第2話 さとみと由香への告白

                  七

 カーテンの透き間からいく筋もの光がベッドの白いシーツの上にはしごのような形を作っている。あれほど重い一日も、終わってみれば、ごく普通の朝に迎えられる。昨夜の苦悩の残滓が浅く短い眠りの中にまだ残っているけれど、独り者の朝は、案外やることが多い。歯磨き、洗顔、トイレ、朝食の用意、生ごみの処理等々。あっという間に出勤の時間になる。

 その日から3日間、良太は残された短い未来に果たして自分は何をしたいのか考えてみた。もちろん、仕事をしながらではあるけれど。しかし、いざ考えて見ると、思うようなことは浮かんでこなかった。

 旅に出る。銀座で遊べるだけ遊ぶ。世界の美術館巡りをして過ごす。大好きな小説を買い集めて読書三昧で過ごす。最後くらい社会貢献に全力を注ぐ、などなど。人生の残りの時間が短くなるほど、人は幸せに貪欲になるのだろうか、いろいろなことが浮かんでは消えるが、一向に決まらない。

 どれも現実的で実行できそうなことばかりではあったが、果たして本当にそんなことがやりたいのかと自分の心に問うと、ノーという答えが返ってくる。どれもが、なんだか違うような気がする。結局、決め手になるものが思い浮かばないまま、あっという間に3日間は過ぎた。

 特に焦る必要もなかったので、見つかるまで引き続き時間を取ることにしたが、とりあえずは、やらなければならない身辺整理に手をつけることにした。

 突然死ぬということはなさそうではあったが、なにせ独身で過ごしてきた身である。死後に自宅マンションに訪れた娘に見られたくないものだって、やはりある。それに、今度入院したらもう戻って来られそうもないので、やはり、身辺整理は必要だった。

 まずは、パソコンの中の整理から始めた。しかし、これが意外と大変だった。必要のなくなったものは、その都度消していたつもりだったが、そこには自分の過去が堆積していた。覗き込んだ過去の中には、自分でもなぜこんなものに興味を示したのかわからないものや、今となっては気恥ずかしいものまで紛れ込んでいた。すると、思わず整理の時間を止めて、当時の感情に身を任せてしまうため、なかなかはかどらないのである。

 昨夜は古い手紙やハガキを整理した。もはや年賀状でしか繋がっていない昔の友人、遠い海外へと旅立った人、本人の声が耳朶に蘇るほど鮮烈な印象だった恩師、濃密な時間を共有した元恋人。大事な人の手紙は、今でも良太の網膜の中でそれぞれの存在感を示すのだった。それでも、整理すべきものは捨てることにした。そんな作業が終わった時、この後の短い未来に何に時間を使うべきかがふっと閃いた。これを探していたのだと気づいた。気がつくと部屋の中はか細い光が弾けて、夜が一面に広がっていた。

 ただ、それを決行するためには、その前に片づけておかなければならないことがあった。協力者も必要だった。

 翌日、今後の会社の戦略のこと人間ついてじっくり打ち合わせしたいと専務の大垣芳樹を自宅に招いたのは、そのためだった。自分と同じように最後まで会社に残っていた大垣に声をかけ、良太の自宅まで一緒に帰った。これまでも、大事な話を良太の自宅で行ってきたので、大垣に違和感はなかったようだ。

 自宅に着くと、『社長、一本だけ電話をかけさせてください』と言って、先ほど入ってきたばかりのリビングを大垣は携帯を耳にしながら慌てて出て行った。恐らく、奥さんに電話しているのであろう。何も、ここで電話すればいいのにと思うが、大垣はそれが礼儀だと思っている。大垣はそういう男だった。しかし、そんな大垣だからこそ、良太は彼の家庭のことが心配になる。今のところ、大垣から家庭の中に問題があるとは聞いていないが、良太が家庭をないがしろにした結果離婚したこともあって心配なのだ。大垣には自分と同じ過ちは犯してほしくない。電話を終わった大垣がリビングに戻ってきたが、気のせいか表情が冴えないように見える。

「専務、ちゃんと家族を大事にしているか?」

「どうしたんですか、社長。そんなこと聞かれたの初めてですよ」

「いや…。俺のところのことがあって気になった。お前のところまで不幸にならないでほしい」

「本当にどうしちゃったんですか、俺のところは大丈夫ですよ。社長と違って、せっせと家族サービスに勤しんでいますから」 

 よほど驚いたのであろう。大垣は学生時代のような口の聞き方になっていた。

 良太と大垣とは、大学時代のヨット部の先輩後輩の関係だった。良太のほうが二学年上になる。良太が部長だった時に、新入生の一人として入ってきたのが、大垣だった。とにかく真面目で、真剣に物事にあたる姿勢が好感が持てた。一見、小さくまとまった男のように見えるが、考え方はスケールが大きかった。一応「部」にはなっていたが、その実は同好会ような小さなサークルで、こじんまりと活動をしているだけだったのに、大垣はオリンピックに出場しましょうと言ってのけた。残念ながら、自分たちの在学中にその夢は叶わなかったものの、彼が築いた基礎のおかげで、これまでにわがヨット部から二度オリンピック出場者出しているのである。

大学卒業後は、当然であるが、それぞれ別の道を歩んでいた。良太は総合商社へ、大垣は大手スポーツ用品メーカーへと就職していて、年に一度年賀状を交わすだけの間柄となっていた。しかし、良太が独立を考えた際、その相棒として真っ先に頭に浮かべたのは大垣のことだった。当時、大垣が営業部の課長補佐として活躍していることは年賀状で知っていたので、良太の会社に来てくれる可能性は低いと思われた。それでも良太は、大垣に声をかけずにはいられなかった。声をかけずに諦めてしまうと後悔するとも思った。

