋ぐことで手に入れた―――入れていた―――婚約者に対抗する者などいなかったのだから。いくらでも周囲を黙らせることが可能な筈だ。だのに。
(わたくしの価値はそういうことなのね)
わたくしにはなにもない。
けれど帰りたい。レジーディアンの故郷はあの長閑な田園風景で、裏庭の薔薇園は毎年新年から庭を彩って、庭師が誇りを込めてレジーディアンの部屋に飾る分を剪定していたのだ。
同封されていた小切手―――なんのための金なのか、ササヅキへの謝礼なのか行けという親戚への馬車代かそれとも―――を換金してもらうため、ネーヴァンジュに託した。高額だったのでほとんどは銀行に残してきたと言われたが、それでもネーヴァンジュとササヅキに借りていた分を返してもまだ充分な硬貨が手元に残った。
「銀行にもまだあるのね」
自分で現金を持ったことなど初めてだったが、ここから故郷に帰るのは足るだろうと思った。
「たっぷりね。だけど風向きが怪しい。あんたは戻りたいだろうが、もうしばらくここにおいで。ササヅキからも帰らせるなと言われてるの」
「あのひとの指図は受けないわ」
見透かされた上に『帰らせない』という言葉にかっとなって強く言い捨てた。しかしやはり自分ではなんの準備もできない。銀行での金の下ろし方も、護衛を頼む方法も、街を出ることすらできない。
打ちのめされて、自室で悔し涙を流した。
ここにはいたくない。そう思い、他の宿に移りたいとネーヴァンジュに訴えた。彼女は肩を竦め、通りがかったノイルに「ササヅキを呼んできて頂戴」と言付けると、ロビーではなく中のテーブルに呼ばれた。
「あのひとはもう関係ないでしょう」
借りたものは返したのだ。もう縛られる謂われはない。
「まあそうもいかないのよ。あの子から説明をうけて」
ほどなくして現れたササヅキに同じことを訴える。ネーヴァンジュの淹れた
「あのなお嬢ちゃん。ちっとは頭使ってくれ。なんで誰も迎えに来ない? よしんば迎えでなくても、親戚んちに行けったって、使いくらい寄越してもいいもんじゃないか。醜聞を隠したいなら方法なんていくらでもあるはずだ。
この誘拐事件はおかしい。全容が明らかにならないうちは駄目だ」
心の底からバカにしていると全身で表しながら懇々と黙らされる。だがレジーディアンはもう考えたくないのだ。帰りたかった。帰ればなんとかなる。そう思っているのも見透かされていたのだろう。その後からは誰かしら子供たちが付き添い、ひとりになるのは眠るときだけ、それも外から鍵を掛けられた。
軟禁に近い生活に、レジーディアンは口にこそ出さなかったが不義理な婚約者を呪い両親を呪いここの人間をも呪った。
鬱々と穏やかでやさしい世界だった過去を手繰る。せめて彼だけでもここに現れないだろうか。首元の黄石をそっと撫で、愛の証にと足首の碧石にキスを落とした彼が。
閃くものがあった。誘拐の手引きは婚約者だったのではないか。
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