小説は技術でうまくならない

 ハァイ!みんなげんき!?あげぽよしてる?私は超元気!出来ることなら百回バク宙してバターになっちゃいたいくらい!


 とはいえ虎がぐるぐる回ってバターになっちゃうというのは割と結構恐ろしいことなので(私は虎なので)あまりテンションにまかせてバク宙とかしないでおこうと今強く思いました。可哀想な虎。パンケーキに塗って美味しく食べるからね。ホットケーキのほうがいいな。


 また意味のない文章を書いてしまった。


 さて、このエッセイのタイトルは事実、というか私の所感なのですが、一般的なことなんじゃないかなー? とも思うので書いてみようかな、と思ったけれどなんか急にそんなことないような気がしてきた。私の世界の話です。ほぼ小説しか書いたことないので小説の話をしているだけで、何事もそうかもしれない。


 みなさんは、どれくらい小説というものを書いていますか?


 このどれくらい、というのは継続時間のことを指していますよ。一年? 五年? 三ヶ月? まぁ色々でしょう。それに書いていない人もいるでしょう。というか多くの人はあまり小説を書かないものだと思います。いや、そう思ってたけどカクヨムにいる人みんな小説書いているのでびっくりした。そういうサイトだけど。


 そのうちに、講座を受けたり、技術書を呼んでいる方はどれだけいるのかな。データが私しかないので私を中心にずっと語りますが、所感でいうと、タイトルの意味により講座を受けたり技術書を呼んだりすることは小説を書く上で非常に「有用」です。逆説的? そうかも! 恰好いいよね逆説って。


 だって小説はね、どうやってもその人の上限きまってるからね! 自分の書けるもの以外、絶対に書けねえから! お前誰だよって感じだろうけど! うるせえ! って私もいま自分で思ってるけどね!!!!!


 やっぱり今日はテンションがミャウだな。ミャウ? 天孫がミャウ。あれ、もうなにもうまくタイピングができないぜ。でも片仮名のミャウってとてもよいと思う。ミャウ。虎の鳴き声がミャウだったらいいのにな。


 やっぱり小説に限らん話のような気がしてきた。言葉を扱う創作物、くらいにしておこうかな。上限、という言葉も分かりにくいか、でもこの言葉は使いたくないしなー。まぁ使うか。つまり才能が如実に現れるということですね。はい出ました才能! まじでうるせえよな。だいっきらいだわ。才能とか。うるせえうるせえ。


 とはいえ天才にはなりたいよな。


 言葉を使う創作物って、他と比べて技術でカバー出来る部分が少ないと思いませんか。私は思います。それは人間がほとんど言葉で思考しているからだろうと思います。小説やら詩やら戯曲やらは全て、言葉に制限されている。紡いでいる人間の思考の外には出られない。


 言葉で体験したこと以外を語ることはもちろん出来ますが、思っていないことは語り得ない。何かを描くのに私たちは一度思う必要がある。自らの思考を通す必要がある。思考が私たちの道具なのです。


 絵を描く時には何らかの道具がそれを仲介してくれます。たとえばバナナを描く時には「バナナ」と「バナナを描こうとする人間」との間にペンとか、絵の具とか、彫刻刀とか、そういう道具があり、物体としてそれらを使うことでバナナを描くことが出来る。それがすごく難しいから私は絵が描けないのですが。


(才能というものでいうのならば、絵画や彫刻やそういった身体性の高い芸術の方がより初期の時点で向き不向きが分かりますね。つまり、才能のあるなしが)


 言葉を使う創作物の場合、その人が向き合わなければいけないのは、バナナという存在と、思考だけです。ペンで書くとか、パソコンに打つ、とかいうことはバナナを書く時の道具ではない。いや、それを道具と定義するにしても、その間にもう一つ道具を足さなければいけない。言葉。言葉、言葉です。