 ある日曜日の午後、年賀状に書かれた電話番号を確かめながら電話すると、本人が出た。

「もしもし、畑中だけど」

 電話の向こうで沈黙があった。

「畑中って、良太先輩ですか」

「そう。思い出してくれた?」

「ええ。でも、全然声が変わっていたので、気が付きませんでした。すみません」

 自分の声が変わっている? 意外な反応に驚いたが、今考えれば、すでに当時から自分の身体には異変が起き始めていたのかもしれない。

「そうか? そんなこと言われたことないんだけど。まあそれはともかく、懐かしいいなあ。一度会いたいんだけど、時間取れるかな」

「もちろん、大丈夫ですよ。ぜひ会いましょう」

 それから2週間後に、二人は神田の喫茶店で会った。話が話なので、酒を飲んだ席でするのが嫌だったので、まずは喫茶店で話すことにしたのだ。大垣は、見た目はすっかりサラリーマンになっていたけれど、近況を話す大垣のまっすぐな目に、学生時代の面影を感じることができた。良太はその場で、自分が独立すること、その片腕として大垣に一緒にやってほしいと話した。妻にプロポーズした時以来の一生懸命さで、その思いを伝えたつもりだったが、大垣は静かに聞いていた。時々、良太の話に頷く仕草を見せてはいたものの、強い関心を示しているようにも思えなかった。そんな大垣の反応に、良太の自信も揺らいでいくばかりであった。すべてを話し終わった時、良太はどっと疲れを覚えた。途中で駄目だろうと思いながらも続けたせいで、なんだか変な疲れに襲われていたのだ。ところが、意外なことに、大垣の答えはイエスだったのである。

「先輩の役に立てることができるのなら、喜んでやらせてください」

 と、ひとつ返事だった。あまりにも簡単に引き受けてくれたので、

「そんなに簡単に引き受けちゃっていいのか」

 と、自分で声をかけておきながら、良太が心配する始末だった。彼の頭の中にあったのは、いつ会社を退職できるかという心配だけがあり、それが顔を曇らせることになっていたらしい。以来、今日まで、良太の片腕として、会社を支えてくれている。

「そうか…、それならいいけど…」

「そんなことより、早く打ち合わせやりましょうよ」

 資料でパンパンになったカバンを軽く持ち上げながら言う。

「わかった、わかった。で、飲み物は何にする?」

 すでに食事は会社の近くの店で済ませていた。

「いや、何でもいいです」

「じゃあ、ウイスキーにしよう」

 二人とも酒飲みだ。自宅での打ち合わせには、酒が欠かせない。良太がキッチンで水割りのセットとつまみの準備をして戻ると、大垣はテーブルの上に書類を並べて待っていた。やる気まんまんのその姿を見て、良太は自分がこれから話すことを考え、申し訳ないと思う。

「社長、どの件からやりますか」

「まあ、一杯やってからにしよう」

 大垣が二人分の水割りを作り、軽く乾杯をする。ひとしきり、お互い無言でつまみを食べながら水割りを飲む。こんな時間がすごく贅沢で、愛おしいと思う。ずっとこのまま黙っていたいとも思う。でも、そうもいかなかった。

「今日はまず専務の考えを聞かせてほしい。この先、わが社をどうすべきか、どんな戦略がふさわしいと思うか、聞かせてほしい」

 これまでも、会社の方針や戦略について二人で議論を交わしてきた。しかし、それは、良太がまず自分の考えを述べ、それに対して大垣が意見を言うという形だった。なので、今日は大垣の頭の中にある、きっとスケールの大きな展望を聞いてみたいと思ったのである。

「私の…、ですか」

「そう、君の。君ならきっとこの会社をもっと羽ばたかせてくれると思っている。だから、今日はそれを俺に遠慮なく聞かせてほしい」

 大垣はいつも良太に遠慮して、一歩下がったところで動いてくれていた。それを、良太は知っている。

「わかりました」

 そう言って大垣は顔を引き締め、持論を堂々と展開した。それは、良太も考え及ばないような、先を見据えた見事な戦略だった。すべてを聞き終わり、良太は、この後自分が話すことは間違っていなかったと改めて思った。

「なかなか素晴らしい。一見、突拍子もないようなものに思えるけれど、情勢分析もしっかりできているし、わが社の特徴を最大限活かすことができるものになっているね。安心したよ、大垣。会社のこの後のことは頼んだよ」

「えっ、社長どういうことですか」

「だから、俺は社長を降りるから、大垣に社長を引き継いでほしいということだ。俺の株式もすべてお前に譲る」

「いや、いや、いや、今日の社長はおかしいと思っていましたけど、突然何をおっしゃるんですか」

 心底驚いたという顔をした大垣は、良太の言葉の意味を確かめるように背中を棒のように立てている。

「確かに突然で、それは申し訳ないとは思う。でも、本心なんだ。もちろん、理由がある。これからその理由を話すから聞いてほしい」

 何かを察した大垣の顔に緊張が走るのがわかった。良太は、自分が今胆管がんで、しかもステージ4であり、余命半年と医者から宣告されたこと。だから、最後の半年は、自分のためだけに使いたいと、正直に、しかし、湿っぽくならないよう、極力淡々と話した。

