第3話 過去形の恋

                  十

 結局、さとみと由香には自分の病気や余命のことを伝えることができなかった。現実は小説とは違って、シナリオ通りには進まないものらしい。

 窓の上半分が赤く染まっている。太陽が少しずつ遠くなり、その力が弱くなりつつある。季節は春から夏へ、夏から秋へと変わりつつあった。

 残された短い時間でやろうと決めたことは、過去に付き合った女性と会うということだった。古い手紙の整理をしている中で、なんとなく頭に浮かんだことだった。当初は単なる思いつきのように思えたが、実は意味のあることだと気づく。恵子を幸せにできなかった真因はきっと自分の中にあると以前から気づいていた。けれど、それが何なのかがわからなかった。今回、自分の過去の恋愛に遡ることで、それが見えるのではないかと思っている。

 とは言っても、彼女たちの消息は良太にはわからない。時間もない良太は、その道のプロ、つまり探偵事務所に依頼することにした。近いうちに、その結果が出ることになっていて、楽しみにしている。

 ひとりきりの夕食を寂しいものにしないため、今日は自分で料理することにした。得意料理のひとつであるハンバーグを、たっぷり時間をかけて作った。コンビニで買ってきたおつまみ類も皿に盛れば様になる。ワインを飲みながら、テレビ画面に目をやる。テレビの中の小さな世界はただ騒がしいだけで、無言の海と変わらない。以前には感じなかったが、やはり、一人の食事は寂しい。

 ことさらゆっくりと食事をしながら、明日久しぶりに行くことになった会社のことを思う。昨日、大垣から電話があり、たまには会社に顔を出してくださいと言われたのである。このところ、良太は探偵事務所での打ち合わせなどに時間を費やしていたので、会社のことは頭から離れていた。もう仕事のことは大垣にバトンタッチしているので、会社に行ってもほとんどやることはない。ただ、出社すれば、あれ以来顔を合わせていない由香と会うことになり、そのことだけが気がかりであった。

 そのせいもあるのか、その日はベッドに入っても、なかなか寝付けなかった。ベッドの中で、良太は先日買ったエンディングノートの中にあった、大切な人に伝えておきたいことを書くページのことを考えた。今自分がやらねばならないことのひとつである。

 頭に浮かぶのは、やはり、さとみと由香、そして元妻の恵子の3人だ。だが、それぞれに対する思いが強すぎて、何をどう書けばいいかがわからず途方に暮れてしまう。もう少し差し迫った事態になれば、自然に頭に浮かんでくるものなのではないか。そう思って諦める。

 今回このようなことになって、良太は『終活』をすることにした。最初は『終活』という言葉が、『就活』をもじったもののように思え、あまり気に入らなかったが、調べて見ると、今の自分にとって必要な内容だったので始めたのだ。遺産の整理、遺書の作成、葬儀方法の決定等々、すべきことは決めておくことにした。

 しかし、良太は『終活』をする中で、昔読んだ『何者』というタイトルの小説を思い出していた。『何者』は、『就活』をしている男女6人の大学生、院生の物語である。就活では、自分が何者であるかを企業に示すことが要求される。まだ自分が確立していないにも拘わらず、自分の『何者』かに向き合わざるを得ず、戸惑い揺れ動く様子が描かれていた。

 良太は『終活』も同じなのではないかと思う。『終活』には遺書の作成や葬儀方法の決定といった実務面も含まれるが、結局のところ、自分は『何者』だったのかを総括するものだと思うからだ。そこで、良太も自分は何者だったのか、自分の生き様について自問してみた。しかし、明確な答えは出てこなかった。

 何のために歳を重ねてきたのだろうか。すべての『時』が重なるようにして今の自分があるはずなのに。『時』のあちこちにバラバラになっていた自分を寄せ集めてみても、やはり自分は何者だったかという問いには答えられない。なぜだろうか。さらに突き詰めて見て、ようやくわかった。両親を喪い、伯父夫婦に引き取られたあの中学生の時に、自分は『何者』かになるために生きることを止めたのだということを。いや、そんな恰好いいものではないのかもしれない。逆に常に何者かであろうとして結局うまくなれなかった自分といったほうがいいのかもしれない。だから、今の自分を経歴や肩書や性格等で表したとしても、そこに自分はいない。自分はそうした言葉から切り離されたところにいる。しかも、心に大きな欠落した部分を持つ自分は、『凡人』にすらなり得なかった。そして、今こそ、何者かである必要のまったくいらない場所にいると思う。

 『終活』のことなど考えていたら、余計に眠れなくなったしまった。病気が発覚して以来、夜というものがこんなに辛いものだと良太は思わなかった。仕事をしていた時は、身体がヘトヘトな状態で帰宅するので、すぐに眠れることが多かったが、今身体は疲れていない。そうなると、音のない暗闇は神経を敏感にさせて、昼間追い出していた負の感情を浮かび上がらせてしまうのだ。これ以上ベッドの中にいても眠れそうになかったので、起き上がりってテレビをつけ、ただ画面を眺めながらワインを飲み、自然にウトウトするのを待つ。

 結局、眠ったか眠らなかったのかわからないうちに朝を迎えた。

 久しぶりに出社した会社は、活気に満ちていた。大垣が今まで以上に力を発揮してくれている証だ。会社が活気に満ちていることは、もちろん喜ばしいし、それを望んでもいた。でも、そこはもう自分を必要としていない場所でもあった。良太の病状について何も知らない社員たちが、入れ替わり立ち替わりやってくるが、その顔が良太には眩しく、遠い。淋しさというよりも、妙な疎外感に襲われてしまう。自分がかつてここで一生懸命に仕事をしていたのは現実だったのだろうか。

 自分の席から、総務の席に着く由香の姿が見える。恐らく、良太の視線を感じているはずであるが、由香はそれを無視している。明らかに、良太を拒絶しているように見える。あんな別れ方をしたのだから無理もない。しかし、あんな別れ方をしてしまったからこそ、由香に対する良太の思いは強まってしまっているが、良太にはどうしようもない。ただ、由香の姿を自分の目に焼きつける。

 そんな時社外から電話が入り、由香が出た。電話口で誰かと話をしている。やがて、由香が良太のほうを見た。この日初めて由香と目と目があった。だが、次の瞬間、由香は目を逸らした。そして、良太の前の内線が鳴った。受話器を取る。

「社長、4番に中井さんという方からお電話です」

 由香の声は事務的というよりは、硬かった。そんな様子を見ていた大垣が、心配そうに良太のほうを見た。『心配するな』という顔を大垣に示した。

「わかった。ありがとう」

 と、答えた良太。ありがとうは余計だったかとも思う。

「はい、畑中です」

「NJ探偵事務所の中井です」 

 低音で、いかにも探偵事務所の所長らしい、秘密めいた声だ。

「ああ、どうも。先日はありがとうございました」

 聞き耳を立てている社員などいないとは思うが、あくまで仕事相手のように対応する。

「先日ご依頼の件の調査結果が出ましたので、そのご連絡です」

「そうですか。それはありがとうございます。案外早かったですね」

 中井の事務所に依頼してから、まだ2週間しかたっていない。

「特に早いこともありません。いずれにしても報告書をお渡ししながら説明させていただきたいのですが、どうしましょうか。私のほうでご指定の場所へ伺うこともできますが」

「いや、また私がそちらの事務所へ伺います。日程は後でまたご連絡いたします」

「そうですか。では、ご連絡をお待ちしております」

一週間後、良太はNJ探偵事務所の応接間にいた。果たしてどんな結果が出てくるのだろか、期待と少しの不安が心をよぎる。ドアをノックする音とほとんど同時に、中井が入ってくる。

「先日は電話で失礼しました」

 そう言いながら、良太の前に座る。右手には、報告書と思われるものが見える。

「こちらこそ。早めに結果が出てうれしいです」

「今回のような調査は他の、たとえば浮気調査などと比べると案外調査しやすいものなんですよ」

「そうなんですか。確かに、浮気調査の場合、証拠が見つかるまでに時間がかかる場合もあるかもしれませんね」

「確証を押さえるにはいろんな障害もあるものです。まあ、それはさておき、これが今回の調査報告書です」

 そう言って、結構厚い書類が良太の前に差し出された。

「詳細はそれを読んでいただければわかります。ただ、最初にひとつだけ説明をさせてください。今回ご依頼いただいたのは5名の方の消息でしたが、太田典子さんは今アメリカにお住まいです。そして、残念ながら今泉真美さんは病気でお亡くなりになっていました」

「病気で亡くなっていたのですか…」

 今泉真美は高校時代に付き合った子だった。真美の涼やかな笑顔が目に浮かぶ。彼女は良太と別れた後、どんな人生を歩んだ末に亡くなったのだろうか。胸の奥が痛むような音がする。一方の太田典子は大学一年の時の同級生だった。当時から活発な子だったので、今アメリカで活躍しているというのは納得できる。

「一応、報告書には太田さんの住所も記載してありますが、あくまで消息がはっきりわかってる3名の方についての詳細が書かれています。どうぞお持ちになって、ゆっくりお読みください」

「わかりました。ありがとうございます」

 自宅に戻った良太は、食事をとるのも忘れ報告書を読んだ。窓の向こう側の青空が、いつしか茜色に変わっていた。そこにはただの事実しか書かれていないのであるが、良太は、己の過去の恋愛の熱にすっぽりと包まれていた。高橋留美子、今井由紀、田中あゆみの3人は、ただ単に過去の恋愛相手というだけでなく、自分の人生に色濃く影響を与えた女性だった。ぜひとも会いたい。会って、もう一度彼女たちの生き様に触れたい。

 翌日から良太は行動を起こした。最初に選んだのは高橋留美子だった。理由は、彼女がまだ独身であることと、そのさっぱりした性格から接触しやすいと考えたからだ。

 報告書によれば、留美子は良太と付き合っていた頃働いていた会社を辞め、今は社員教育の会社を立ち上げ、自らもインストラクター・講師として働いていた。もともと高校時代にアメリカへの留学経験を持つ彼女は、自分の意見をはっきり言うタイプであったし、人前に立つことには慣れていた。それに、人を指導することにも長けていたから、今の仕事は納得できた。さらに、報告書では留美子の行動パターンも書かれていた。それによると、最近、身体づくりのため週2回から3回ジムに通っているらしい。そして、その帰りに必ず立ち寄るバーがあるという。そこで、良太は、そのバーで彼女を捕まえることにした。

 留美子が現れる可能性が高いという火曜日の夜に、六本木のそのバーで飲んでいると、留美子が現れた。16年前に別れたのにも関わらず、一目で留美子とわかった。

 上下黒づくめで、タイトスカートはミニである。身長は160センチくらいだが、姿勢がいいため大きく見える。空気をかき分けるように、堂々と歩く姿は女王様のようだ。それを見て、良太は以前とまったく変わっていないと思った。留美子がカウンターの一番端のスツールに座ったのを確かめて近づく。幸い、隣の席は空いていた。

