ともかくうちに犬がくるんだ!

 洗濯干場の横に私の部屋があって、洗濯干場の青い板みたいな、プールでつかう赤い底上げのときどき滑り台にして遊ぶやつの表面みたいな、たぶん水はけをよくするためだと思うんだけど、洗濯干場の床はそんなような感じになっていて、その板と板の間がけっこうあいていて、去年の夏からそこで蝉がずっと死んでいる。


 私は始めてみたときから九相図がすきで、でもあまりグロテスクなものは好きではなく、ただ最近、実はそのグロテスクなものが嫌い、というのはパニックディスオーダー的な、なにか身体の症状であって本当は自分の本質ではないのかもしれないと思いはじめた。


 去年の夏の終わりはウサギの解体の仕方をずっと見ていて、昨日からは羊の解体の仕方をずっと見ている。もっともこれは今書いているものの資料なので、嗜好とはちょっと違うのだけれど、去年からずっと食べるための動物の解体について書いているということは、まぁ、それも嗜好なのかもしれないと思ったりなんだり。昨今では調べればどんな映像も出てくるので物を書くには非常にありがたい。


 ヴィーガンという思想、思考、それとも主義? よくわからないけれど、そういったものに興味があって、一体どのようなことなのか、という軽い興味だけれど、そんなようなこと書いてみたりなどしている。


 肉を食べたときの死んでいる感じ(あるいは生きていた感じ)が非常に苦手なので、私も身体的にはそのような主義を掲げるようになってもおかしくないと思うのだけれど、たぶん絶対にならない。なぜかしら、と考えたけどよくわからない。おいしいから? それはそう。肉感のない肉は最高においしい。けれど肉感のない肉でいいなら肉じゃない肉っぽいものでいいのではないか? 


 それでも私は肉を食べるわけだ。なぜ? おいしいから? 繰り返し繰り返し。まぁそんなことを去年の夏からずっと続けている。


 生きたままさばいた方が新鮮なので、解体はたいてい生きたまま行われるのだけれど、食べるための動物の解体はあまりグロテスクであるとは感じない。たんに身体がそれら殺される動物とつながってしまっているので、非常な苦しみを感じるだけで、映像それ自体は人間の営みという感じ。たぶん私は人間の営みというものが好きなのだろう。


 頭を昏倒させるというやり方は動物たちに苦しみを与えないためなのか、解体が楽になるためなのか、おそらくかつては後者で、いまでは前者が理由になるのだろう。私はあまり倫理観が健常に育たなかった側のヒューマンなので、殺すということがさほどおかしなことと思えないわけだけれど、でも自分が殺されるのは嫌だから、やっぱり殺すのはよくないよなとも思うよちゃんと。


 そんなことより犬がくるんだ。


 九相図の洗濯場の蝉はさっきみたらいつの間にかお尻の硬いところの三角形しか残ってなかった。その前にメダカの鉢があって、冬のあいだ寒いだろうから一番日の当たる洗濯場においてあげていたのだけれど、春になったらしくて最近ぽこぽこ上に昇ってくるようになった。


 そんなことより犬がくるんだ。犬。いぬ。


 最近、あまり日記を書いていないなと思って。それはよくないことだなと思って。なにか書こうと思って書いた。他人の家には犬がいるのに私の家には犬がいない。それについてなぜなのかといつも考えている。どこでなにを間違ったせいで、うちには犬がいないのだろう。


 そもそも自分がいつから犬を好きなのか、もっと言えばいつからこのように動物を好きなのかとんと思い出せない。思い出せないということは、本来の嗜好なのだろう。動物はいろんな形をしていて、いろんな生き方をしていて、やっぱりいろんなかたちがあるというのがいい。


 ブタの鼻とヤマアラシの鼻はちょっと似ている。あれはヤマアラシだったのだろうか。インスタを無限動物流れてくるbotだと思っているのだけど、インスタの使い方がいまいちずっとわからないから、好きな動物は本当にただ流れていくだけなのだった。あとから探せない。ブタの鼻がたいへんに興味深いと最近知って、こんなにいい形をしていたのかと思って、スライドしたら次はヤマアラシの鼻が通った。これらは鼻としての存在感が似ている。


 ナマケモノは爪がギャルでよく子供を落っことしている印象がある。ゆったりとしていて、時空がゆがんで、そして優しい。好奇心が旺盛で、好奇心旺盛、という言葉を思い出すとき私はつねにドードーのことを思い出す。人間がめずらしくて、人間によっていって、みんな殺されてしまった。


 ロシア的な非常にロシア的な大きなおじさまがクマと愛を育んでいる。サーカスのクマとはこのようなものなのだろうか。ゴリラはバナナを剥くのがお上手で、とてもお上手で感動したのだけど、剥いた皮も食べてしまったのでなんで剥いたんだろうと思う。


 小動物はすきじゃないのですぐに「興味がありません」を押す。人間の子供と動物がからんでるほっこりするでしょ、みたいな動画も気持ちがわるいのですぐ「興味がありません」を押す。動物に人間の格好をさせるやつも非常に不愉快なので「興味がありません」を押す。そうしていくと、わたしの興味のあるようなものが多くながれてきて、天敵がいないので私の精神もいつか絶滅するかもしれない。


 げっ歯類は天敵なのでほんとうに厭だ、と思っていたけど大きなげっ歯類は好きみたいだった。ねずみの類はグロテスクなので本当にやめてほしい。ビーバーはたのしくてよい。たくさん野菜を集めて運んでいる。ヤマアラシは最高にクール。鼻の存在の仕方がブタに似ているだけじゃなくて、背中に針がたくさんついている。怒ると針が開いてわかりやすい。怒らせてしまったのなら申し訳ないと思う。あるいは怒っているのでなく困っているのかもしれないけれど、やっぱり申し訳ないと簡単に思うことができるのでいい装置だ。


 そう、うちに犬がくるんだ。でもそれは私の犬ではない。

 お兄ちゃんが家族で旅行にいくからそのあいだ犬を預かってくれという。犬種はジャックラッセルテリアで大きくないのであまり得意な犬ではないのだけれど、正月に会ったのでもう知り合いの犬なので悪くない。


 ちいさな生き物を愛することができないというのは、どういうことなのだろうか。自分が体が大きいから体の小さいものに対するなにか、心の隔たりのようなものがあるのだろうか。犬に関して言えば、体が小さいとチャカチャカしていて動きがうるさいのと、威勢を張る感じが性格的にあまり自分と合わないということなのかもしれない。でも会えば友達なので好きになる。いや、チワワとかは会っても顔が怖いなという感情しか抱けないかもしれない。


 そういうわけで、今週に一度犬が会いに来て、今月末に犬が4日もうちに泊まりにくる。でも、急に家族と離れてきっと悲しいだろう。とても可哀想だ。不安になってしまうかもしれない。一緒に寝てくれるのだろうか。急に知らない人と一緒にすごすなんてきっと厭だろうな。たくさん散歩をしてあげようと思う。朝と昼と夜に散歩をするらしい。狐狩りをしていた犬種らしい。四日間は他のことはぜんぶやめて犬と遊ぼうと思う。


 でもどうしてうちには犬がいないのだろう。犬がいたらとってもいい人生になるのにな。はやくお金がたくさんほしいな。でもまぁともかく、うちに犬がくる!


 たのしみ!!!!!


 

 










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