 夜全体が息をひそめたかのように、先ほどまで窓を叩いていた風が止み、室内は良太の言葉だけが浮き上がっている。大垣は先ほどから身動きひとつせず、じっと良太の話に耳を傾けている。良太が独立する時、一緒にやらないかと話した時の大垣と変わらない姿だった。あの時と同じように、大垣はただ黙って良太の話を聞いている。だが、その顔が次第に歪んでいった。堪え切れなくなったのだろうか、大垣の目に涙が浮かび、薄い唇がわななくように震えている。

「大垣泣かないでくれ。俺は今、この半年を前向きに考えている。というか、半年では死なない。もっと生きてやるさ。考えてみれば、何にもとらわれずに、自分のためだけに自由に時間を使えることなんて今までなかった。だから、嬉しいんだよ。そのことに気づかせてくれた病気に感謝している。結果何が起こるかわからないけれど、ワクワクしているんだ。幸い、会社はお前がいるから安心して任せられる」

 本当はそれほど前向きとはいい難かったけれど、大垣を安心させるために言った。しかし、言葉にしているうちに本当にそう思えてきた。

「社長…」

 大垣はそれ以上声にならない。大垣の瞳の底で、熱く湿った思いが渦巻いているのがわかる。彼の頭の中には、言いたいことがいっぱいあるに違いなかった。たとえば、『だから、病院で一度診てもらってくださいと言っていたじゃないですか』『私だけ残して会社を離れてしまうなんて』『もっともっと一緒に過ごしたかったです』などなど。大垣は何も言えずにいるけれど、その思いはすべて良太に届いていた。

「大垣、お前が俺のために涙を流してくれることは嬉しい。でも、俺は今日死ぬわけじゃない。限りはあるけれど、まだ先はある。というか限りがあるからこそ、この先の時間を有効に使いたいと思っている。その手助けをまたお前に頼みたい。すまんな、お前にはいつもお願いごとばかりだよな。でも、俺にはお前しかいないんだ。だから、今日来てもらった。そんなに泣いてちゃ、相談もできないじゃないか」

 微かな笑みを口元に湛え、努めて明るく言ったつもりだったが、しんとした静寂の中で放った言葉は、独り言のように頼りなかった。天井のシーリングライトに照らされた大垣の顔がいつも以上に白く見える。

 大垣に自分の思いが届けと願う。大垣はさっきからずっと俯いているが、涙はもう出ていない。頭のいい男だ。間もなく頭を切り換えて、今自分がなすべきことに気づいてくれているはずだ。そういう男と見込んだからこそ、後を任せるのである。案の定、大垣は顔をあげ、涙をぬぐい、垂れこめた雲をはじくような涼やかな表情で言った。

「社長の思い、しっかり受け止めました。私にできることは何んでもしますから、おっしゃってください」

「ありがとう。その言葉を待っていたよ」

会社の引き継ぎに関しては、徐々にフェードアウトすることにした。大垣によれば、いきなり社長が変わるのは、対外的にも、また社員にも動揺を与えるだけでよくないというのである。そこで、良太が現業とはまったく異なる分野に進出するため、別会社を立ち上げることにして、二か月程度の時間をかけて社長交代を進めることにした。予め、社員には大垣からその旨を伝えておいて、良太はたまに出社することで特別な疑念を持たせないようにする。

 もともと、良太は会社内にずっといることはなかった。社長がいつも社内にいるような会社は発展しないというのが良太の持論である。

 社長の仕事は、戦略や方針を立て、会社全体のマネジメントをすることだ。会社全体を動かすためには、対外的な仕事が多くなる。なので、社長が外に出かけているのが必然なのである。社員にしても、社長というものは、朝来たと思ったら、知らぬ間に外出していて、知らぬ間に帰社していたというレベルがちょうどいい。そのほうが社員の力が存分に発揮されると思う。社長がいつも会社にいると、社員は大事な顧客より社長を見て仕事をしがちだ。そんな内向きの会社に未来はない。だから、良太が新事業のため、会社に行かなくなっても、社員はそんなに違和感を持たないだろう。

「恵子さんとさとみちゃんには伝えたのですか。それと新井君とのこともありますよね」

 もちろん、大垣は恵子のことを知っている。また、良太が新井由香と付き合っていることも大垣だけには話してあった。つい先ほどまで涙を流していた大垣も、今はすっかり冷静になっているのがありがたい。

「まだ誰にも伝えていないさ。本当のところ、どうすべきか悩んでいる。恵子とはもう離婚しているわけだし、知らせる必要はないのではないかと思っている。伝えることで、へんに気を遣わせたくないというのもある」

「そうですか。お二人とも優しいですね」

 元妻の恵子は、そういう女性だ。離婚して以来、さとみのこと以外で接触することは一切ないが、もし良太の病気のことが伝われば、きっと病院に世話を焼きにくるに違いない。そうしないといられない性格なのだ。それは優しさからくるものなのか、病気になった元夫を突き放すことに対する罪悪感から逃れたいためなのかはわからない。恐らく、本人ですらわからないのだろう。いつも内側に翳りのようなものを抱えている恵子は、自分ですらわからない自分にいつも怯えている。