 留美子の後ろ姿に声をかける。

「あのー、すみません。高橋留美子さんではないですか」

 振り向いた留美子が良太を見る。しかし、その顔に驚いた様子は見られない。物事に動じないところも変わっていない。

「なんであなたがここにいるの」

 人を突き放そうとする時の醒めた冷たい、針のような視線にぶつかる。

「いやあ、うちの得意先が近くにあって、その帰りにたまたま寄ったら君がいたというわけ」

「なんか嘘くさいなあ」

 留美子の怜悧な顔が、いく分歪んでいる。

「なんでだよ。本当に偶然だよ。その、隣に座っていい?」

「まあいいわ。座ったら」

 微かに留美子の体温を感じる距離に座り、感情がざわつく。その時、注文をとりにバーテンダーがやってきた。留美子の飲み物を指しながら、「同じものを」と言う。

「久しぶりだね」

 少しくぐもった声で言ったせいか、夜の闇に吸い込まれてしまい、留美子は返事をしない。

「なんで来たの。今更なんか話があるわけ」

 留美子には今日の再会が偶然でないことはわかっているように思える。

「本当に深い理由はないんだ。ただ、もう一度だけ会いたかった。ただそれだけなんだ。それ以上何もないよ」

 それが本当の理由だから、切実に訴えた。

「そう。よくわかんないけどね」

 留美子の言葉が少し柔らかくなった。理由はよくわからないけれど、今日の良太を受け入れてくれたようだった。切り替えが早いのも留美子の性格だった。どうしてここがわかったといったことは聞いてこない。 

「今何しているの?」

 と問う良太に対し、

「教育インストラクター。どうせわかっているくせに」

 良太が留美子と出会ったのは、良太が大学生の時にアルバイトをしていたファストフード店だった。学費や生活費を稼ぐために、一年の時からバイトをしていたため、良太は3年生の時にはバイトリーダーを任せられるまでになっていた。そんな良太の下に、当時大学1年生だった留美子が入ってきたのだ。指導する立場にあった良太と留美子の接触は必然的に多くなり、自然な流れで二人は付き合うようになっていた。しかし、二人とも当時はかなり自由奔放なほうだったので、それから3年もの長きにわたって付き合うことになろうとは予想だにしなかった。3年も付き合ったけれど、その間に結婚を意識したことはお互いなかったように思う。本当のところ、留美子はどう思っていたのだろうか。最後まで聞いたことはなかったのでわからない。

 良太と付き合っていた当時は、髪の毛を肩まで伸ばしていたが、職業柄なのか今はショートカットにしている。もともと派手な顔立ちだったが、ショートにしたことで余計華やかに見える。黒目勝ちの大きな目、鼻は高く、すっとしていて先が尖っている。口も大きめで笑うと印象的なほど顔全体に力を与える。要は、外国の女優なような顔立ちなのである。さばさばとした性格で、どんな人ともすぐに仲良くなる。人との距離を縮めるのがうまいのである。いつも、どこでも、誰に対しても自分の空気にする。というか、その場を自分のものにしてしまう。それが人を惹きつける。しかも、それは彼女が意識的に行っているのではなく、生来の気性のなせるものなのであ。しかし、そうした彼女の言動は、一部の同性からはあざといものと見えるのだろう、同性の一部からは誤解され嫌われることが多々あったようだ。

 一方の良太は空気とか場に左右されることもなく、いつもマイペースだった。だから、留美子に興味は持っていたが、積極的にアプローチしようとは思っていなかった。「付き合ってください」とストレートに言ってきたのは留美子のほうからである。

 留学経験のある留美子は、考え方がアメリカナイズされていた。レディファーストが当たり前だったので、道を歩いていても、道路側を良太が歩き、内側に留美子を歩かせないと文句を言った。鍋などの食べ物を食べる時、とりわけるのは良太の役目だった。それまで、女性の役目だと思っていたことの多くを留美子は、男の役目だと言って譲らなかった。最初良太は抵抗があったが、次第に慣れていき、自然にレディファーストが実践できるまでになっていた。そのせいか、留美子と別れた後に付き合った女性にも自然にレディファーストをすることとなり、おかげで結構モテた。でも、良太が留美子から一番学んだのは、女性という生き物についてであった。留美子によって、少しは女性のことがわかったような気がする。それまで良太は、男にはわからない女性の不条理な言動に反発することはあっても、理解しようとは思ったいなかった。だが、留美子は身をもって教えてくれたと思っている。

「でも、本当に留美子にもう一度会えるなんて思わなかったな」

 留美子が自分を受け入れてくれたという気の緩みで、つい当時のように名前で呼んでいた。そんな良太の顔を、不思議なものでも見るようにして留美子が言った。

「留美子なんて馴れ馴れしく言わないで」

 低く、強い声だった。二人の前のグラスの中のカラフルな液体が少し震えた。一瞬で二人の間の距離感が曖昧になる。

「あっ、ごめん。高橋さん」

 そう言い直した良太の視野の片隅に、留美子の細くしなやかな指が見える。思わず自分の手を重ねたくなるが、我慢する。

「もうとっくの昔に私たちは終わっているのよ」

「わかっているよ。だからごめん。つい懐かしくなって」

「あのね、女は自分の心に終止符を打った時点で、それまでどんな輝いていたものでも過去のものになるの。でも、その結論を出すまでにどれほど苦しんでいるか、男にはわからないのよ。いい、くれぐれも他人がいる中で名前なんかで呼ばないでね」

 留美子は「男」と言ったけれど、本当は「良太」と言いたかったに違いない。見た目や態度から男っぽい性格だと思い込んでいた留美子は、実は繊細で壊れやすい女性だった。留美子からのアプローチで始まった恋であったため、どちらかといえば良太は受け身であった。つまり、愛されているという安心感があった。そのため、良太は身勝手な行動ばかりしていた。一方、留美子はいつも真剣だった。だから、留美子が良太の何倍も苦しんだであろうことは、今ならわかる。

「わかったよ。もう二度と言わないから」

 吐き出せない感情の切れ端を抱えながら言う。スツールに下した足が重くなる。

「そうは思うけど。あなたのことだから、釘をさしておかないとね。あなたって、もともとそういう軽いノリで話してしまうところがあるんだから」

 留美子の指摘は当たっている。女性は相手の弱点を見つけると、何かあった時、時間を戻してでもその時々のエピソードを持ち出し、針の先で突いてくる。しかし、そのことにまともに反応してしまうと、相手のペースにはまり、事態は深刻化するだけだ。だから、良太は軽くかわすことに決めた。これは、良太が結婚生活で覚えたことだった。

「相変わらず信用ないな。あれから僕も少しは大人になっているんだけどな」

「大人って、確かあなたも」

 一瞬遠くを見つめ、数字の計算をしている。

「もう42でしょう」

「そういう君だってもう35だろう」

「うるさいわね。そういう計算だけは早いんだから」

 他愛ないやりとりが妙に楽しい。思わず顔に出てしまっていたのだろう。

「何さっきからニヤニヤしているのよ」

 そういう留美子の顔も綻んでいる。それまで纏っていた緊張感が溶けているように見える。

「昔もこんな会話してたなあ、なんて思って」

 すると、留美子も一瞬殻を破りその割れ目から見える過去に目をやったようだ。そして、艶めかしさすら感じる溜息とともに言った。

「バカねー」

 心底呆れたという顔を作りながら、それでも、懐かしそうに少し目を細めた。何かいいことがあったとき、留美子が時々見せる表情。自分が好きだった女性の、好きだったちょっとした表情に再び出会うことができたことが、良太を感傷的にさせた。

「実は君にお願いがあるんだけど」

「何よ、恐い顔して」

 自分の真剣さが出てしまっているんだろうか。良太は慌てて顔を和らげる。そして、言葉もなるべく砕けてた調子で言ってみる。

「君の手料理を、もう一度だけ食べさせてくれないか」

 唐突な頼みのようだが、実は良太は今回昔付き合った女性たちと会えた場合、できれば一緒に食事をしたいと考えていたのだ。『最後の晩餐』って、どんな気持ちなんだろうという、単なる好奇心からだけど。

「突然何それ。いやよ」

 お互いずっとカウンターの奥を見ながら会話していたため、横顔しか見ていなかった。しかし、この時留美子は突然良太のほうに向き直った。今良太の目の前にかつて本気で愛した女の顔がある。ちょっとだけ近づければ。唇と唇がを合わさるほど近くに留美子はいた。だが、留美子もそのことに気づき、慌ててまた顔を元の位置に戻した。平静を装うために、良太はグラスに手を伸ばし、一気に飲み干す。

「そんなこと言わないでよ。ねえ、一生のお願いだから」

 良太には、声をしっとり湿らせてただ懇願することしかできない。

「何のために」

 呆れた顔をしながらも、まるっきり拒否してはいない態度を示す留美子。

「最後の思い出づくりかな」

「最後? どういうことよ。意味がわからない」

「今度こそ、君と会うのはもう最後になる。というか最後にする。だから…。でも、何でって言われると、俺自身もよくわかっていないんだ。ただひたすらそんな心境なんだ。ごめんな、わけのわからないこと言って。もちろん、お礼はするよ。君が今一番欲しいものをプレゼントする」

 病気のことを告げることはできないので、うまい説明ができないことがもどかしい。

「一番欲しいもの?」

 心が動いたようだ。顔が輝いている。何か欲しいものがあるのだろうか。昔から物欲は強いほうだったので、そこを攻めてみる。

「ああ、なんでもいいよ。バックでもアクセサリーでも、君の好きな時計でも」

「へえー。昔は私の誕生日プレゼントすら忘れたことがあるのに」 

 半分笑いながら言う。良太をからかうような言い方は、留美子も会話を楽しんでいる証拠だ。

「もう、昔のことは勘弁してくれよ」

「わかった。でも、今私が一番欲しいものは、そういうものじゃないんだ」

「じゃあ何だよ」

 留美子のもったいぶった表情に、少しイラつきながら答える。

「聞きたい?」

 そう言って、留美子はただうなずく良太に対し真剣な顔をつくり、強い眼差しで思わぬ言葉を吐き出した。

「今私が一番欲しいものは」

 そこでいったん言葉を切る。どこまでもったいぶるのか。

「まだ私を好きだった頃のあなた」

 辺りが夢幻ともわからない色に染まっていく。ここがバーのカウンターであるという現実感すら遠のく。心の中に言葉以前の感情が積み重ねられていく。

 悪い冗談だろうか。それとも、思い切りしゃれた会話と判断すべきか。水底に灯ったあかりがゆらゆらと揺れている。心をつなぐ橋になる言葉を、こんなに簡単に言い放ってしまう留美子はずるいと思う。でも、どちらにしろ嬉しかった。鼻の奥が熱くなった。

 あの時、別れを切り出したのは、留美子のほうだった。同棲を始めて2年経った頃だった。倦怠期といえる時期ではあった。お互い、相手に対する甘えが出てきてわがままになっていた。特に良太はそれがひどかったように思う。軽い気持ちで、たびたび浮気もした。そのたびに、結局留美子が許すということで、同棲生活は継続していた。だが、次第に留美子がいつも何かに苛立つようになっていた。なんでもないような、些細なことで喧嘩が始まってしまう。でも、良太は留美子がまだ好きだった。愛していたとも思う。やがてある日留美子が家に帰ってこなかった。良太はあまり深く考えず、連絡もしなかった。だが、次の日も、その次の日も留美子は帰ってこなかった。さすがに心配になった良太は、本人の携帯はもちろん、留美子の友人たちに電話をしまくったが、連絡はとれなかった。それから一週間後に留美子は帰ってきた。なんだか家を出る前よりすっきりした顔をしているのが腹立たしかったのを覚えている。良太がどこにいたのか問い詰めても、留美子はそれには一切答えなかった。そして、突然別れを切り出した。

