蠢く虫が羽ばたかないとは限らない

 バイト終わりに電車に乗っていたら、グリーン車との隙間に突然蠢くものが現われた。それはもちろん、虫であった。


 虫以外にあんな現われ方をするものはいない。

 虫以外に、あんなに急な存在の仕方をするものはいないのだ。


 以前、何かのエッセイで昔は雑草を引っこ抜くのを悲しみながら虫を殺して楽しむくらいの気概はあった、というようなことを書いたような気がするけれども、それはちょっと間違いである。


 私は今でもちゃんと、虫を殺して楽しむ気概は持っている。気概というか、才能?

 そうでなければ、欠陥。


 夏の夜に勉強をしていると、絶対に羽虫がノートの上に突然転がり出てくる。絶対に。もはや夏の夜に勉強をすることはないのだけれど、概念の話として。彼らは必ず急にノートの上に現われて蠢く。

 自ずと、私はシャーペンを構えて蠢くものに標準を合わす。


 これは残虐だろうか。


 そうとは思えないし、そうなのかもしれないとも思う。いずれにしても遊びだ。楽しいものだ。そういう遊びは――虫をむやみに殺してしまうというのは――時間への感覚の欠如からくるのではないか、という論を、私はいつも通勤の上り坂でペダルを踏むときに考えはじめて、答えまでの道が通らずに霧散して、自転車を降りる。


 子供がダンゴムシを丸めて掻き集めて川に流したり、蝶々をバケツに放りこんで開いた羽を「きれいねー」なんて言って笑ったり、薄い羽にシャーペンの芯を突き刺したりしてしまうのは、結局は時間が過ぎていくということを、肉感として知らないからなのではないだろうか思うのだ。


 つまり、死ぬということを知らない。


 子供が時に残虐に思えるようなことをするのは、何も他者ばかりでなく、自分に対してもそうなのではないかと思う。


 保育園に通っていたころ、私は両手にそれぞれ重みのある袋を持って、遠心力を使ってぐるぐると回り続け、回り続け、限界まで回って止まる、という遊びを延々とやっていた。


 とても危ない。


 この所為なのかなんなのか、今の私は三半規管が激烈に弱いので、思い返すだけで胃の伸縮が止まらないが、当時はそれが格別に面白かったのだ。


 自分が止まったあとにも、世界がものすごい勢いで回るのとか、体がいうことを聞かなくて、立ち上がろうとする度に転ぶのとか、それこそ転がっている箸みたいに面白かった。


 箸の転びかたはうら若き乙女がみなくとも割と面白いと思う。ころからころーって。

 閑話休題。


 ぐるぐる回っているときより、回ったあとが面白いのだ。頭とか腕とかが、床なのか壁なのかよく分からない場所にゴンゴンぶつかって、それでキャッキャしていた。

 身体へのダメージが素直に面白かった。


 やはり、死ぬという恐怖を知らない。


 遊びには大別して四つの種類があると聞いたことがある。


 競争と偶然と模擬と眩暈。


 じゃんけんは競争の遊びで、ままごとは模擬の遊びで、ジェットコースターは眩暈の遊びだ。これはたぶん単一とは限らず、たとえば水切りは競争と偶然の遊びだろうし、ジャングルジムは模擬(ジャングル)と眩暈(恐怖)の遊びなのかもしれない。


 では、虫を殺すというのは一体なんの遊びなのだろう。


 私は虫を殺すという遊びを原始的なものだと思っていて、当然誰もが通るものだと考えていたが、実はこの情動を知らない人がいるのだ。


 バイトの休憩中、昔は虫をよく殺しましたよねぇ、という話をしたとき「そうだねぇ」と答える人と「やばい奴じゃないですか」と驚く人がいた。とてもびっくりした。それはただ忘れているだけじゃないのか? それともニュータイプなのか? と思ったものだ。