 一方、そんな元妻に、気を遣っているような態度をとる自分も、大垣の言うような優しさからではなく、別れた妻と再び関わることになるのが煩わしいだけなのかもしれない。

 こんな二人だから離婚したとも言える。

「残念ながら、優しいとは違うんだよね、きっと」

「そうでしょうか。私は、お二人は優しい人だと思っていますけど」

 これだけ深く付き合ってきた大垣でも、わかり得ない部分がある。人間関係なんて、きっとそんな頼りないものなのだろう。

「さとみちゃんはどうするんですか。私が一番心配しているのは、そのことです」

「そうなんだよ。恵子だけだったら伝えないで終わらせることはできる。でも、さとみの問題がある。さとみのことだけを考えたら伝えたいという思いもある。さとみにとって、それを聞くことはつらいことだと思うけど、現実というものは、そうした厳しく辛い場面にも出くわすものだと知って、それを乗り越える力を持ってほしいという願いもある。でも、一方で、傷つきやすい年頃のさとみに、今伝えるのは酷ではないかとも思う。それに、さとみに伝えれば、当然それは恵子にも伝わることになる。私からではなく、さとみから聞かされる恵子の心情を考えると、それも辛い。そんなことを考え出すと、本当のところ、どうしたらいいかわからなくなっているんだ。大垣、教えてくれ」

「難しいですね。どうするのがベストということは言えないと思います。ただ、はっきりしているのは、いずれにしても、恵子さんとさとみちゃんは、どの段階かは別にして知ることになるということです。私が永久に黙っていることなどできないからです。たとえ、社長が最後まで伝えなかったとしても、私はお二人にいつか伝えます。それが、私の務めだからです。だから、社長はご自身の思うままに決めてください。きっと決めたその方法が一番正しかったということだと思います。そして、これは、社長ご自身の問題です。それを聞く恵子さんやさとみちゃんの問題ではないと思います」

 改めて、現実というものの残酷さに心臓が凍える。自分が今見つめなければならないのは、冬の終わりの空でしかない。

「ありがとう、大垣。その通りだよな。自分の気持ちが揺れ動いていては、たとえ相手が子供しろ、それがわかってしまう。しっかり覚悟を決められるよう、じっくり考えてみるよ」

「新井君には?」

 今良太の一番身近にいる由香には、当然ながら直接自分の口から話すつもりだ。

「由香にはすべてを話すよ」

「そうですか。わかりました。でも、誰よりも彼女のことをわかっている社長に敢えて言います。彼女はああ見えて、ひどく繊細で弱いところがあります」

「うん。わかっている。でも、話さないわけにはいかない」

「わかりました。では、彼女に伝えた後、私にお知らせください。彼女が社長の次に心を許している総務の滝口冴子とともに、できるだけのフォローとサポートをします」

「何から何まで、すまない」

「いえ。先ほど社長の話をお聞きした時から、私にできるすべてのことをやろうと決意しましたので」

 すべての感情を意識の下に押し込めた意思の強さと繊細さを感じさせる目で、大垣が言う。

「ありがとう。君には感謝しかないよ」

 大垣の冷静な判断と意見は、やはり頼りになる。肝心な話が終わり、とりあえず良太はほっとした。

「ああー、なんか重たい荷物を下ろしたみたいで、急に楽になったよ。さあ、今日はもう余計な話は止めて、とにかく飲もう」

「そうですね。とことんお付き合いしますよ」

「なんか学生時代に戻ったみたいだな」

 自分が望んだものをこの手にするために、離婚してまで突っ走ってきた。歩けば歩くだけ世界が広がっていくと思っていた。まっすぐ前を向き歩き続けた結果、やっと手に入れられそうになった『望んだ未来』を前にして、自分はすべてを捨てることになった。これまで積み上げてきた経験や実績による社会的評価もすべて捨てた。もはや自分には清々しいほど何もない。身体の中で骨がゆるんでいくようだ。

 既視感を覚える。このまっさらな自分が、大学時代の自分と重なって見えた。両親を喪い、金銭的に余裕のない中で大学に進学した良太は、いつ壊れてもおかしくないような、古く汚いボロアパートの四畳半の部屋で、アルバイトと学業に精を出していた。決して豊かとはいえなかったけれど、穏やかで安定した日常を過ごしていたように思う。

 心の中はその若さゆえ、いつも悶々としてはいたが、それでもあらゆるものから自由で、なんだか根拠のない自信があって、自分の前には限りなく明るい未来が開けているものと信じていた。怖いものなど何もなかった。貧乏なくせに、なぜかヨット部に入った。でも、狭いアパートの部屋で酒を飲みながら議論を戦わしていたのは、青臭い文学論や政治批判だった。大垣もその仲間のひとりだった。もちろん、恋愛についても話し合った。自身の経験の少なさを埋め合わすように、プラトニックラブこそが本当の恋愛だなどと、たいして中身のない話で盛り上がっていたのである。

 あの学生時代と決定的に違うのは、今の自分の前には少し先にゴールが見えてしまっていることだ。未来のなさが、選択のなさが息苦しい。だけど、なんか楽しい。もはや悲痛な思いもないし、辛くもない、ような気がする。

「社長、学生時代の顔になっていますよ」

「社長なんて言うなよ、大垣」

「そうですね、畑中先輩」

「よしっ、そうこなくっちゃ」

 少し髭の濃くなった顎を触りながら、先輩という言葉に力と同時に愛情を込めた大垣の顔が懐かしく思えた。二人の目には輝きが戻っていた。その日、二人は明け方まで酒を酌み交わし、学生時代と同じように、文学論や恋愛や政治について熱い議論を交わした。それは良太にとって、二度と持つことのできないない、何にも代えがたい貴重で楽しい時間となった。

 

                  八   

 珍しく早起きし、部屋の空気を入れ替えるために窓を開ける。雲が刷毛で塗ったように高い空を淡くぼかし、窓の下のひらべったい印象の住宅街の日向と日陰の境界を動かしている。昨夜の雨のなごりか、温かく、少し湿った風が吹いていて、風景が間延びして感じられる。特にやることもなく、水中をゆっくりと浮上するあぶくのように時間を過ごす。