「私たち、別れましょう。あなたのこと、私、もう嫌いだし、愛していないから」

 突然別れを切り出された良太は狼狽えた。留美子を失うことに耐えられなかった。だから、泣いてすがった。別れないでくれと。だが、留美子の意思は強かった。それから3日後に留美子は家を出て行った。あれからもう16年。

「どうしたのよ、急に黙っちゃって。顔が怖いよ」

「ごめん。今の俺、気の利いた台詞が言えなくて」

「大丈夫よ。昔からそれほど気の利いた台詞言えてないから。もう終わった恋に、ふっと息をかけてみただけだから、気にしないで」

 留美子らしい。終わった恋を再び始めるつもりはないくせに、軽く命を吹き込むという悪戯をしたくなるのだ。もし、本気で蘇らせたとしても、今の良太にはどうしようもできないのだけれど。

「気にはしないけれど…。ほかに何かほしいものはないの」

「ないわ。もしあったとしても、あなたからはもう何ももらわない。そんなことより、何が食べたいの?」

「オムライス」

「オムライス? 確かに私の得意料理のひとつではあるし、あなたも好きだったけれど…。よりによって、なんでオムライス? 他にもっとちゃんとした料理でもいいのに。私が腕を奮うんだから」

「君に料理の腕があることはわかっているんだけど。オムライスは俺が君に唯一作り方を教えてもらった料理なんだ。今でも自分で作るんだけど、やっぱり君の作るようにはできない。だから、もう一度君のオムライスが食べたいんだ」

「わかったわ。いいわよ」

 良太は留美子を自宅に招くつもりだったが、料理の準備などや慣れたキッチンでやりたいという留美子の考え方で、次の日曜日に、良太が留美子のマンションへ行くことで話はまとまった。留美子は当時と同じマンションにまだ住んでいた。 

頭上で揺れる葉の向こうで、街はほんの少し橙色を帯びている。約束の時間まで余裕があったので、かつて留美子と一緒に歩いた街を散策していた。四角い箱みたいな団地を抜けると、公園越しに留美子の住むマンションが見えた。

 留美子の部屋は五階建てのマンションの三階の角部屋だった。神経質な彼女に相応しく部屋はすみずみまで掃除が行き届き、小ぎれいに整頓された家具は趣味のいい明るい色の籐製品で統一されていた。部屋に入った瞬間、良太のよく知る留美子の匂いが満ちていた。

「あんまりじろじろ見ないでよ」

 良太が通されたリビングの様子を眺めまわしているのを嫌がった。

「とにかく、そこに座って、テレビでも見てて。これからオムライス作るから。今日はそのためだけに来てもらっているんだから。余計なことはしないでよ」

「わかっているよ」

 良太はローテーブルの上に置いてあったリモコンを使い、テレビをつけた。画面では、音楽番組をやっていて、良太のあまり知らない歌手が歌を歌っている。留美子が料理を始めている音がキッチンから聞こえる。留美子のことだから、きっとオムライス以外にも何か作っているに違いなかった。次第にいい匂いがしてきて、良太の食欲を刺激する。何も食べないで正解だった。

「もう少しだから、ダイニングのほうに移動してくれる」

 留美子の声が潤いを持っていることに気付く。もともと料理が好きな留美子は、料理をすること自体楽しいのだろう。キッチンから出てきた留美子がおつまみとワインを持ってきた。

「せっかくだから、軽く飲もうよ。でも誤解しないでね。もともと自分で飲むつもりだったからだからね」

 そう付け加えるのを忘れなかったが、良太にとっては理由などどうでも良かった。久しぶりに留美子と食事をできること自体が幸せなことだった。留美子の作ったオムライスは当時と変わらず美味しかった。

 食後に留美子の淹れてくれたコーヒーをリビングで飲む。カーテンも家具も女性らしさのかけらのひとつもなく、機能性だけを追究したものなのに、ソファーに留美子が座ることで、とたんに部屋が華やかになる。この部屋で喜びも悲しみもわかちあった。でも、別れる前にはよく喧嘩をした場所でもあった。

「終わりの頃は、終着点の見えない喧嘩ばっかりだったよな」

 夜の透き間から静けさが押し寄せてきて、かつてこの同じ部屋で言い争いをしたという現実感を失わせていた。

 あの頃の良太は折れるということができなかった。だから最後は留美子が黙り込むか泣き叫ぶか、物を投げて部屋を出て行くかだった。結局、何も解決しないまま終わっていたといって良い。それでも、翌朝キッチンで朝食のためにまな板の上で何かをトントンと切っていた留美子の背中があったのを思い出した。

「今頃何?」

「折れることができなかったことを反省しているんだよ」

「そうね。あなたは、自分が正しいと思っていたから、折れるのは私であるべきだったのよね」

「今更だけど、ごめん。小さい男だったと思うよ。でも、俺たちもともとは価値観も近かったし、同じ趣味だったし、テレビを見て同じところで笑うし、うまくいっていたと思わない」

「そういう女の子みたいな発想が、私は嫌なの。うまくいっていたんじゃなくて、私があなたに合わせていただけなのよ。私はあなたのことが好きだったから、あなたの歩幅に合わせていた。でも、そんな私のことがわからないあなたは、私に構わずどんどん先に行ってしまった。そんなあなたに私は疲れちゃった。そういうことよ」

 留美子から重みのある息が漏れた。押しやっていた記憶がほろほろと落ちてきそうだった。何も答えない良太を見て、留美子が続けた。

「いったいあなたは私の何を見ていたの?」

「君のすべてを見ていたよ。お互いうんざりするほど話し合ってわかろうと努力もしていたし」

「あなたが見ていたのは、言葉で表すことができる私のことだけ。じゃあ、あの頃、私が一番大切に思っていたことが何かあなたはわかる」

 留美子の透明感のある黒い瞳に見つめられる。胸の中の言葉は重すぎて喉を上がってこない。

「まさか、自分のことだなんて思ってないでしょうね」

「それほどバカじゃないし、己惚れてもいないよ」

「それは良かったわ。ちなみに、仕事のことでもないわよ」

「そうか。でも、そういう君だって、俺が一番大切に思ったいたものが何かわからないんじゃない?」

「わかっていたわよ。あなたにとって一番大切なものは、あなた自身。もっと言えば、あなたの心に空いている穴を埋めてくれるものよね」

 身体のどこか奥のほうで鈍い痛みが始まる。同時に、遠く置き忘れてきた子供の頃の日々が暗く浮かび上がる。

「でも、そういうあなたの、いつも何かを渇望している暗さが魅力的でもあったのだけど」

「いつも何かに渇望している…、俺の暗さ…」

 空中に漂っている過去形の恋を見つめる。

「君は、いつも何かと戦っていて凛々しかった…」

「あなたにはそう見えたのね…。初めて知ったわ」

 そう言って留美子も宙を見つめている。あんなに話し合い、あんなに喧嘩したのに、自分たちはたくさんの無駄な言葉を使っただけで肝心なことは何ひとつ話し合えてなかった。いや、留美子は話し合いたかったのだろう。良太が避けていただけなのかもしれない。

「もう、こういう話はいいんじゃない」

 終わった恋にもう一度終止符を打ったのは、やはり留美子のほうだった。良太も留美子の一言で、そろりと小さな一歩を踏み出す覚悟ができた。

「ごめん、長居しちゃった。今日は本当にありがとう」

 帰り支度をする良太を、包み込むような優しさで見ている留美子。玄関へと歩く良太の、少し後ろに留美子が続く。靴を履いた良太が振り向くと、そこには留美子のクリアガラスのような笑顔があった。

「じゃあ、元気でね」

 良太は心が浮き上がりそうになっているのを留美子に悟られないようにして、最後の言葉に力を入れた。

「ありがとう、あなたもね」

 ドアを開け、外に出る。背中で、ドアロックの閉まるガチャという音が聞こえた。


                 十一

 留美子との密度の濃い恋愛が終わった当時、良太は軽い鬱状態になっていた。家に帰りひとりになるのが怖かったので、必要以上に仕事に没頭した。それが上司に認められることとなり、同期では一番早く係長に昇進するという、望んでもいない結果をもたらした。

 そんな良太の部下として入社してきたのが、旧姓今井由紀である。現在は関口由紀になっている。由紀は、留美子とは真逆の地味な女性だった。顔立ちは悪くないのだけれど、化粧しているのかいないのかわからないほどの薄化粧で、髪はいつもひっつめにしていた。何度か私服姿を見たこともあったが、やはり地味だった。性格はおっとりしていて控え目であった。誰に対しても優しいところが好感を持てた。しかし、仕事はてきぱきとこなし、状況判断力にも優れていた。そんな優しさに内包された芯の強さに、良太は惹かれていた。結局、良太は強い女にしか惹かれない。

 ある日、良太が得意先の担当者の接待から会社に戻ると、由紀が一人で残業をしていた。聞いてみるとまだ食事をしていないというので、由紀を誘って会社の近くの高級で知られるフランス料理の店に入った。目の前に座る由紀が、初めて会った女性のように新鮮だった。なぜなら、彼女がしっかり化粧をしていたからだ。

「しっかり化粧してるよね」

「はい。こういうお店に連れてきていただいた係長に失礼な思いをさせてはいけないと思ったものですから」

「いやあ、綺麗なんで驚いた。もともと整った顔立ちをしているとは思っていたんだけど…」

 由紀は細面の日本的美人だ。目は細めだが、切れ長である。鼻筋はすっと通っているが高すぎないため、柔らかな印象を与える。口は小さくて可愛らしい。ちゃんと化粧した顔は、舞妓さんのようなういういしさと品の良い美しさがあった。きっと、もともとは良家の家庭に育ったものと想像された。

「嬉しいけど、恥ずかしいです」

 ぽっと頬を赤らめたところも魅力的であった。

「訊いていいのかわからないんだけど、普段はなぜ薄化粧なの」

「それは、いつか機会があったらお話しします」

 そう言ってはぐらかされてしまった。

「そうか。わかった」

 その後はずっと仕事の話になった。以来、同じように時々仕事終わりに二人で食事に出かけることとなり、いつしか二人は付き合っていた。付き合うようになっても由紀は自身のことはあまり話そうとはしなかった。理由はわからなかったが、むしろ意識的に避けているようにさえ感じられた。勢い、良太が自分のことを一方的に話し、それに由紀が相槌をうつという形になることが多かった。かろうじてわかったことは、由紀が子供の頃に両親が離婚し、母子家庭で育ったこと。その母親の体調が最近芳しくなく仕事を休み勝ちであることから、由紀が週2、3日自宅近くのスナックでバイトをして家計を支えていること。スナックで仕事をする際はフルメイクをするため、昼の仕事の時は薄化粧にしているとのことぐらいだった。

 報告書によれば、由紀は現在大阪で夫と二人の子供とともに暮らしている。彼女が職場を辞めた後、結婚して大阪に行ったという風の便りを耳にしたことはあったが、それは本当だったのだ。