 自分で世界を測るのはよくない。


 ままごとが嫌いな私のような子供もいるし、単に好みの問題ということもあるだろう。


 さて、ではこれがどういう遊びなのか、というお話だ。考えてみたが、虫を殺すという行為はどうも、競争でも偶然でも模擬でも眩暈でもないように思う。

 強いて言えば眩暈の感がなきにしもあらずだが、どちらかといえばこれは精神的酩酊であって、あけすけにいえば単なる興奮だと思う。


 いや分からない。これは「私は」という話だ。

 

 もちろん、好奇心でトンボを羽から真っ二つに割く人もいるだろう。構造への興味とかから。


 けれど、やはりこれはもっと、原初の情動、遊びなのだ。


 模擬とか競争とか、それらはちょっと高度な遊びという感じがする。言わば「人間的」な遊びだ。大脳新皮質的遊びだ。もちろん私は大脳新皮質がなにであるか知らない。


 けれど確かに、動物的な喜びに近いものがある。


 小さい虫を殺すときのあの興奮。片方の羽だけでくるくるといつまでも白いノートの上を回っているあの、小さい生き物を眺めているときの感じ。


 私は夢の中では両足では走れず、獣のように四つ足で走る。


 これもみんなそうだと思ってたのに口にしたら驚かれたことのひとつだ。そもそも夢の中でも普通に走れますけど? という人が存在するらしい。なんだそれ。それはもう起きているんじゃないのか?


 自分で世界を測るのをやめたい。たびたび閑話休題。


 土を握って四足で走り込むときの感じを、まだ覚えている人と、そうでない人がいるのかもしれない。

 スピリチュアルな話になってきた。


 そもそも、このエッセイがどこから来たのか、みなさまは覚えておいでだろうか。私は忘れかけている。どこから来たのか忘れているので、どこへ行けばよいのかわからない。


 そうだ。


 私は、電車に乗っていて蠢く黒い虫を見つけたのだ。


 細長い虫であった。もごもごと動く。連結部分のドアの下から現れて、座席の下の方へ向かい、また連結部分に近寄り、壁をよじ登ろうとしていた。ころりと落ちて、また座席の下の方へ向かう。


 ほとんど微動だにせず、私はそれを眺めていた。


 私には才能があるのだ。

 それは虫殺しを楽しむという人間的欠陥だ。


 ちまちまと歩き回る虫を見ていると、その感覚が蘇ってくるようだった。白いノートの上にペン先を突き立てる前の感覚。あるいは、水をはったバケツの中に蝶々を突っ込む直前の感覚。


 黒い虫は女性の足元に近づいている。蠢いている。


 ドアが開いた。降りる駅まではあと二つあった。あと二駅ぶん、私はこの虫と時間を共にするのだ、と思ったときだった。


「キ゜!!!!!」


 と私は声を上げた。

 実際は音にはなっていなかった。それはそうだ。「キ゜」という音の発声の仕方を私は知らない。しかし、確かに「キ゜!!!!」と叫んだ。


 飛んだのだ。


 虫が飛んだ。


 黒い虫は一瞬でこちら側に近付てきた。飛んだ。こいつは飛ぶのだ。あんなにうごうごしていたのに、もたもたしていたのに、こいつは、飛ぶ!


 私という人間はまたたく間に恐怖に包まれ、固まり、そのまま銅像になった。


 虫に見つからないように。虫がこちらにこないように。虫の中の虫の居所が悪くならないように。ただじっとしていた。


 そうして少年時代の終わりを感じた。


 私にはもう虫を殺して楽しむ才能がないのだ。原初の遊びから遠く離れてしまった。人間になったのだ。人間には死の恐怖がある。


 だから蠢く虫が羽ばたかないように注意して、二駅を銅像としてすごし、家に帰ってPS4をやった。これがこのエッセイのオチであり、結末だ。決して、行き先を見失って不時着したわけではないのであしからず。


 みんなはどんな遊びが好きかな?

 よかったら教えてね。


 おわり


 

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