 先月会ったばかりのさとみから電話があったのは、そんな日曜日の午後1時頃だった。携帯の画面にさとみと表示されたのを見て、嬉しさと同時に何かよからぬことが起きたのではという不安な気持ちに襲われた。これまで面談日以外の日にさとみから電話があったことはなかったからだ。親から言われたことは几帳面なほどに守る子だった。

「どうした?」

 良太の第一声は、必然的にそうなった。しかし、さとみの声には、いつもと変わらぬ穏やかさがあった。

「いきなりおかしくない? 娘が電話してあげてるのに」

 してあげてるとは何だと思いながらも、実は娘からの電話は、それだけで嬉しい。

「だって、面談日でもないだろう」

「別に面談日以外に電話しちゃあいけないって決まりないもの」

 確かに、電話については、そういう決りごとはなかった。

「まあ、そういえばそうだね。それで、何か話でもあるの」

「うん。今日そっちに行っていいかな?」

「それはまずいでしょ。約束を破ることになって、パパがママに怒られちゃうよ」

「だから、ママには内緒で」

 秘密めいた声で言う娘に、女の子の成長の早さを感じる。

「う~ん、弱ったなあ」

 内心の喜びを悟られないよう、心底困ったようなニュアンスで言う。もちろん、さとみの言い分をそのまま認めるわけにもいかない。

「実はもう側まで来てるんだ」

「えっ」

 確信犯だ。近くまで来ていては帰すことなどできないことをわかっている。思わず良太は携帯を持ったまま立ち上がった。むろん、立ち上がったからといってさとみの姿が見えるわけではないけれど。それでも道路側の窓に近づきカーテンを開け、外の道路を見下ろすが、そこにさとみの姿はなかった。

「どこにいるんだ」

「うん?ああ、コンビニ」

 側といっても、良太のマンションから少し離れたところにあるコンビニにいるらしい。元妻との約束を破ることには抵抗があったが、かといって、このまま返すことも躊躇われた。何らかの理由があって、さとみなりの覚悟を持ってここまで出てきた可能性もあるのだから、その思いを受け止める必要があるのではないかと自分に言い聞かせることで、自分の行動を正当化しようとしていた。どこまでも娘に弱い父親であった。

「ねえパパ、行ってもいいでしょ」

「わかった。とにかく来なさい」

 とにかくと言うことで、近くまで来てしまった娘を緊急避難的に受け入れるという口実を、自分に与えた。

「じゃあ行くね。ついでに何か買っていくものある?」

「パパのほうはないけど、さとみが買いたいものがあったら買ってくれば」

「じゃあ、アイス買ってく」

 さとみは昔からアイスが大好きだった。冬でも冷蔵庫にはいつもアイスがいっぱい入っていたのを思い出す。でも、こんなところはまだ子供だなあと思う。それから5分と経たずに、さとみはやってきた。

 ドアを開け入ってきたさとみの姿は、白のカットソーの上に黒のジャケット、下はデニムのパンツで、赤いスニーカーだった。背中にリュックを背負っている。いかにも軽装で、友達の家に遊びに行くという感じだ。きっと普段着はこんな服装なんだろうと思う。しかし、良太にとっては初めて見るさとみのファッションだったので、思わず全身を眺めていた。

「何?」

 気味悪そうな顔をしたさとみの目に出くわす。

「こういうスタイル珍しいなと思って」

 面談日には、いつも恵子の意向、趣味でガーリーなファッションでやってくる。先月来た時は、白のミモレ丈のプリーツスカートに、春らしいラベンダーのニットを着ていた。恵子に似て美人だけど癒し系で優しい顔立ちのさとみには、そううした清楚で可愛らしいコーデが似合うと、これまで思っていた。でも、今年になってから長かった髪を切ってカールボブにしたので、今日のようなジーンズ姿も似合う。

「パパのところに来る時は、ママの着せ替え人形になってるからね」

 本人も恵子の意向をわかっていながら文句を言わないところが、さとみらしい。

「でも、すごく似合っているよ」

「ああ、そう」

 父親のそんな関心にも、娘は無頓着だ。リビングダイニングに入ると、さとみはリュックをソファーに置いた後、一直線に冷蔵庫に向かう。

「アイス後で食べるから冷蔵庫に入れておくね。ちゃんとパパの分もあるから」

 そう言って良太の方を見る。こういうところは優しい。

「いくらだった?」

 勝手にお小遣いをあげると、元妻に怒られるので、アイスの分だけお金を渡そうと思ったのである。

「はい、これ」

 ジーンズのポケットからからレシートを差し出す。受け取った良太が金額を確かめ、財布からお金を出して渡す。ソファに座っているさとみを見ても、特に変わった様子は見られない。

「何か飲む」

「う~ん、アイスティがいい」

 良太に似てさとみはコーヒーが苦手だ。

「わかった。今用意するから待ってて」

 そう言って、良太がキッチンに向かうと、テレビの音量が大きくなった。チャンネルを変え、自分の好きな音楽番組を選んだようだ。

「はい」

 さとみの前にアイスティを置く。さとみの目は画面を見ているようでありながら、目線が宙に浮いているのを良太は見逃さなかった。これほど心ここにあらずというさとみを見たことがない。いったいさとみに何があったのだろう。気にはなったが、良太のほうから話を向けると、きっと口を噤んでしまう。さとみにはそういう難しいところがあった。