 専業主婦として暮らしている彼女の前に、偶然を装って会いに行くのは難しい。あまりにわざとらしくなってしまう。ただひとつのチャンスは、彼女が毎週水曜に華道教室に通っていることだった。良太の会社では、これまでも華道に関するイベントをいつくも手掛けてきたことがあったからだ。報告書に書かれていた華道教室の住所をネットで調べたところ、繁華街のビルの中にあった。この場所なら、良太が出張中に偶然出会ったというシナリオを作ってもおかしくはない。

 由紀に会えるかもしれないというワクワク感で、その日はいつもより早く目が覚めてしまった。しかし、早く起きても会社へ行くわけでもない良太は、ただ部屋の中をうろうろするだけだった。何度も壁掛け時計を見るが、時間の進みは遅い。

 午前中の新幹線で新大阪に着いた良太は、華道教室のある繁華街へ移動して、その場所を確認した。その上で近くにある喫茶店へ入って作戦をたてることにした。偶然を装うにしても、どんな言葉で声をかけ、二人の時間をどう作るか、案外難しいことであった。もともと嘘をつくのが下手な良太は芝居がかったことは苦手である。いろいろ考えたが、結局、へんに芝居せず、その場の雰囲気で行動することにした。良太の場合、そのほうがかえってうまくいくと思えたからだ。お腹が減ったのでスパゲティミートソースを頼む。60代と思われる店主が、いかにも懐かしい銀色の楕円形の食器に入れたスパゲティと紅茶茶をお盆に乗せ、ゆっくり足元を確認しながら良太のもとへ運んできた。ケチャップまみれのミートソースは予想を裏切らない懐かしい味がした。口の周りについたケチャップを紙ナプキンで拭い、満を持して喫茶店を出たのが午後1時半。

 そろそろ由紀が華道教室にやってくる時間だった。彼女が教室のあるビルに入るところを、まず確認しなければならなかった。華道教室の対面にあるビルが大きなビルでしかもセットバックしていたため、良太はちょうど入口が見える場所でたばこを吸いながら、その時を待っていた。報告書で由紀の現在の写真を見ていたので見間違うことはないと思っていた。その時、日傘をさした一人の女性が、ゆっくりと歩いてくるのを発見した。横顔しかわからないが、由紀に違いない。12~3年ぶりに見る由紀の姿に、良太の心は乱れていた。でも、これで今日華道教室に来たことはわかった。後は、教室を出て来た時に、偶然を装い出会う場面を作ることだ。事前に教室の終了時間を確認しているので、その時を間違うことはない。時間をつぶすため、良太は近くの商店街を歩くことにした。 

 どことなく東京とは違う大阪の街は楽しい。店の屋外看板や歩いている人のファッションにも独特なところがあるように思える。そんな街を歩いていたら、あっという間に時間は過ぎた。少し早めに、先ほどと同じ華道教室のあるビルの反対側のビルの前に戻り、由紀が現れるのを待つ。良太が二本目のたばこに火をつけた時だった、由紀が華道教室の友人と思われる女性と3人でビルを出てきた。そのうち1人は2人に挨拶した後、ビル1階の店へと入っていった。由紀は残ったもう一人の女性と並んで駅へと向かって歩き出した。良太は由紀が一人で出てくるものと、勝手に考えていたので、少し慌てる。しかし、駅まではこのままずっと二人で歩いていくと予想されたので、予定通り作戦を実行することにした。

 幸い、駅への道は一本道であった。良太は、反対側を歩く二人の姿を確認しつつも、二人を追い抜き二人が歩く反対側の歩道へ渡り、ゆっくりと歩き始めた。ほどなく、良太の前に二人の姿が見えた。徐々に距離が近づくが、由紀は隣の女性との会話に意識を合わせているために、前にはあまり関心を寄せていない。良太との距離が3メートルほどになった時、前を向いた由紀と一瞬目があったが、由紀は何事もなかったように、隣の女性との会話に戻った。あと少しで良太と二人はすれ違う。良太は自分の胸が高鳴っていることに驚く。ひどくドキドキしているのである。42にもなってである。そして、まさに由紀の横をすれ違う時、胸の高まりはピークに達した。それは、この後のことはどうでもいいほど、良太の心を支配していた。良太は由紀の顔を伺うようにしたが、やはり、由紀は良太のことを一瞥だにしなかった。でも、その瞬間良太は「あっ」と声をあげていた。予め考えていたわけではなく、思わず出てしまった。

 その声に驚いた由紀が、顔を良太に向ける。不審者を見るような不安な表情を顔に張り付けて。

「驚かせてすみません。あのー、以前東京の吉村商事という会社にお勤めではありませんか」

「えっ、ええ、確かに勤めていたことはありましたけど…」

 知らない男に突然話しかけられたことに由紀はまだ戸惑いを覚えているようだ。そこで良太は、一年前からかけはじめた眼鏡をはずしながら

「覚えていませんか。同じ会社にいた畑中、畑中、良太です」

 まるで選挙演説のように、名前を連呼した。

 良太を見つめる由紀の目が揺れている。その目の中で、時が巻き戻されているのが良太にもわかった。そして由紀は過去にたどり着いた。

「良太、というか畑中…、さん?」

 最初に苗字ではなく、名前を言ってくれたことが、良太には嬉しかった。なので、

「そうです。あなたは由紀、今井由紀、さんですよね。今は苗字は変わっていると思うけど」

 今井由紀は結婚して関口由紀に代わっていることは、報告書を見て知っていたが、そのことを由紀に言うわけにはいかなかったので、知らないふりをする。

「ええ、今は関口です」

「そうですか。関口由紀さんですね。お久しぶりです。お元気のようで何よりです。実は私、出張で駅前にある得意先の会社に来たついでに、この先のデパートに寄ろうと歩いていたところなんです。いやあ、偶然ですね」

 一気にしゃべってしまったが、嘘くさくはなかっただろうか。少し不安になるが、由紀の表情を見る限り疑ってはいないようだ。

「そうなの。本当に驚いたわ」

 先ほどより少しだけくだけた言い方になった由紀。隣で二人の会話を聞いていた女性が状況を察して由紀に話しかける。

「由紀さん、じゃあ私はここで失礼するわ」

 そう言われて初めて由紀は隣に友人がいたことに気づいたようだ。

「えっ、そうですか。じゃあまた来週。ごめんなさいね」

 頭を下げる由紀に、友人の女性は「いえいえ」と言いながら、良太のほうにも軽く会釈をして二人のもとを離れていった。あの人は、自分たち二人の関係をどう思ったのだろうか。女性の感は鋭いというからなんとなく察したのかもしれない。それも想像力をうんと働かせながら。自分はいいけど。由紀にとっては迷惑だったかもしれない。

「良かったんですか」

「駅まで一緒に帰るだけだったから、別に良かったんだけど…」

 友人の後ろ姿に目をやりながら由紀が答える。

「何かごめん。あまりに懐かしくて…。つい声をかけてしまって…」

「それはいいんですけど…」

 昔付き合っていた男に突然出会って懐かしいなどと思うのは男だけで、女にとってはただ煩わしいことなのかもしれない。由紀の態度からは早くこの場をやり過ごしたいということしか感じられない。由紀の気持をこちらのほうに向けさせなくてはならないと、良太は焦る。

「ところで、関口さんはどんな用事でこちらに」

「ああ、華道教室の帰りなんです」

「華道、ですか。それは驚きです。実は僕も華道に関連した仕事をしているんです。あの~、道の真ん中で話すのもどうかと思うので、少しだけ時間とれるようでしたら喫茶店でお話しできませんか」

 由紀はまだ戸惑っているようだった。だが、このまま道で話していて誰かに見られるよりは喫茶店に移ったほうがいいと思ったのだろう。

「少しなら…。この後、娘のことで用事がありますので」

「わかりました。少しの時間で結構です。では、駅の近くの喫茶店に行きましょう」

 由紀を事前に調べておいた駅前の喫茶店に連れて行く。その間、由紀は良太の少し後ろを黙ってついてきた。喫茶店に入ると、良太は名刺を出し、改めて自己紹介した。本当はすでに退いた会社の名刺ではあったが。由紀はその名刺を穴が開くほど眺めている。それは、先ほどまで横に並んで話していた良太の顔を真正面で見ることになるのを避けているためのようにも見える。

「私のやっている会社は、イベントプロデュースを中心とした事業を行っています」

「社長さん、なんですね」

 まだ名刺に目を落としたまま由紀が言う。

「社長といっても、うちは中小企業ですから。ただ、頑張っています。それで、実はわが社は来年2月に比較的大きなイベントを企画しているんです。その一部を、ある華道家にプロデュースしてもらうことになっているんです」

 由紀が長い間華道を習っていて、しかも今は師範として活躍しているという情報を調査会社から入手した時から、このイベントの話で由紀の心をつかむ作戦を考えていた。もちろん、嘘の話ではない。来年2月にイベントがあるのは事実だし、その時のプロデュースを華道家に依頼するという話が進んでいるも本当だった。企画会議の席で、専務の大垣が提案したものだ。実際に行われるイベントの場に自分はいないかもしれないけれど。

 良太の口から華道がらみのイベントの話が出たとたん、それまで良太の話に、良太の誘いに気乗りのしない感じだった由紀の表情がパッと明るくなった。

「そうなの」

 顔をあげ、良太の顔を見ながら由紀が言う。言葉遣いにも急に親しさが現れている。良太は改めて由紀の顔を眺めることとなった。すでに報告書に付されていた写真を見ていたが、目の前には昔愛した女の顔がある。もちろん、時間とは残酷なもので当時の由紀の可憐でかわいらしさには衰えがみられるものの、相変わらず良太の心をとらえる魅力があった。今度目を逸らしたのは良太のほうである。しかし、ここはチャンスと見て一気に攻めることにする。

「ですから。関口さんにいろいろ意見を聞きたいんです。今日は予定があるということなので、近いうちにもう一度ちゃんと時間を作ってくれませんか。大阪には出張でよく来るので、僕のほうの調整は難しくないです」

 次に会う日程は後日メールでやりとりして決めることにして、その日はメール交換をして別れた。

 そして当日。夕食をともにしないかという申し出は由紀に断られてしまったので、喫茶店での待ち合わせとなった。約束の時間は午後2時だった。良太は30分前に店に入り、入口のドアが見える少し奥の席に着いた。だが、約束の午後2時近くになっても由紀は来ない。あの時と同じように。そう、あの時と…。

 付き合ってみて、由紀は良太の想像していたどおりの女性であったことを知る。陰があるように見えたのは、実は芯が強く、冷静に現実を見つめていたからだった。両親が離婚し、母親が日夜働いて3人の子供を育てるという環境の中で、長女だった由紀は、時に母親の代わりに料理をし、自分より下の二人の姉妹の面倒を見ていたという。そういうところも、中学生の時に両親を亡くした良太には心惹かれる要因となっていた。

