墓のない死 前段
今年の春、いつものように最低時給交通費なしのバイトが終わって家に帰ると、居間の端の棒を取り付けただけの簡易な衣紋掛けに三着の黒い洋服が掛かっていた。
それを見止めたとき私は「あ!」という声を上げた。ただ、音にはなっていなかったように思う。
それでも、声は声だ。
ほとんど眠らないまま、次の日の始発で、急ぎ東海道を下った。
お前は酔うからと言って、私は常に窓側に座らされた。家族のうち、乗り物に酔うのは私だけで、そのことについて、いつもなにかを思う。その時も思った。
伯母が死んだのだ、と私は何度か思い直した。伯母は死んだのだ、と助詞を変えて思ったりもした。
実際その時伯母はもう亡くなっていて、私は電話口で伯母の死ぬ直前の、苦しむだけの声を聞いていたのだ。電話の向こう側で、五番目か八番目の伯母が、私の名前を口にして、今死のうとしている「私の伯母」を励ましていた。
「○○ちゃんだよ!」
母は九人姉妹の末っ子で、私の伯母は長女だった。
産まれてから十歳か十一歳くらいまで、伯母は私の家で暮らしていた。イソウロウだと母は言ったが、私が居候という言葉を理解したとき、もう伯母は遥か遠く、瀬戸内海に面した、日本で一番小さいという国元へ帰ってしまっていた。
田舎の家に居候しているのだ、とまた母は言った。
伯母は死んだのだ。
何度もそれを思い直す必要があった。
それは、私が生活の中で常に恐れていたことだった。
祖父は私が生まれる前に死んだ。祖母も小さいときに死んだ。私には肉感として意識できる身近な死というものがなかった。
母が戦後すぐの生まれなので、伯母はもう九十歳に近かった。
母と伯母は二十も年が離れている。
そして今や、伯母は死んでしまっていた。
いつまでも少女のような母は、電車の中から瀬戸大橋を渡る写真を撮ろうとして、うまくいかず「全然だめだ」と言った。
鉄骨ばかりが写ってしまって、小さな島々や、小さな船を捉えられず、たしかにそれは「全然だめ」だった。
道中のどこにも、伯母の死はなかった。
私は自分が悲しんでいないことを、恐ろしく思った。その時が来たのだ、もっとも恐ろしいと思っていた時だった。
だから私には何度も思い直す必要があった。
伯母は死んだ。
私は昔から肉より魚が好きだったが、あるとき急に、魚を食べることを非常につまらなく感じ、それきり昔のように好きだと思えなくなった。目の前に、身のたくさん残った汚らしい魚の残骸を見たとき、本当に、心底つまらないと思ったのだ。
伯母は焼き魚の骨のひとつひとつまで、喉につかえてはいけないと言って、すべてを取り除き私に与えた。巨峰の皮も、スイカの種も、すべて取り除いた。
そのせいで伯母は、母に何度も叱られていたが、その行為は叔母が私の家を去るまで続いた。
それから二十年経った今でも、私は一人で綺麗に魚を食べることが出来ない。魚の死体をいじくることは、私にはとても耐え難いことだ。そうまでして食べたいとは思えない。
伯母が与える魚はとても美味しかった。
叔母がいなければ、私は何もできなかった。
そんなに伯母が良いなら、伯母の子になればよいと、私は母に何度か言われたことがあった。あったのだと思う。あまり良い記憶ではないので、確かなことは覚えていない。
泣きに泣いて、謝まり続けたことは覚えている。
しかし同時に、伯母がこのまま一人でいるよりは、母に背いて伯母の子になった方が良いのではないかとも思ったのだ。
どうしてそんなことを思ったのだろう。私は、やはりその時には知らなかったのかもしれない。
田舎に着いて、伯母の死を前にして、私はほとんど前後不覚になるほど泣いた。
とても悲しかった。
道中、何度も繰り返した言葉は全くの無駄だったのだ。あんなに大事だった伯母のために、涙の一つも流せないなんて、頭がおかしいのじゃないかと恐ろしかった。
伯母は死んだ。
その言葉は、全く伯母の死を表してはいなかった。生き物の死は、実際には言葉というとものとは全く関係のない出来事だ。
もう動かない、口を開かない伯母の横にいて、その驚くほど小さな体に対して、浮かぶ言葉など一つもなかった。
なぜ泣いているのかなど、考える余地もなくいつまでも泣いていられた。
私は人の前で泣くのが非常に苦手で、それは人より多く、人前で泣いてきたからでもあるのだけれど、そんなことを考えることもなかった。
ただただ、悲しく、まさに恥も外聞もなく泣いた。
八人の姉妹たちは、それほど泣いてはいないようだった。ぱらぱらと現れた従兄弟連中も、瞳を潤ませる程度だった。
それはそうだ、と私は思った。
私は伯母に一等可愛がられた。伯母に一等愛情を注いでいたのも私に違いなかった。
私に会わせてやらないとと、伯母の息子も納棺を少し待ってくれていたくらいだ。
そこで、私はやっと気がついたのだった。
私の伯母の死の横で、私のように恥も外聞もなく泣いている人間が、その場にあと二人もいたのだ。
あれは誰だと、八人の姉妹や従兄弟連中がひそひそ話し、それに答えたのは、他でもない私の母だった。
「あれは孫だ」
伯母には、息子がいて、その息子にも息子と娘がいて、泣いているのは、その二人だった。
私の伯母には孫が存在したのだ。
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