 なので、良太はいつものように何気なく近況を聞く。それに対してさとみも面倒くさそうな顔をしながら、普通に返事をしていた。ところが、次第にさとみの表情が空洞になっていく。さとみは心の中にあるものを吐き出そうかそれとも止めようか逡巡しているように思えた。良太は、本人が話す決意をするまで辛抱強く待つことにした。近況の話も一通り終わったところで、沈黙が訪れ、部屋にはテレビの中のアイドル歌手の歌声だけが支配していた。さとみの思いが水のように良太の中に浸食し、いたたまれなくなった良太は、用もないのにキッチンへと向かおうとした。その背中にさとみの声が被さった。

「ママに好きな人ができたらしいの」

 良太が遠くへ行ってしまうとでも思ったのか、思いのほか大きい声だった。さとみの複雑に絡み合った思いが、部屋の空気の中にすっと溶けた。  

 離婚して3年が経つのだから、恵子に好きな人ができても不思議ではない。自分は別れてしまったけれど、恵子は十分に魅力的な女性だ。世間の男が声をかけるのはむしろ当然のことだろう。その中に恵子のほうが心惹かれる人が現れても不思議ではないし、良太としては彼女が幸せになるのであれば歓迎したいと思う。でも、さとみにはそう思えないのであろう。先月の面談日にさとみが不機嫌だった理由もここにあったのかもしれない。だから、あの日さとみは私たちの離婚の理由を聞いてきた。さとみの心の中に、微かにでも二人の復縁を望む気持ちがあったのだとしたら、さとみの思いが切ない。

「そうかあー、ママがさとみにそう言ったのか」

 重くならないよう、努めて軽い感じで言う。

「前の月の面談日の少し前の夕食後に、急に言われたの。さとみ、ママ今付き合っている人がいるの。ママ、その人のことが好きなのって」

 恵子としても、悩んだ末に、ごまかさず素直に言ったことだと思うが、やはりそれは残酷だ。

「さとみはそれが嫌なのか?」

「わかんない。でもママがママでなくなってしまう気がするの」

 さとみの寂しそうな顔が、どんどん透き通っていく。

「ママ、その人と結婚してしまうかもしれない」

 さとみは、恵子の一本気な性格を思い、先を予感しているのかもしれない。自分の母親に新しく好きな人ができるまでは許すけれど、結婚は許せないのかもしれない。結婚したら、ママがママでなくなると思い込んでいるのだろう。

「それはまだわからないじゃないか」

「でもママは…」

 そう言ってさとみは口を噤んだ。なんと慰めたらいいのだろうか。さとみは恵子のことを本当に愛している。だからこそ、揺れ動いている。

「さとみ、気持ちはわかるけど。さとみはもっと自分のことを考えたほうがいいよ。残酷なようだけど、ママにも新しい人を好きになる自由はあるのだから」

「そんなのわかってる。だけど…」

 さとみも理屈の上では理解している。でも、感情がそれを許せない。

「嫌だったら、しばらくパパのところへ来るか。パパがママに話してもいいぞ」

「そういうことじゃないでしょう。もういい」

 半分冗談、半分本気で言ったが、きつく言い返されてしまった。

「ごめん。余計なことを言ってしまった。どんな思いでも、とりあえずはパパは聞くよ。ママとの約束はあるけど、さとみが辛いと思ったり、苦しいと思ったりしたことがあったら、いつでもパパのところへおいで。パパに話すことで、少しは気が楽になるかもしれないから」

 女性というものは、何かあった時、それを吐き出すことで、精神的バランスを取り戻すことができるということを思い出した。

「うん…」 

 さとみも心の中にため込んでいた思いを吐き出したことで、幾分気持ちが楽になったとみえる。顔に明るさが戻っていた。

「忘れないうちにアイス食べたら。でも、せっかく来たんだから、パパのオムレツ食べていくか。アイスはその後食べればいじゃない」

 なぜだか、さとみは良太の作るオムレツが好きだった。というか、オムレツだけは喜んで食べてくれる。

「うん」

「じゃあ、手を洗っておいで」

 さとみが洗面所に向かったのを見て、良太はキッチンへ行き準備を始めた。ところが、ほどなくさとみが戻ってきて、良太の後ろ姿に声をかけた。

「パパ」

 胸の内に押し寄せる怒りを押し殺したような、強いけれど低い声だった。振り向いた良太が目にしたのは、いつも由香が使っている歯ブラシを持ったさとみの姿だった。

「これ何?」

 声が固く軋んでいる。一目で女ものとわかる、使いかけの歯ブラシがすべてを物語っている。さとみとの面談日には、歯ブラシに限らず、由香が日頃使用しているものはすべてさとみに見つからないよう隠してあった。しかし、今日はさとみが突然来たため、歯ブラシだけ隠し忘れてしまったのだ。良太は致命的な過ちを犯してしまった。それでなくとも、母親のことで傷ついているさとみに良太が追い討ちをかけてしまったのだ。どう答えるべきか、言い淀んでいる良太の姿が、さとみには決定打となった。

「最低、何よ二人とも。もう嫌、帰る」

 そういって、さとみは歯ブラシをソファーに投げ捨て、自分の荷物を奪うように取り上げて、硬い背中を向けたまま部屋を出て行った。

 自分の心の拠り所であるはずの両親から裏切られたさとみの怒りや悲しみや痛さが、空中に揺らめいている。

「さとみ…」

 良太はさとみの出て行ったほうに向かって弱弱しく声を出して見るが、もはや引き留める手立てはない。自分の愚かさに呆れ、打ちのめされ、地獄の淵をのたうちまわる。ソファーに崩れ落ちるように座り、頭を抱え込んだ。部屋中のすべての家具や、真っ白な壁が非人間的な冷たさで自分を嘲笑っている。