 デートでも、いつも由紀がリードしていたように思う。あの店に行こう、あの映画をみようと、いろんな情報を見つけてきて良太を誘ってくれた。当時、給料のほとんどを遊ぶために使っていた良太は、デートにも金をかけていた。映画を見るためには、指定席のチケットを買い、食事は高級レストランを予約した。でも、そんな良太の行動に由紀は、私は指定席でなくてもいいし、居酒屋でもラーメン屋でもいいし、むしろそういう店のほうが一緒にいて楽しいと、良太の男としてのプライドを傷つけないようにしながも諭してくれた。3つ年下なのに、年上の女性と付き合っているような気持になっていた。それが、良太を余計甘やかせてしまったのかもしれない。

月曜日の午後1時半過ぎという時間帯のせいか、ビジネスマンやOLたちはもう店を出ていて比較的すいている。窓よりの一番奥の席に座った良太は窓の外と入口を交互に見ていた。この席なら、歩いてくる由紀を見つけることができるかもしれないからだ。しかし、相変わらず由紀はやってこない。良太の頭に再び過去のあの日の出来事が頭に浮かぶ。

 良太が由紀といつものように会うはずだったあの日、良太は『仕事が終わったらいつもの喫茶店で』と書いたメモを由紀に渡した。そして由紀より早く仕事が終わった良太は、会社のある代々木駅から池袋へ移動して、北口を出て5分のところにある喫茶店で由紀が来るのを待った。

 地下にあるその喫茶店からは外が見えない。なので、良太は入口の自動ドアが開くたびに目をやる。しかし、由紀は30分経っても一時間たっても来なかった。いつも遅れる場合にはメールをくれる由紀であったが、その日由紀からのメールは届かなかった。由紀と付き合っていることは、公言していなかった。なので、会社の人たちは経理の中山加奈子を除いて、由紀と良太が付き合っていることは誰も知らない。だから、由紀のことで会社に何度も電話するわけにはいかなかった。その後も由紀からはメールがこないので、良太のほうから何度もメールを送ったが返事はなかった。もちろん、携帯に電話を入れたが留守電になっていて、メッセージは入れてあった。やがて、2時間がたった。今までにこんなことはなかったので、由紀の身に何かあったということも考え始めた良太は、たまりかねて会社に電話し、経理の中山加奈に由紀のことを聞いた。すると、

「由紀ちゃんなら、一時間くらい前に会社を出たわよ」

 加奈はみんなに聞こえないように、声を落として言った。

「えっ、そうですか。池袋で待っているんだけど、まだ来ていないんですよ」

「何か買い物でもしてから行くんじゃない。待ってあげなよ」

 そう言われると、そうなのかもしれないと思う。

「そうですね。待ってみます。すみません、お騒がせして」

 それからさらに一時間待ったが、由紀は現れなかった。次第に落ち着かなくなった良太は、由紀の家に電話をしてみた。これまでも家にはあまり電話したことはないけれど、状況が状況だけに居ても立っても居られなかった良太は我慢できなかった。何度かのコール音の後、受話器があがり声がした。電話をとったのは、由紀の母親だった。

「ああ、今ちょっと前に由紀から電話があって、今日は友達と会ってくるから少し遅くなるといってたわよ」

「あっ、そうですか、すみません」

 良太は慌てて電話を切った。由紀と良太が付き合っていることは、由紀の母親も知っているとは言っていたが、どのように伝わっているのかわからなかったので、すぐに切った。それに、由紀が母親に言った「友達」とは、自分のことに違いないと思った良太は早く席に戻りたかったからだ。一杯目の紅茶を飲み干してしまった良太は二杯目を注文した。

 入口の自動ドアが開く音がする度に目をやるが、一向に由紀は現れない。どういうことだろうか、母親が言った「友達」というのは、自分のことではなかったのか。何度メールを送っても、何度電話をしても、相変わらず返事は来ない。苛立ちと焦燥感が心を占める。でも、きっと由紀は来るはずだ、そう自分に言い聞かせて、良太はじっと待った。

 だが、夜が深まるにつけ、店内にいた客の数は減っていく。やがて、良太ともう一人の客だけになったところで、閉店の時間となった。結局、良太は5時間以上待ったが由紀は来なかった。店員に見送られ、重い足取りで自宅へと向かった。もはや由紀に対する怒りは消え、ただ虚しい疲れだけが残っていた。由紀はなぜ来なかったのか。自分が待っているのをわかっていながら、連絡すらなかった。由紀の心の中に今何が起きているのか、それを良太は知りたかった。翌日いつもより早く会社に行き、由紀を待った。昨日のことを直接本人に聞きたかったからだ。まだ誰も出社していない中、良太は自分のロッカーを開く。すると、ハンガーをかける棒のところに、小さな封筒がぶら下がっていた。それが由紀からのものであることは容易に想像がついた。由紀が昨日帰り際につけていったものに違いなかった。もぎ取った封筒の中には一枚の便箋があり、そこにはこう書かれていた。「昨日は行けなくてごめんなさい。この一週間いろいろ考えたのだけど、もう良太と付き合うことはやめることにしたの。勝手でごめんね。今後はお互い、一人の職場の仲間に戻ってください」

 なんでだよ。由紀からの突然の別れの切り出しに、良太は思わず声に出していた。まだ誰も出社していない部屋で、自分のバッグを机に叩きつけていた。なんでだよ。もう一度同じ言葉を吐き出した時、涙が零れた。その後、良太は由紀と仕事のことで必要最低限会話をするだけとなった。由紀は二人が付き合う以前のように振舞ったが、良太は由紀に対し、必要以上に冷淡な対応しかできなかった。良太の感情が大人になり切れていなかったからである。それがあまりに露骨だったため、経理の中山加奈に呼ばれ、注意された。二人が別れたことを中山だけには伝えていたのだ。

 同じ別れるにしても、由紀はなぜ直接会って別れを告げなかったのだろう。今も入口の自動ドアに目を向けながら、遠くなってしまった過去に思いをはせていた。今日も由紀は現れないのではないか、そんな不安がよぎった時、由紀が入口を入ってくるのが見えた。時計を見ると、約束の時間ぴったりだった。店内を見渡している由紀に、手を振る。気づいた由紀は顔を緩め、頭を軽く下げて良太のもとへ近づいてきた。その顔には、不安と興味と、ある種の決意のような相容れないものを含んだ表情を張り付いていた。

「お待たせしました」

「いえいえ、時間ぴったりだよ。とにかく座って」

 時計をみながら笑顔を作って言う良太に、由紀も緊張を緩める。改めて見る由紀はナチュラルメイクではあったが、自分が知っている由紀よりも大人の美しさを備えていた。もともと癒し系の顔立ちだったが、あの頃よりふっくらとした顔にはまるで菩薩のような優しさが浮かんでいた。その顔を見て、由紀は今幸せなんだと理解した。由紀が今日この場にやってきたのは、先日良太が話したイベントに関心があるからだ。だからまずは、その話で由紀の気持ちをとらえておきたい。

「先日話したイベントの件だけど、うちの専務に話したら、ぜひあなたを紹介してくれとのことだった。家元は忙しい人だから、その仲介役をあなたにしてほしいと。そういうことだから、今後は直接担当している専務の連絡先をお教えするのでやりとりをしてください。もちろん、これは仕事としてお願いするので、よろしくお願いします」

 そう言って良太が頭を下げると、由紀も慌てて頭を下げて言った。

「こちらこそよろしくお願いします」

 専務の連絡先を知らせることで、仕事の話は終わった。良太にとっては、ここからが本番であった。しばらくは飲み物を飲みながら世間話をしていた。

「さっき店に入って来た時の君を見て思ったんだかど、とても幸せそうだね」

 タイミングを見計らって良太が言った。一瞬由紀は良太の顔を見つめたが、すぐに答えた。

「おかげさまで幸せです」

「普通なかなかそう言いきれないものだけど、本当に幸せなんだね。そんなあなたに会えて嬉しいとも思うけど、羨ましいとも思う」

「あなたは今幸せじゃないの」

「どうだろう。幸せの意味がわからなくなっているというのが本当のところかな」

 人はみな幸せになろうと生きている。『幸せ』が何なのか、答えもわからずに。幸せを求め、自分の前に敷かれたレールの上を最後まで走り抜けて、結局、幸せは途中駅にあったと気づいたりするのだろう。きっと幸せなんてそんなものだろう。

「相変わらず難しく考えるのね。もっと楽に、ただ感じるだけでいいのに…」

 お互い次第に当時のような感覚で話ができるようになっていた。

「そうかもね。なんだか昔より綺麗になって、キラキラ輝いているあなたは、僕の知らない人みたいだ」

「私、変わった?」

「いい意味で変わったと思うよ。あの頃のあなたには、いつも影がまとわりついていた。それが僕には魅力だったんだけど。今のあなたには、影を消してしまう命の輝きがある。それでいて、慈愛のようなものが満ち溢れている。こんなこと言ったら怒るかもしれないけれど、菩薩のような光を放っている」

 良太と付き合っていた頃の由紀は、母親との疎ましいほどに濃密な関係が、自分の未来を狭めていることに淡く苛立っていた。そのせいか、由紀は優しかったけれど、同時に泣きたくなるような冷たさを持っていた。実はそこが良太とよく似ていて、二人の距離が縮まったようにも思う。留美子には自分にないものを求め、それに疲れたから、今度は自分に似ている由紀を選んだ。

「菩薩って。どう反応したらいいかわからないわ」

「そのままの意味なんだけど。今回あなたに会ったらどうしても聞きたかったんだけど。あの日はどうして来てくれなかったの? 僕はずっと待ってた」

「本当にごめんなさ。でも、会ってしまったら、あなたに押されて私は曖昧な気持ちのまま付き合いを継続することになるってわかってたから。それは避けたかったの」

 なんとなくわかる気がする。当時の自分だったら、由紀がなんと言おうと説き伏せて付き合いを継続させるようにしただろう。

「そうか。それはわかりました。じゃあ、来てくれなかった本当の理由は何だったの? 今更かもしれないけれど、教えてくれない。翌日にロッカーに貼ってあった手紙はもちろん読んだけど、よくわからなかった。その後結局何も聞けなかったから…」

 たぶん今日良太と会うことになった時に、そのことを訊かれると覚悟してきたのだろう。重い口を開いてくれた。

「あなたのことが好きだった。でも、『好き』の先がなかったの」

「好きの先? 好きだけじゃ駄目なの」

「あの頃、私は母のこともあって、結婚を考えていた」

「それは僕も同じだったよ。まだはっきりプロポーズしたわけじゃなかったけど、そういう思いは伝わっていると思ったんだけど」 

 由紀は恵子以外で唯一結婚を意識した女性だった。由紀と付き合う中で、彼女となら堅実で幸せな結婚生活が送れるのではないかと思ったからだ。

「うん、それはわかっていたわ。だからこそ悩んだの。好きの先にあるのは、私は愛し合うことだと思っているの。そして、愛し合うということは『現実』だと思うの。単に『好き』というような、不安定な感情ではなくてね」

 当時の良太は、愛情というものを由紀のようには信じることができなかった。『愛』とは、もっと恐ろしいもの、矛盾を孕んだものだと思っていた。由紀は『好き』という感情は不安定だと言ったけど、良太は『好き』という感情のほうが明確で信じるに足るものだと思っていた。時間によってそれが劣化した時は、その事実をお互いが認めて離れればいいだけのこと。ところが、本当は信じることなどできない『愛』に縛られてしまうと、容赦なくお互いを追い込み、にっちもさっちもいかなくしてしまうことがあると。