 ところで、言葉に対する身体的感覚というものがありますね。


 私はあると思っている。ないと思っている人も中にはいるかな。言葉に対する第一の感覚はすべて身体的な感覚です。たとえば「ひいらぎ」という言葉に触れた、見たときに起こる身体の微妙な変化。それは辞書の中の「ひいらぎ」という項目にある意味だけはないはずです。言葉に対する感覚。詩情というのが分かりやすいかな。


 特に日本語は表意文字文化圏なので、言葉に対する身体的感覚が強いのではないか、と思いますが、教養がないので私の言っていることは全てあてずっぽうです。あてずっぽうの精度を上げるためにNHKラジオを聞いて寝ているんだ私は。


 で、その言葉に対する身体的感覚=詩情って、技術うんぬんで身につくものではないんですね。もはやそれは人間そのものなので。道端で子供が転んでいるのを見てどう思うかとか、そういうレベルの問題。


 ちなみに私は転んだのが近所のうるさい知っている子供だったら「ざまあ!」と思うし、知らない子供だったら「転んだな」と思う。その後に「社会的になにか気にした素振りをしたほうがいいな」くらいは思うかも知れない。どんな修行をしたって「可哀想に!」とか「がんばって!」とか思うことはない。死んでも思わないだろう。いや、60歳くらいになれば思うかも知れない。あと友人の子供だったらめちゃくちゃ焦ったり偉いね―とか思うと思うけど。


 ともかく、思うということを矯正したり強化したりということは、ほとんど不可能です。ありえなくはないだろうけど。一回人格全部壊すくらいのことは必要でしょう。詩情はそれと同じで、言葉に対して「こうを思おう」とすることは出来ないし「なんかもっといい感じの感覚ちょうだい!」みたいなことを欲したところで何も起こらない。言葉は私ではないが、私たちはほとんど言葉で出来ている。


 というわけで、その言葉を使う創作である小説は、その人間に書けるものの上限がわりと決まっていると思うのです。


 とはいえ、自らの感性を打ち破るものを多く摂取すればしただけ、上限の上にちょっと空白は作れると思う。でもそれだって、自分の感じうる範囲でだし、あんまりそればっかりやってると多分小説書く意味ってなに? みたいな哲学のほうにいっちゃう気が、私に関してはするんですよね。そう、ずっと私の話だった。


 で、技術、そう技術の話でした。


 小説に関する技術というのは、構成に関するものとか、人称に関するものとか、姿勢に関することとかいろいろありますが、それらは小説を書くことの上限には作用しないかもしれないけれど、下限に対しては効くんじゃないかな、と私は思っている。


 小説って、結構コンディションにがっつり左右されません? いま、私はとてもアッパーな気持ちでこれを書いているので、たぶん明日とかに読んだら、打ち沈むようなはちゃめちゃな文章になってると思いますが。


 で、技術を身につければ、そのコンディションで左右される、その振り幅を縮めることが出来ると思うんですよね。そう思って、わりと結構こう、技術書とか読んだり、構成を勉強したりとか、して、いるんですが。


 そもそも技術が身につかないなーって!


 えっ! びっくりした。なんか、いつも私は書きながら考えるというか、書きながら考えていないので、エッセイがどこに終着するのか知らないまま書いてるんですけれど、まさかそんなところに着陸するとはね。確かに!


 ぜんぜんコンディションに左右されるしな、技術、覚えてないしな。毎回小説の書き方から忘れるしな。文章の書き方覚えているのに小説の書き方って忘れない? あれなんなんだろうね。


 あーびっくりした。ま、いいか。たくさん文章書いてエッセイを書いたという実績も出来たし。なんか今日頭の調子がよいと思っていたけれど、この文章の感じをみていると 調子が悪い方なのかもしれないよね。


 寝よう寝よう。


 そんなわけで、今日のよくわかんないエッセイはここまで。急に落としてごめんな! いつもか! じゃ、また近いうちに会いますよ。たぶん!


 おやすみー!

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