 さとみのいなくなった部屋は、色を失っていた。川口から病気を告げられた後、良太の心を一番占めていたのがさとみのことだった。自分の病気のこと、余命のことを、いつ、どう伝えるべきか、良太を苦しめた。人生の中で、一番繊細な年頃にいるさとみのことを考えると、伝えること自体が辛い。彼女がどう受け止めるかも心配だった。結論が出せずにいたのだが今日思いもかけずさとみが来てくれることになり、良太は思い切ってさとみに告げる決心をしていた

 後になればなるごど、話すのが辛くなると思ったからだ。だが、これでその機会を失ってしまった。さとみは、次の面談日も、その次の面談日も良太の元へは来ないだろう。そして、その次は、たぶんもう遅い。それくらい酷い仕打ちをしてしまった。

 カーテンの向こうはいつの間にか夜の影に覆われていた。どんどん縮んでいく部屋の中にひとり残された暗闇の中で、良太は重い決心をする。

 このままさとみには直接知らせないで、すべてが終わった後に、専務の大垣から伝えてもらうことにする。このままさとみの顔を見られないと思うと辛く、悲しいが、自業自得だから致し方ない。心の中を空にする。

 結局、大垣にはまた荷の思い役割を引き受けてもらうことになり申し訳ないと思うが、彼なら自分の思いを理解して協力してくれるだろう。


                  九

 キッチンで由香が料理を作っている。良太はリビングのソファーに座って、テレビ画面を見ている、ふりをしている。見てはいない。ただ眺めているだけだ。頭の中では、この後、由香にどう切り出し、どう話すか、先ほどからずっと頭の中でシミュレーションをしている。さとみへの告白が失敗に終わったことで、良太は神経質になっていた。

 本来なら楽しいはずの金曜日の夜が、良太にとっては苦悶の時間になっている。由香は出来上がった料理を次々ダイニングテーブルの上に並べていく。その姿は今にも口笛でも吹きそうなほど喜びに満ち溢れている。そんな姿を見てしまうと、良太は自分の決心が揺らぎそうになるが、ここは心を鬼にしてやりきらなければならないと、自分に言い聞かせる。

「ねえ、良太、用意できたからテーブルに移って」

 由香の弾んだ声が聞こえる。テーブルの上には、由香の自慢の料理が並び、いい匂いが立ち上がっている。

「美味しそうだね」

 実際、美味しいに違いない。しかし、緊張のせいか、本当のところあまり食欲はなかった。

「『そう』って何。美味しいにきまっているじゃない。良太のためにたっぷり愛情を込めて作ったんだから」

「そうだよね、ごめん。いつもありがとう」

 由香への感謝の気持ちが込み上げてくる。まずい、涙が出そうだ。こんな顔を見られるわけにはいかない。慌てて洗面所へ向かう。

「ちょっと手を洗ってくる」

 戻ると、由香がワインを開けて待っていた。

「体調悪い?」

「なんで」

「顔色が良くないみたい」

「いや、なんでもないよ。じゃあ始めようか」

 特に記念日でもない、普段と変わらぬ金曜日の夜の食事がいつものように、穏やかに始まった。良太も食事の間は、極力いつも通りを心掛けた。会話はいつも由香が、会社であった面白い話を聞かせてくれる。このところもう会社へはたまにしか出社していない良太にとって、そのひとつひとつが新鮮であり、楽しくもあった。おかげで、これまで気づかなかった社員の人となりがわかり驚くこともあった。今日は専務の大垣が最近やってしまったドジな行動について話している。由香は学生時代演劇部にいたせいか、話し方や表現の仕方が豊かで聞く者の気持ちを掴むのがうまい。

 この後話さなければならない深刻な話のことも忘れ、思わず大笑いをしていた。学生時代から知っている大垣に、そんな面があること自体がおかしかった。楽しい食事はあっという間に終わってしまった。良太は再びリビングのソファーに座り、由香の後片付けが終わるのを待った。

「はい、お待たせ」

 由香が食後の紅茶をローテーブルの上に置く。

「ありがとう」

 さっきから、いつも以上にありがとうという言葉を使っていることに気づく。無意識に出てしまうのであろうか。目の前には、由香の、少し上気した顔がある。会社で見せる、凛々しく、時に冷たい表情はまったくなく、むしろ隙だらけで、安心しきった優しい顔。

 それでいて、時折無意識に見せる表情や仕草は、はっとするほど色気がある。もともと美人だが、それが普段は近寄りがたいオーラとなってしまっている。ところが、こうして気を緩め、自然体の由香は、まったく違う女に見える。このギャップに、由香と付き合った男はみなやられてしまうのだろう。プライベートな由香を知ってるのは俺だけだという男の所有欲を刺激するのだ。もちろん、良太もそのひとりに過ぎない。

「付き合い始めてどれくらいになるかなあ」

「一年とちょっと」

「そうだよなあ。まさか由香とこうなるとは思っていなかった」

「私だってそう」

 二人とも、時間とともに流れるように生きてきた。身体から空気が抜けていくような幸福感に浸る。

「突然だったけど、私は嬉しかった」

 新年会の日の出来事が頭を過り、良太は少し気恥ずかしい。あの時自分はまるで20代の若者のような行動をとってしまった。

「あの時僕は、由香の告白を受けて、自分もずっと由香のことが好きだったことに気づいたんだ」

「嬉しかったけど、でもあなたはあの時かなり酔っていたわ。だから、社長の気の迷いかもしれないと思うことにしたの」

 由香は、良太でもなく、あなたでもなく社長という言葉を使った。あの時、由香にとっては良太ではなく、自分の上司の社長以外の何者でもなかったのだ。だから、由香は何もなかったことにして、自分を守ろうとしたのだろう。