「僕との恋愛には現実感が感じられなかったということ?」

「私にとってはそうだったのね。でもそれはあなたのせいでもあるのよ。あなたにとっては、私でなくとも良かった。たまたま、その時私が傍にいたから、あなたは私を選ぼうとしただけ。だけど、私は私じゃなくては駄目な人の傍にいたかったの」

 二人の距離はあの時と同じように、近いようで遠い。

「どういうことなんだろう。僕にとってもあなたじゃなければ駄目だと思ったから結婚を考えたつもりなんだけど…。自分では、それほどいい加減ではなかったと思うんだけど、違った?」

「私はあなたがいい加減な人だとは思っていなかった。だけど、あなたに漠然とした不安を感じていたことは確か。それがどこから、何から生まれているのか、私にもわからなかった。でも、その不安がある限り、あなたとの関係をさらに深めることはできないと思ったの。その『不安』こそが、あなたにとっては私じゃなくてもいいということを指すの。だから、私はもっとわかりやすい、感情に左右されない愛情を紡ぎあえる人を探したいと思った」

「僕は好きの延長線上に『愛』はあると思っていて、その努力をしていたつもりだったんだけど…」

 本当はどこかが違うような気がするけれど、うまく表現できないので、ありきたりの言い方になってしまった。

「ごめんなさい。私の言いたいことがうまく伝わらなかったみたいね。あなたの言いたいことはわかる。でも、あなたの言ったことは、あなたが観念的に定義した『愛』というものに向かおうとしていたということだと思うけど、私は『愛』というものは現実に根を生やさせることでしか確かなものにはならないと思っていた。根本的なところが違っていたから、私たちは別れるしかなかったのだと思う」

「今度はあなたが難しいことを言ったね。でもあの時あなたは何も言わずに僕の元を離れていった」

「だから、それはごめんなさい。当時の私には今みたいにあなたと対等に対峙することができるほど大人ではなかった。だからああするしかなかったの。本当にごめんなさい」

「わかったよ。今の言葉ですべてが納得できた。ありがとう。これでちゃんと別れることができたような気がする」

 良太は両親の死によって受けることができなくなった人を包み込むような愛情を、優しさを由紀に求めてしまったのかもしれない。でも、由紀は恋人である良太に、もっと対等な愛情を求めていたのだろう。どこまでも重なることのなかった思いの残骸が目の前にあった。

「さっきから気になっていたんだけど、大丈夫?」

「何が?」

「顔色があまり良くないし、なんだか哀しそうな目をしているから。私の知っているあなたは、いつも前向きで、心配するほど元気だったから」

 哀しそうな目と言われ、良太の気持ちが一瞬揺らいだ。気持ちを強くしないと、すべてを話してしまいそうだった。

「大丈夫だよ。久しぶりにあなたに会えて、少し気持ちが緩んだせいかもしれない。大丈夫だよ。元気、元気」

「なんか空元気みたいだけど…」

 心底心配しているような由紀の真剣な眼差しにたじろぐ。

「そんなことないさ。心配してくれてありがとう。あなたも元気で頑張ってね。今日は本当にありがとう」

 これ以上会話を続けると心が崩れ落ちてしまいそうだったので、切り上げることにした。二人とも立ちあがり、どちらからともなく握手した。由紀の手は温かった。良太は由紀が後ろを向き店の入り口から消えるまで、じっと見つめその姿を瞼に焼き付けた。


                 十二 

 由紀との恋愛が終わった後に出会ったのが、当時得意先企業の受付嬢をしていた恵子であった。仕事で何度も通ううちに親しくなった。良太28歳、恵子は23歳だった。もちろん、当初は恵子の外見の美しさに惹かれたのであるが、何度か付き合ってみると、その性格の良さに二度ぼれしたのであった。恐らく当時恵子には何人かのボーイフレンドがいたと思う。良太は3度目の告白で、ようやく結婚を前提にした付き合いに発展させることができた。その時の喜びは今思い出しても感動するほどだった。

 良太にとって恵子は傍にいてくれるだけで心が休まる女性だった。しっかりとした自分があり、強い芯を持っていながらそのほんわかとした雰囲気は良太を虜にした。また、恵子が生きることに常に前向きであったことが、良太の起業を後押ししたと言っても過言ではない。事実、起業の意思を恵子に伝えた時、彼女は即座にサポートを約束してくれた。

 結婚してすぐに子供ができた。それがさとみである。さとみは、夫婦にとって太陽だった。何があっても、夫婦を明るく照れしてくれていた。それなのに、自分は…。

 今日、田中あゆみに会えるかもしれないという時になって、なぜだか良太は改めて恵子のことを思い出したのであった。

 改札口を出て左へ進んで行くと、北口の駅前広場に出た。柔らかな日差しが良太を照らす。駅前の様相は昔と明らかに変わっていたが、大学一年までを過ごした街は、懐かしい匂いがした。

 良太のもとに、中学三年時の同級会の案内状が届いたのは良太がまだ自分の病気の深刻さに気付いていなかった時のこと。今まで、同窓会とか同級会というものに参加したことのない良太は、いつも封を切ることもなくゴミ箱に捨ててしまっていた。だが、今回に限り、他の書類とともに保存してあった。それは偶然なのか、良太の心の中に何か引っかかるものがあったせいなのかはわからない。だが、探偵事務所に会いたい女性の調査を依頼することになった時に、同級会の案内状のことを思い出した。そして、同時に田中あゆみのことを思い出し、彼女に会いたいと切に願った。良太が初めて恋らしい恋に目覚めた相手、それが田中あゆみである。小学生時代にも、淡い淡い恋心を抱いた女の子がいたが、それは「恋」と呼ぶにはあまりにも幼い感情であった。

 純情商店街と書かれたアーケードをくぐってゆっくりと歩く。子供の頃は広く感じていた道幅が成人した自分には思いのほか狭く感じられる。両側に張り付いている商店に見覚えのある店はない。すっかり入れ替わってしまったのだろうか。今日行われる、同級会の会場は、送られてきた地図によれば、純情商店街を抜け、早稲田通りを新宿方面へ少し歩いたところにある。駅から15分程歩いて、同級会の行われる会館に到着した。階段で二階へ上がると、部屋の前に受付が用意されていた。そこには二人の女性が立っていたが、良太の姿を見て、頭の中で誰だったかと思いをめぐらせている様子が伺えた。しかし、良太のほうも二人が誰だったか思いだせない。結局お互いに誰だか確信を持てぬままの状態で受付にたどり着いた。すると、二人の女性が声を合わせたように言った。

「すみません、お名前を伺えますか」

「ジュード・ロウです」

 まったくの嘘でもない。去年新宿のキャバクラに行ったとき、ホステスの一人に似ていると言われたのだから。でも、所詮はそのレベル。80%位はお世辞で言われただけのこと。しかし、いつか言ってみたかった冗談。

 二人の女性はそろってプッと軽く吹きだした後、机の上の名簿に落とし提出いた目をあげ、良太の顔を覗き込み

「そんなくだらないことを言うのは、畑中君しかいないよね」

「わかりました?」

「今わかったわよ。さっきあなたの姿が見えた時、そうじゃないかとは思ったんだけど」

 良太のほうも、先ほどから二人のことを思い出そうと記憶を探っているのだが、まだ思い出せない。そんな良太の様子を見て、

「ひょっとして、私たちのこと、思い出せないんでしょう」

「ごめんなさい」

 良太が正直に答えると、それまでずっと黙っていたもう一人の女性があきれたような顔をして言った。

「当時から畑中君はあゆみのことしか眼中になかったもんね。どうせ今日もあゆみが目当てなんでしょ」

 その甲高く、耳障りのよくない声を聞いて思い出した。当時からいつも二人でつるんでいた女子。高野幸子と倉橋澄江だ。ぽっちゃり体型だった二人は、夏の間中、毎日プールに行っていたらしく、夏休み明けに教室に現れた時、真っ黒に日焼けしていた。そんな二人を見て、男の子たちはいつしか陰で焼き豚姉妹とあだ名で呼ぶようになっていた。

「焼き豚…」 

 反応したのは、「姉」と呼ばれていた幸子のほうだった。

「失礼な。こんな大人の色気ムンムンの二人を前にして」

 確かに二人はすっかり大人の、というか中年の入口にさしかかった女性に変わっていた。色気ムンムンかどうかは別にして。

「本当にそうですよね。失礼いたしました」

「まあいいわ。あゆみももう来ているから、さっさと中に入りなさいよ」

 部屋に入ると、すぐに幹事の大野孝が近づいてきた。この男は容貌も、体型も昔と全然変わっていない。

「本当に来たな」

「ちゃんと電話したじゃないか」

 はがきでの返信ではなく、幹事の大野にわざわざ電話したのは、もちろん参加の意思表示を示すためのものではなく、田中あゆみが参加するかどうかを確認したかったからに過ぎない。

「そうだけど。今まで一度も参加したことなかったからな。信じられなかったよ。一体どういう風の吹き回しかな」

「まあいいじゃないか。急に懐かしくなったんだよ。あの頃が」

「ふ~ん。お前も歳をとったということか。昔の悪友たちが待っているから顔を見せてやれよ」

 そう言って、奥のテーブル席に陣取り、早くも酒で顔を赤く染めた男たちを指さした。そこには、古い時間が降り積もっていた。

 女の子のスカート捲りばかりして、担任のみならず教頭からもいつも怒られていた綿引。半分不良グループに身体を突っ込んでいた遠藤。その遠藤の後を金魚の糞のようにいつも纏わりついていた山崎。正義感の塊のようだった新山。がり勉でいつも学年一、二を争う成績をとっていた岡野。まったく違うタイプだったが、なぜか仲が良かった懐かしい仲間たち。そんな中に、当時からお調子者だった良太も入っていた。それぞれ、見た目はそれなりに昔とは変わっていたが、醸し出している雰囲気ですぐにわかった。女性と違い男は案外変わらないものだ。

 幹事の大野から、とりあえずは、その悪友たちの席に座るよう指示される。良太がその席に近づくと、

「おお、畑中じゃないか」

 良太に最初に気づいたのは、当時優等生だった岡野だった。今まで一度も参加したことのない良太の登場に、みんな好奇の目を向けている。

「いやー、珍しい人が来たぞ。驚きだなあ。まあ、立っていないで座れよ、ここに」

 綿引のどこか値踏みをするような視線に出会う。岡野と綿引の間に新山が椅子持ってきた。この二人の間に座るのはどうかなと思いながらも座り、みんなの顔を見渡して言った。

「ありがとう。しかし、中学時代の同級会を未だに開催しているっていうのはすごいな」

「そうだろう。このメンバーが交代で幹事をやっているから続いているんだ。前は毎年やっていたけど、今は二、三年に一回になったけどな」

 今度は遠藤が言った。若干怖いイメージがあった遠藤も、今では人の良さそうな男になっていた。

「そうなんだ。知らなかった」

 いつも目の前のことに気をとられていて、同級会の案内状が届く度に気にはなるものの、これまで参加したことはなかった。すると、当時はメンバーの中で一番おとなしかった山崎が、ここぞとばかりに言った。

