象
私の家には読まなくていい本がある。
読む必要がないのでもなく、読むべきでないというのでもなく、読まないでいい本だ。読むことをしないでもいい。もちろん、読んだっていい。
私は本を読むのが苦手である。これは正しく言えば、本を読み通すのが苦手、ということだ。しかし同時に、本が側にないとうまく息が出来ない病も抱えている。一日一度は本屋さんに行かないと体の調子が悪くなるので、本屋さんでバイトをしている。無人島になにか一つ持っていくとしたら本屋さんを持って行きたい。もしくは大きな犬。
こんなに好きなのに、どうして最後まで読み通すことが出来ないのだろうと思う。
いつだかウラジーミルソローキンの『青い脂』を読みはじめて、冒頭の10ページくらいで余りに面白すぎて、床の上を原っぱの犬みたいにげれんげれん転げ回って喜んだことがあるが、それ以降全く読まなかった。流石に病気なのではないかと思った。
途中で面白くなくなる、というのではない(もしかしたらそうなのかもしれない)飽きてしまう、というのともちょっと違う(もしかしたらそうなのかもしれない)体力の問題だとも言い切れない(本当はそうなのかもしれない)私にはなにも分からない。
ともかく、それがとても辛い。悲しいし、単純に困る。
小説を書くのに小説をうまく通しで読めないというのは、ものすごく困る。もちろん、最後まで読める本もあるし、読んでいる本も存在している。けれど、一冊通しで読んでいる本でも、隅から隅まで読み通せている本はとても少ない。
地の文を飛ばしたり、ミステリーとかだと何言っているか分からなくて、読んでるけど理解してないみたいな感じで、なるほどねー(よく分かんないけど!)みたいな読み方をしてしまうのだ。
もうずっと悩んでいる。
小さいころは世界中の絵本を読みまくっていた。絵本であれば無限に読んでいられた。しかし、その後に児童文学に流れるタイプの本読みではなかったのだ。
絵本の後に読んだのは詩で、その後はもっぱら漫画、そして戯曲だった。もちろん全く読まないというのではなく、小説も読んではいた。でもこれは小説なら怒られないというのと(漫画は怒られる)格好良い小説を読んでたら恰好いいよね、というファッション読書だったような気もする。
ここでま書いてみて、いや、言うほどファッション読書か? と自分に意見を申したくなった。というのも、小学校のころに読んだ『カラフル』と『空色勾玉』は一生の宝だし、中学の頃は記憶にないけれど、高校の頃読んだ太宰は太宰だった。(誤字みたいになってしまったけれど、太宰は太宰だ)
というかそもそも、このお話の論点はそこではない。私が本をなかなか読み通せないということは前提のようなものである。私が言いたいのはあれだ。
本は読まないと意味がないけれど、読まないでも意味がある、ということ。
これはアフォリズムではなく、単なる矛盾だ。世の中に数多と溢れている盾と矛、二律背反、アンチノミー、自家撞着、そういうもののうちの一つだ。こういう言葉を並べるのはとっても気持ちがいい。
本は当然読まれるべきだし、私が作者だったら読んでもらいたいし、私が本だったとしても読んでもらいたいと思う。身の内をさらずなんて恥ずかしい、とか思う本もいるかもしれないけれど、情報を抱えて生まれた身なのだから、やはり誰かに読んでもらいたいと思う。そうじゃなきゃ悲しい。
けれど、本というのは情報を抱えてそこに存在しているという、ただそれだけのことがもう価値なのだとも思う。
存在しているということ。そうしてそれが、いつ開かれてもいいということ。
図書館にいると、あるいは本屋さんにいると、気が遠くなりそうになる。このうちのどれを開いてもいいのだと思うと、脳がひとつ大きくなったみたいに高揚してしまう。自分の意思で、どこにでも入っていけて、何でもなれて、誰に感情移入しても、何も感じなくてもいい。
その夥しいほどの可能性に、気絶してしまいそうになる。
思うに、私はその読まれない状態の本がとても好きなのだ。読まれた状態の本も勿論好きだけれど、たぶん、嗜好として読まれていない状態の本が好きなのだ。
だから、本は読まないと意味がないけれど、読まないでも意味がある、というのだ。本は読まれてこそだけれど、読まないでこそ、とも思う。
勿論、これを本を読まない不勉強の理由にするつもりはない。私はもっと本を読もうね、と自分で自分に毎日言っている。もうこの際、読み通せなくてもいいから、ちゃんと読もう、と思っている。でも無理に読むと本が可哀想なので、やっぱり読みたいときに読みたいものを読もうと思っている。
さてさて、冒頭に書いた私の家にある読まなくてもいい本のことだが、これは実は今まで書いた一連のお話とはあまり関係がない。
それは実在する一冊の本である。
私の家の私の部屋に二つ並んでいる本棚のうちの右側、その一番下の段の、今、右から四番目に並んでいる一冊の本である。
これは読まなくてもいい本として買った本だ。読まなくてもいい用の本である。何度でもいうがもちろん、読んだっていい。そういう約束で買ったのだ。
私はその本を買ったころ、あまりに好きなものがないので、好きな動物を決めて、そのグッズを目にしたら全て買うということをやっていた。そうすれば、今よりは幸せになれると二個下の幼なじみの師匠に言われたからだ。実行したら、本当に少し幸せになった。今では本当にその動物を本当に好きでいる。
で、ある日私はお店でその動物を発見した。
しかし、これはどうだろうと思った。グッズではないのではないだろうか。というか、明らかにグッズではなかったのだ。私は迷って、二個下の幼なじみの師匠に尋ねた。すると彼女は、とても適当な軽い声で答えた。
「グッズとして買えば? 読まない本が家にあるのってなんか恰好いいと思うよ」
それから、まぁ読んでもいいけど、とやはり適当に付け足した。
そういう訳で、私の家には読まなくてもいい本があるのだ。それはいつ読んでもいいし、いつまでも読まなくたっていい。無限の可能性としての一冊だ。
でもまぁ、たぶんいつかは読むんだろうけどね。きっと。
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