「あの後、前にも増して冷たかったもんね」

「前にも増してって、私って、そんなにひどい?普段」

「う~ん、そう見える時があるということ。でも、仕事している時の由香はある意味女王様みたいで、男どもがひれ伏しちゃう迫力があるんだよね。でも、誤解しないでね。これ褒めているんだから。由香の仕事ぶりを見た男どもが、俺ももっと頑張らねばという思いにさせてくれるほど仕事ができるという意味」

「女王様なの、私。なんか嫌だな、そんな噂」

「だから、誤解だって」

 良太はちょっと言い過ぎてしまったことに反省する。

「でもね、たいていの男は表面上強がっていてもほとんどがM男だから、そんな女性に憧れるんだよ」

「ええー、なんかやだ、それ」

 余計まずいことを言ってしまったようだ。

「心配しないで、同性の、あの山根女史だって、由香の仕事ぶりを高く評価しているよ。そういうことだよ」

 なんとかごまかそうとするが、これ以上、この話題を続けるのは得策ではない。

「山根女史がいない時に誘ったのは仕事の話だと思った?」

「正直なところ、社長が何考えているのかわからなかった」

「まあ、由香にすればそうだよな。でも、僕のほうも由香の本心がわからなかった。お互い手探り状態だったんだよなあ」

 まだわずか一年前くらいの出来事で、古い話ではないのに何か懐かしい。切り取った一瞬の光景のひとつひとつが眩しいいほど輝いている。良太にとっては、もう二度と味わうことのできない、恋の先端の瑞々しい感情。

「良太、好きよ」

 感慨に耽っていた良太に由香が囁くように言った。

「ありがとう」

 そう答えた良太だが、いつもなら言う『僕もだよ』という言葉は飲み込んだ。そんないつもと違う良太に、由香は何かを感じ取ったのだろうか。さきほどまでの笑顔がすっと顔の奥へ消え、暗い影が差していた。

「私のこと嫌いになった?」

「ん?」

 明らかな誤解だが、その切羽詰まった表情は頼りなさげに揺れている。良太は由香の思わぬ反応に戸惑っていた。由香の目は、怖いくらいに澄んでいた。

「どうした? もちろん、好きに決まっているじゃないか」

 そう言ったが、その答えを由香は信じていないようだった。黙ったままだ。そんな由香の姿を見ながら、今度は良太が自分でも驚く言葉を口走っていた。

「大好きだけど…、もう別れよう」

 今でもあの時、なんであんなことを言ってしまったのかわからない。本当は自分の病気のことを告げるはずだったのに…。何かがぽっきりと折れてしまったせいだろう。カップの中のこげ茶の液体がてかりと輝いた。

「なぜ…」

 由香はその一言を言うのがやっとだった。その後、良太が話したことは自分の放ってしまった言葉に、自ら折り合いをつけただけだった。

「このまま二人の関係を続けても、由香を不幸にするだけだと思うんだ。付き合い始める時に言ったように、もう僕は誰とも結婚する意思はない。由香は、そんな男に愛想をつかしたほうがいい。というか、愛想つかしてほしい。お願いだ。由香を好きになればなるほど、そういう思いが強くなってきたんだ。由香にはもっともっと幸せになってほしいんだよ。今なら間に合う」

 良太の本心と言えなくもなかった。でも、限りなく身勝手で、しかも別れたい女に対して男が使うあまりに陳腐な台詞であることもわかっていた。こんなことを言いたかったのではない。だが、もう止めようもなかった。由香のソファーの後ろの壁にかけてある時計の、時を刻む音だけが、とってつけたように現実の時を知らせている。

 まっすぐ前を向いている由香の眼からは、止めどなく涙が流れていた。でも、その表情は決して崩れていなかった。凛とした美しさが溢れていた。

「そんなのずるい」

 つい最近、誰かから同じような台詞を投げかけられたなと思い、それが娘のさとみからであったことに気づく。由香はどんな思いを込めて、ずるいと言ったのだろうか。でも、自分が限りなく卑怯な男に思えて、愕然とした。

「僕は嘘なんてついていないよ」

 しかし、由香は良太の言葉に、子供がいやいやをする時のように、首を左右に大きく振りながら、涙を流し続けた。良太が由香の肩に手を触れようとすると、その手を激しく払った。良太にできることはもう何もなくなった。ただ、由香の涙が収まるのを待つだけだった。どれくらいたっただろうか、由香の瞳から涙は去り、そこには清々しいほど冷めた由香の顔が現れていた。まっすぐ良太の顔を見て、今度は彼女のほうから別れを告げられた。

「わかりました。私たち別れましょう。短い間でしたけど、私は楽しかったです。あなたと出会えて嬉しかったです。私はあなたを愛することができて幸せでした。ありがとうございます」

 最後に刹那的な薄い笑顔を良太に向けたが、すぐに真顔に戻り、軽くお辞儀をしてリビングから立ち去った。その背にかける言葉を良太は持ち合わせていなかった。足元が沈み込んでいく。恋の燃えかすを見つめながら、心が半分もぎとられたような感覚に陥る。背をまるめ顔を両手で覆い泣こうとしてみるが、泣くことすらできない。

        

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