「お前も変わらないなあ。いつも先のことしか考えていない。でもなあ、こうして昔の悪友たちと話していると気づかされることも多いんだぞ」

 あの山崎がこんなことを言うとは意外だった。人間変わる人もいるものだと思う。でも、今回自分の病気のことがわかった時、否がおうでも自分の過去を振り返ることとなり、悔いることも多かった。そういう意味では、山崎の言うように先ばかり見ていると、その間に大事なものをやすやすと失なっていることがあるのかもしれない。人生の酷薄さにたじろぐ。

「そうだよな」

「ここに俺たちがいることを忘れるな。俺たちはいつまでたってもお前の悪友だ。お前のほうが嫌でもな」

 綿引の男気溢れる言葉に胸を打たれる。あの頃は、このメンバーに包み隠さず何事も話ていた。お互いに相談しあっていたことを思い出す。記憶の断片が少しずつほぐれていく。

「ありがとう」

「これからは、何かあったら俺たちに相談してくれよ」

 岡野にも言われ、男の友情というものはどれだけ時間があいても継続しているものだと嬉しくなった。もう遅いのだけれど…。

 みんなで乾杯をした後、ひとしきり昔話で盛り上がった。その後は初めて参加した良太に対して質問が殺到した。会社のこと、仕事内容のこと、そしてプライベートのこと。むろん、病気のことは除いて、すべてありのままを話した。みんなの容赦ない質問にたじたじになったが、それはそれで心地良かった。 

 固く結ばれた紐がさらりと解けるような不思議な感覚だった。

 その後は、それぞれがそれぞれの歓談に戻った。すると、隣に座っていた岡野が、一番端の女子グループの席を顔で示しながら言った。

「あそこにあゆみがいるのがわかるか。今日お前が来ることを聞いて、彼女は楽しみにしていたぜ。この後のフリータイムの時に行ってやれよ」

 当時あゆみと良太が付き合っていたことは、クラス中に知られていた。岡野の視線の先をたどると、そこにはひとりの美しい女性の姿があった。あれからもう27年くらい経っている。 

 良太の知っているのは、中学生の時のあゆみ。今良太の視線の先にいる女性が同じ人物とは、俄かには信じられない。しかし、よく見ると、その顔の中には、良太が初めて真剣に好きになった田中あゆみが確かにいた。横にいる友人と話していながら、どこか遠くを見つめている、その横顔は整っていて美しい。特徴である大きな目は変わらない。少し口角をあげ、優しい笑顔を作っている。鼻は高すぎず、でも決して低くはない。少しだけ上向きなところを、本人は気にしていたが、そこが愛らしさになっていた。すべて、良太が愛したあゆみだった。

「じゃあ、これからはフリータイムになります。みなさん、席を移動して自由にご歓談ください」

 幹事の大野の声に、多くの人間が席を立ち、思い思いの場所へと移動し始めたが、あゆみは席に着いたままである。隣の岡野が「さあ、あゆみのところへ行ってやれ」と言ってくれる。旧友のサポートに感謝しつつ、良太はあゆみの元へ近づいた。人の気配に気づいたあゆみの意思の強さと繊細さを感じる目が良太のをとらえた。目と目が絡み合う。行き場を失った緊張がふいに溶ける。

「良太…、よね」

 懐かしい声だった。人間見た目は変わっても、声は変わらないものらしい。苗字ではなく、名前で呼んでくれたことも嬉しかった。

「そうだよ、あゆみ。相変わらず綺麗だね」

「そんなことないわ。残念ながら、年月は残酷よ」

「いや、僕の知っている田中あゆみでいながら、大人の色気を備えた気品のある女性になった」

「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」

「もちろん、お世辞じゃないさ。でも、ごめん、もう田中じゃないよね」

「ううん、二年前に田中に戻ったのよ、私」

「そうなんだ。じゃあ僕と同じだ」

「えっ、良太もバツイチなの」

「そう」

 そこで二人は改めて顔を見合わせ、お互い軽く吹き出した。

「まあ、座って話そうよ」

 ずっと立ったままだった良太にあゆみが言う。

「今回、良太が参加するって聞いて楽しみにしていたのよ」

 お節介な幹事の大野がへんに気を回して、事前にあゆみに伝えたのだろう。

「大野から聞いたんだと思うけど、本当は内緒にしておいてほしかったなあ。あゆみがびっくりしてくれたら嬉しいかなと思って。実は僕のほうは、あゆみが参加することを確認した上で出席を決めたんだ」

「えっ、そうなの。なんか嬉しい」

 おっとりした話し方なのも、昔と変わらない。

「こんなこと言っちゃあ、幹事に悪いけど、君に会うためだけに参加した」

「駄目よ、そんな殺し文句言っちゃ」

 瞬間、頬に光の華を咲かせた。そんなあゆみが可愛かった。俺はなぜ、この人と別れてしまったのだろうと思う。と言っても、子どもの頃の話ではあったが。同時に、あゆみが元妻の恵子によく似ていることに気づく。ひょっとして自分は、あゆみのことを追い求めて、恵子と結婚したのだろうか。

 それからしばらくは、お互いの近況を語りあった。独身に戻ったあゆみは今、新宿のIT系企業で働いていることもわかった。しかし、なぜかあゆみは、お互いの仕事のことについて語り合うものの、それぞれのプライベートについての話題は避けていた。なので、あゆみがこれまでどんな恋愛をしてきて、どんな人と結婚したのかという、良太が一番聞きたい話を聞くことができない。

「あゆみ、明日改めて時間作れないかなあ」

 あゆみがプライベートな話題に触れることを避けているのは、旧友たちに囲まれたこの場では話しづらいのかもしれない。それに、良太自身も二人きりで話したいことがある。だから、思い切って言ってみた。

 今回の過去の恋愛への旅も、あゆみで最後になる。というより、敢えてあゆみを最後にした。良太の中で留美子や由紀とあゆみはやはり違う存在だったのだ。

「明日?」

 そう言って考える仕草をするあゆみ。

「お願いだ。どうしても君ともう一度だけデートがしたいんだ」

 どんなことがあっても、あゆみと二人で会うと決めていたが、あゆみがバツイチだと知って誘いやすくなっていた。

「わかった。大丈夫よ」

「そうか、ありがとう。じゃあ、一緒に深大寺へ行ってくれる?」

 深大寺は二人が最後にデートをした場所であり、同時に二人が別れる原因となった場所でもあった。

「深大寺?」

 あゆみもそのことが頭を過ったのに違いない。逡巡しているのが伺える。

「ごめん。敢えて深大寺に行きたい」

「そうね。それもいいかもしれない。わかったわ、いいわよ」

 あゆみなりに感じたことがあるのだろう。

「ありがとう」

 翌日曜日の午前十時半に吉祥寺駅の改札口を出たところで待ち合わせることを決め、その日の残りの時間は、それぞれ旧友たちと親交を深めるために使った。


                 十三

 夏のなごりの空の奥に小さな雲が流れ、その一番高いところにある太陽からまっすぐに光が降り注いでいる。

 日曜日の吉祥寺駅は人でいっぱいだった。良太は人波をかきわけるようにして改札口へ向かう。街路樹が影を作る道の先に、笑顔で手を振っているあゆみの姿が、まるでそこだけくりぬかれたようにくっきりと浮かんでいた。

 深大寺へ行くということで、今日のあゆみは黒のデニムに赤のニットという軽装で、しかも昨日はアップにしていた髪を下げている。一段と若々しく見える。

「ごめん。待たせちゃった?」

「ううん、私もちょっと前に着いたところよ」

 風で髪がなびいている。まるみを帯びた声があゆみを柔らかく包んでいる。わずかに上気した顔から、彼女なりに嬉しそうな様子が伺えた。こうして体温を感じる距離に再びあゆみがいることが不思議だった。そんな彼女を見ながら、自分はどんな顔をしているのだろうかと考える。果たして、彼女に釣り合う男になっているだろうかと心配になる。

「じゃあ、バスに乗ろうか」 

 深大寺には何回か来たことはあったが、念のためネットでバスの乗り場を確認してきた。

 およそ15分ほどで深大寺に着いた。まずは蕎麦屋が軒を連ねる参道を歩き、深大寺本堂を目指す。日曜日のせいか人通りは多いが、良太の心は穏やかだった。

 人混みに紛れるように、良太はあゆみの手を握ろうとした。すると、あゆみは手を開き、指と指を絡めてくる。ああ、二人はすっかり大人になったのだなあと、当たり前のことを思う。同時に急に気恥ずかしさに襲われる。

 良太が初めてあゆみと手を繋いだのは、中学一年の、まだ付き合い始めて間もない頃のことだった。学校から二人で一緒に帰る途中で、良太は無性にあゆみと手を繋ぎたくなり、おずおずと自分の手をあゆみの手に近づけ、触れた。その段階で拒否されれば撤退するつもりだったが、あゆみはされるままだった。そこで、思い切ってあゆみの手を握ったのである。少しひんやりしていたけれど、あゆみの手は柔らかくてまるでマシマロのようだった。手を繋ぐことで、二人がひとつになれた気がして良太を無条件に幸せにした。あの時は空気がどんどん濃くなっていくように思えた。

 そもそも二人が付き合うことになったのは、中学一年の時、良太が学級委員長、あゆみが副委員長になり、会話する機会が増えたことからだ。次第に二人の距離は縮まっていき、デートするまでに発展した。といっても、せいぜい一緒に映画を見にいく程度のことであったが…。二人の距離が真の意味で深まったのは、結果的に、あのことがあったからと言ってよい。

 二人の付き合いは二年生になっても続いていたが、一進一退を繰り返していた。二人の気持ちは些細なことでぶつかり合い、波打つように揺れ動いていた。すべては、すでに一人の女だったあゆみの繊細で秘密めいた『女心』のわからない良太のせいであった。当時、良太は子供ながらに深い森でさ迷っていた。 

 そんな中、二年生になった良太の家族に望まない事故が起きた。夏休みになり、良太が友達の家に泊りがけで遊びに行っていた時のことである。良太の家で車を運転できるのは母親だけだったこともあって、父親の帰宅が遅くなった時は、いつも母親が駅まで車で迎えに行っていた。

 その日はしとしと降る雨で、汗が身体に纏わりつく不快な一日だった。帰宅が遅くなった父を、いつものように良太の母が車で駅まで迎えに行き、家に帰る途中で事故にあった。交差点の信号が青になり、母が車を発進させ、道路の真ん中あたりに差しかかった時、飲酒運転の車が横から猛スピードで突っ込んできて、母の車にぶつかった。両親は即死だった。

 その後、両親を失い、一人残された良太は伯父の家に引き取られることになったが、ズタズタになった良太の心が癒えることはなかった。伯父夫婦は決して悪い人ではなかったが、良太からすればやはり他人だった。生活をしていく中で必然的に叔父夫婦に気を遣わざるを得なかった。その時から、良太にはごく普通で、ありきたりの、退屈な日というのはなくなった。良太は子供の頃から持っていた自分の夢を机の引き出しに、そっとしまった。

