ハイウェイナイト・アンノーンサマー(仮)

岩井まみ

第1話

平成31年、8月2日。金曜の夜の賑わいもすっかり気配を消した頃、高遠 遥(タカトオ ハルカ)は駅のトイレで鞄の中身を探り、ため息をついていた。夜行バスに乗るときは必ず持ってくるイヤホンがない。本格的に東京の会社を受け始めた6月頃から夜行バスは何度も利用していて、運の悪いときには隣の乗客の歯ぎしりやらいびきやらで眠れないことを知っていたから、耳栓代わりに持ち歩いているイヤホンだ。

「新(アラタ)のせいだな、完全に」

弟の名前を挙げ、一人悪態をつく。駅に出てくる前、遥は自宅でシャワーを浴びていた。肩まで伸びた髪をていねいに乾かしていると、突如視界が真っ暗になった。一瞬の後、事態を察した遥は、キッチンの方向に怒鳴った。

「新のバカ! ドライヤーしてるときに餅ラーメン作るのやめてって、何度も言ったじゃん」

弟の新が最近夜食によく作る「餅ラーメン」なるメニューはその名の通りカップラーメンに切り餅を投入した代物だ。オーブントースターと電気ポットを同時に使用するため、そこにドライヤーが重なることで、築50年の自宅のブレーカーはあっけなく落ちる。

「うるせー、俺だって受験勉強にはハイカロリーが必要なんだよ」

「だいたい何なの、餅ラーメンて。この時間に炭水化物と炭水化物の化合物とか、デブになるよ」

「俺は食べても太らない体質だから。姉ちゃんこそスカートきつくなったんじゃないの」

「これはリクスーだからそういうデザインなの。そんなことより早くブレーカー上げて!」


そんなひと悶着があり、慌ただしく荷物をまとめてきたから忘れてしまったのだろう。今夜は隣人が静かな可能性にかけようか。それとも、少し痛い出費だけれどコンビニで買ってしまおうか。

「……うん、今回は東京たまごは抜きということにして」

少し迷ったのち、弟の好きな東京土産を今回は買わないことに決めて、遥はコンビニへ急いだ。


限られた選択肢の中から、遥が手に取ったのはブルーのイヤホンだった。瑠璃のような暗いブルーのイヤホンは、今まで使っていたピンクのものよりもリクルートスーツに馴染むような気がした。予定外の買い物にそれなりに満足して、夜行バスを待つ行列に加わる。昼間、新幹線を利用するときは見送りの家族や恋人がホームにいて、乗客もまたこの街への未練を顔に浮かべていることが多いけれど、この時間のバスは違う。皆一様に無表情に、東京に運ばれるのを待っている。そのほうが、今の遥には気楽で良かった。余計なことを考えずに済む。晴れた夜で、無数の星がよく見えたけれど、星の多さよりも職の多さが今の自分には重要なのだ、と遥は思う。


狭いシートに体と鞄を押し込めると、新しいイヤホンで周りの音を遮断した。窓には暗幕のようなしっかりとしたカーテンが引かれ、星はもう見えない。車内には多くの人が乗っているけれど、お互いの声を聞くこともないまま、明日の朝には東京の街に散り散りになっていく。窮屈で静かな、一人の夜。眠れないとより一層、長く感じる。心地よいとは言えない揺れの中、遥は意識的に眠りにつこうとした。


湖面には、月が二つ揺れていた。青白い月と、赤い月。

だから遥は、それが夢だと気づくことができた。

(大きな湖。これはどこだったかな。でも夢だから、来たことなんてないのかもしれない)

霧がかって、対岸は見えない。人の気配は感じられなかった。

(探さなきゃ)

不思議と、寂しいとか怖いという気持ちはなかった。ただ焦りだけがあった。

(新を、見つけてあげないと。あの子は……)


(……私が御社を志望した理由は)

聞こえてきたのは、新ではない、知らない男の声だった。

(理由は……僕が、このまま東京に帰れば)

遥は目線だけで周囲を確認した。薄暗闇の中見えたのは、眠っている者、眠れない者様々だが、いつもと変わらない夜行バスの風景だ。

(全てなかったことになるんだろうか)

時刻は午前2時を回ったところだった。バスはまだまだ東京に着かない。

(それならそれが、一番いいんだろう)

その声は、”遥にだけ”聞こえているようだった。

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ハイウェイナイト・アンノーンサマー(仮) 岩井まみ @fumofumo3

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