 そんな良太にとっては、学校が唯一普通に戻れる場所のはずだったが、不必要なまでに神経を尖らせた良太を待っていたのは虚無感だけだった。両親を失い、ずべてを失ったことで『大人』になった良太にとって、教師や級友たちが放つ言葉たちは何も響いてこなかった。だが、あゆみだけは違った。余計なことは何ひとつ言わず、ただ寄り添っていてくれたのだ。良太が望む時だけ、良太の手を握り続けてくれたのだ。良太の悲しみのすべてを吸い取る綿のように、ただそこにいてくれた。

 本堂で二人並んでお参りをする。あゆみはどんなことを祈願したのだろうか。

 本堂を出た後、植物公園深大寺門から西へと向かう。右に植物公園、左には鬱蒼とした深大寺の森が見える。やがて、深大寺の墓所が現れるが、その墓所から南に下る小道へと進む。中学生の時のデートと同じコースをたどる。三昧所の坂という名の、その小道は二人が好きな坂である。緑が深く、原生林の残るこの場所は、あまり知られていないせいか歩いている人も少なく、華やかな深大寺山門周辺とは違った趣が感じられるからである。道の先には、縁結びの神様であるご本尊『深沙大王』が祀られている深沙堂がある。今の二人にとっては、微妙なそのお堂を参拝した後、再び三昧所の坂に戻り、途中にあるお蕎麦屋さんに入る。ちょうどお昼時になっていた。向かい合って蕎麦を食べ、すこしゆったりとした気持ちになる。

「デートなんて久しぶりだわ」

 あゆみが少し寂しそうな顔をして言った。

「離婚した後、付き合った人はいないの?」

「とてもそんな余裕はなかったわ」

 多くの場合、離婚した後、子供を引き取るのは女性だ。しかし、女性がひとりで働きながら子育てをする大変さは、わが家の場合を考えてもわかる。だから良太も元妻の恵子には感謝している。その点、男は養育費の発生で経済的な負担は増えるものの、精神的にはある種の解放感を感じてしまう。

「そうだよな」

 あゆみはそれ以上、何も言おうとしない。そこで、良太はずっと気になっていたことを聞く。

「いろいろあった?」

 良太の言葉に、あゆみは表情は変えなかったが、顔の角度を心持ち下に向けた。目は伏せられている。

「いろいろあったよ」

 すべての感情を捨てたような言い方だった。『いろいろ』の部分に思いがこもっていた。いったいあゆみに何があったのだろう。でも、あゆみはすぐに顔をあげた。

「でも、もう立ち直ったから大丈夫よ。せっかくのデートなのに、暗い顔になっていたとしたらごめんね」

 そう言って、華のある笑顔を作って見せた。それが余計に良太にはいじらしかった。

「いや、僕のほうこそ、余計なことを聞いてしまった…」

「気にしないで。あっ、そんなことより、娘の写真見る? 中学時代の私にそっくりだから」

「へぇ~、そうなんだ。ぜひ見せて」

「本当に見たい?」

 バッグから取り出したスマホを胸元に隠すようにしながら、良太の顔を見て、茶化すような口振りをする。やっと、あゆみらしくなってきた。

「だから早く見せてよ」

 胸元のスマホを取るようにして良太が言う。

「わかったから、ちょっと待って」

 スマホの画面をスクロールしながら、娘の画像を選んでいる。

「はい、これ」

 良太の顔の前に出されたスマホの画面には、弾けるような笑顔の娘の姿が映っていた。

「う~ん。確かにこれはあゆみそのものだ」

 本当に中学時代のあゆみにそっくりだった。だが、同時にさとみにもよく似ていた。そのことはあゆみには言わなかったけれど。

「りんは私に似ちゃったのよね。鼻の形まで。あの人に似ればもっと美人だったと思うけど」

 あゆみの特徴でもある、鼻が少しだけ上向いているところも似ていた。恐らく、そのことを言っているのであろうと察しがつく。今でもあゆみはそのことを気にしているのだとわかった。

 あゆみの娘が、りんという名前だと知る。田中りんというその名は、何か時代劇にでも出てきそうな名前だと思うけれど、すごくいい名前だとも思った。

「十分きれいだよ。さて、じゃあ行こうか」

 蕎麦屋を出た二人は、山門周辺に戻り、デートを楽しんだ。この頃になると、二人ともすっかりリラックスしていて、もう余計なことは頭に浮かばなくなっていた。むさしの深大寺窯でらくやき体験をし、鬼太郎茶屋でグッズを買い、周辺の店でお団子やお饅頭を食べ歩いた。

 東京の空に夕闇が迫ろうとしている頃、歩き疲れた二人は、深大寺通りで「まんじゅえん」と書かれた木の看板とアンティークな雰囲気に誘われて隠れ家のような喫茶店に入った。

 店の中に入ると、手前が雑貨の展示、販売コーナーになっていて、奥が喫茶コーナーになっていた。二人は雑貨コーナーをさっと見た後、喫茶コーナーに入った。奥の4人掛けのテーブル席に、窓の外の景色を眺めるために、横に並んで座った。特に言葉を交わしたわけではないが、あゆみが自然な動きで良太の横に座ってくれたのは嬉しかった。木の温もりにあふれた店内。深大寺の門前の賑わいが嘘のような静かな空間であり、まさに隠れ家といった雰囲気に癒される。店内には、クラシックがちょうど良いボリュームで流れている。落ち着いた雰囲気の年配の店員がオーダーをとりにきた。二人は紅茶ヒーを頼む。静かな時間が流れている。

「良太、なぜ今日私を誘ってくれたの?」

 目の前の自然の景色に溶けてしまいそうな、柔らかで懐かしい声だった。良太は何と答えようか迷ったが、本当のことを言った。

「終わりにするため、だよ」

「終わりにする?」

「僕たちは、あいまいなまま、というか中途半端な形で別れてしまった。だから、ちゃんと終わりにしたい」

「あのままじゃ駄目なの?」 

 良太にとっては初恋といって良いものだった。初めて真剣に人に恋した。愛した。といっても、もちろん、当時中学生同士だった二人に身体の関係があったわけではない。手を繋いだり、別れ際にハグしたり、せいぜい軽いキスをするくらいだった。そんな淡い初恋は、淡いままにしておくほうがいいのかもしれない。だから、あゆみの言いたいこともわかる。でも、だったら、今回の同窓会にも参加しなかったし、今日あゆみを誘いもしなかった。

「そうかもしれない。そのほうが良かったとも思う。でも、僕にはそうできない理由がある」

 言わないつもりだった。留美子にも、由紀にも話さなかった。でも、あゆみには言ってしまいそうな自分がいる。

「理由って、何?」

「本当は言わないつもりだったけど…」

 まだ決心がつかない。目の前の景色を見ながら口を閉じてしまった良太を、横に座るあゆみは辛抱強く待っている。

「実は僕癌なんだ。胆管癌で、しかもステージ4。余命半年と宣告された。だからもうあゆみとは二度と会えない」

 あゆみは良太の言葉の置き場所を失っている。一枚の静物画のように動かない。

「それであの時のことをちゃんと伝えておきたいと思って」

「そうだったの…」

 空洞を見つめ、声を振り絞るようにして言ったあゆみ。

「あの時のことなんか、もう怒っていないよ。だから、もう何も言わなくてもいいよ」

 あゆみは良太が何を言いたいかわかっている。懸命に涙を堪えているあゆみの顔を、辛くて良太は見ることができない。あゆみのほうも良太の顔を見るのが辛いのだろう、まっすぐ前を向いたまま、そっと良太の手に自分の手を乗せた。

 二人は中学二年生の秋に、デートのために今日のように深大寺に来た。帰りに吉祥寺の駅前の喫茶店に入った時、二人は小さな喧嘩をした。あゆみの親友の高鍋ミクがいじめにあうようになったという。その理由を聞くと、遊び仲間のひとりが誕生日を迎えるため、そのお祝いをマックでやろうと誰かが言い出したようだ。当時流行っていたことだ。しかし、それを聞いた高鍋が「私はそういうの好きじゃない」と言ったらしい。以来、高鍋はいじめの対象になってしまったという。そんなことでと思うが、この年齢の子供たちのいじめは何がきっかけで起きるか、当人たちですらわからないのだ。その話をあゆみから聞いた時、良太はその場の空気を読めなかった高鍋の放った言葉が悪いと言った。つまりいじめを引き起こしたのは、高鍋の方に原因があると。当時の良太は客観的に考えて、高鍋のほうに間違いがあったと思ったのである。本当は何が正しいかなんてどうでも良いことだったのである。なのに…。あゆみは急に口をきかなくなった。あゆみにとっては、自分の親友のほうを非難したことが許せなかったのだろう。でも、当時の良太は、自分は正しいことを言ったのに、急に怒り出したあゆみのことがわからなくなった。急に遠い存在となった。

 結局、喫茶店を出て電車に乗り、家路に向かうまで二人は口をきかなかった。それからすぐに、良太は世話になっていた伯父の仕事の都合で引っ越すことになり、最後まであゆみとは言葉を交わさなかった。

 自分の両親が交通事故で亡くなった時、ずっと寄り添ってくれたあゆみなのに、自分はあゆみが辛い思いをしている時に、あゆみの心の襞の深さを感じることができなかった。心がチクリと痛む。かすかな酷薄さをもって無彩色の自分の過去をスローモーションのように浮かび上がらせる。

「あの時の僕はあゆみの気持ちに寄り添えなかった。本当にごめん。ただそれが言いたかった」

「ありがとう。その言葉を聞けて嬉しいわ。でも、私も良太に謝らなければならないことがあるの」

「君が僕に?」

「あの時はミクの話として良太に言ったけれど、本当は私の言った言葉だったの。私の不用意な発言が引き起こしたこと」

「だとすれば、あの時いじめにあっていたのは、あゆみだったのか」

 考えて見れば、高鍋はただただ大人しい子だった。そういうことを言う可能性があるのは、確かにあゆみのほうだった。あゆみはおっとりしているように見えるけど、案外思ったことをはっきり口にするタイプだった。

「そう。でも、良太には素直に言えなかった。なぜだろうね」

「気づいてあげられなかった。辛い思いをさせてしまって、重ね重ねごめん」

「だからもういいよ。お互い、まだ子供だったということで」

「そうだな」

「でも…。そんなことのために、わざわざ私に会いに来てくれたの?」

「いや…」

遠い日の影絵が動く。むせかえるような花の香気にも似た情熱を確かめながら思い切って言った。

「最後に君にどうしても言っておきたかった。純粋に君を愛していたと」

 あゆみの目から突然涙が零れ落ちたのが、横に座っている良太にもわかった。今度は、良太があゆみの手に自分の手を重ねる。二人は、窓の外の木々の葉がさわさわと揺れるのをじっと見ていた。

 吉祥寺からJRに乗り換え、高円寺駅で降りる。ここで二人は別れることになる。改札口にたどり着くまで、あの日と同じように二人とも無言だった。しかし、あの日と違って、二人の心は繋がっていた。最後に、良太は両手を出し、あゆみに握手を求めた。本当は抱きしめたかったが、それは躊躇われた。あゆみも手を出し、しっかり握手する。

「じゃあ、元気で…」

 良太の言葉に頷くあゆみ。

「今日は本当にありがとう。さようなら、良太」

 そう言ってあゆみは手を離し、良太に背を向け、人々の中に溶け込むように改札口を出て行った。

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