phase2-2
「マナ」と、さっきと同じトモダチの声が、教室の前の方からあたしを呼ぶ。呼ばれる理由は分かってるから、顔を俯けて、教科書とノートを閉じてカバンにしまう。その代わりに、お弁当箱とペットボトルを入れた小さいトートバッグを机の上へ載せる。画面を見ないようにしながらスマホを鞄の中からとって、トートバッグに放り込む。その隙にも、スマホが通知を受け取って震える音がした。イスを引いて立ち上がる。トートバッグを左手にかけて前を向くと、元カレが居づらそうにしながら教室の前のドアのそばに立っていた。背だって高いのにそんなに気まずそうにしているのを見ると、なんだかおかしい。でも、感じたことは顔に出さないようにしながら、あたしは自分の席を離れる。からかい混じりの視線と笑い声があたしの背中に刺さるのも、全部無視しておく。相手にしてたらきりがない。
教室の前まできて、元カレの前に立ち止まる。元カレはあたしの顔をじっと見つめて、安心したように頬を緩めて笑みを見せる。それを見上げているのがどうしてか我慢ならなくって、あたしは空いた方の手で元カレの腕をつかんで、引っ張りながら教室を出た。昼休みになったばかりだからだろう、廊下も行き交う人ひとヒトで賑わっている。顔見知りもあるかもしれない、けど、あんまり周りを見ないようにしながら、元カレを引っ張って歩いていく。
「ショウちゃん、どうしたの」
「別にどうもしません」
「引っ張っていってもらわなくても、僕、迷わないけど」
元カレの声は腹を立ててるとか不審がってるとかじゃなくって、ただただ、戸惑っているようだった。だったら腕を放す理由もないから、腕を引っ張ったまま階段を降りていく。つま先だけで階段を踏んで、ほとんど駆け下りるみたいにしながら。踊り場にはさすがに踵まで床につけたけど、すぐに足を前へ動かして、小さくターンする。さっきと同じように階段があって、元カレの腕を引っ張りながら、あたしはつま先だけで階段を降りていく。
「ショウちゃん」と元カレの声が言うのと一緒に、あたしが元カレの腕を握っている手が、後ろへ引っ張られる。丁度、二階の床に両足がついたところ。バランスは崩さずに済んだけど、前へ進もうとする力も失われた。立ち止まって、後ろを向く。元カレは最後の一段を降りるところだった。同じ高さに立っていると、首が痛くなるぎりぎりの角度まで見上げなければいけないから、しんどい。きっと今のあたしはとても可愛くない顔をしてる。
「急がなくていいよ」
「別に……急いでません」
「だったら、僕に先に行かせてよ」
元カレはそう言って、立ち止まってるあたしの横をすり抜けて、あたしより前に出た。すれ違うときにあたしのつかんだ腕は振り払われて、代わりに、元カレの手があたしの腕をつかむ。大きな手のひらは難なくあたしの腕を握って、痛みは全然なかった。前へ引っ張られたけど、それだって無理強いをするようなのじゃなくて、あたしが動くのを促すぐらいの力しかなかった。だから立ち止まってることも出来たのに、あたしは元カレに引っ張られて歩き出す。階段を一段ずつゆっくりと、踵から足を下ろしながら降りていく。元カレの頭があたしの目線の高さにあった。ユーエツ感みたいなもので、あたしは自分の鼻をふんと鳴らす。短い髪が目の高さに来ると、乾いたその髪をかき混ぜたくなる。だから、嫌いになったわけじゃないんだ。嫌いになったわけじゃないけど、好きなのかどうかも分からなくなった。この人は甘ったるくてイヤになるくらい、あたしに優しい。
元カレの背中を見ながら踊り場をゆったりと通り過ぎて、また階段を降りていく。簡単に腕が届く距離に元カレの肩があって、これを押したらどうなるんだろう、っていう馬鹿げた考えが頭を掠める。元カレがあたしの手を握ってる以上、そんなことしたら道連れだ。もしかすると元カレはあたしがこんなこと考えるのを承知で前に出たのかもしれない。でもあたしだって、残りの階段が少ないことを見越してこんなことを考えたのかもしれない。元カレの短い髪がまた見上げなければいけない高さのところまで戻って、あたしはため息をつきそうになるのをこらえながら、下を向いた。上履きのつま先がいつの間にか青く汚れている、寄生虫を蹴飛ばして踏み潰したみたいに。瞬きをすると、上履きはどこも汚れてなんかなくって、あたしの上履きは薄汚れた白色のまんまだった。
「外、出る?」
「どっちでも、」いいと、答えようとした口を噤む。あたしの教室の窓から、中庭の様子はよく見える。あれだけ目立ちながら出てきたから、教室に残った暇なクラスメートが、窓からあたしと元カレの姿を探してもおかしくない、というか、多分その可能性の方が高い。さらし者になるのはイヤだったし、勝手に注目してくる相手に腹が立つ。「いえ、中がいいです」
「そう?」
元カレが相槌を打った声は、あたしの答えを意外に思っている風だった。「ふたりきりって嫌じゃないの?」
「外でさらし者になるよりマシだと思いません?」
「ああ……その比較なら確かに、この方がいいんだろうね」
さりげなく織りまぜられた反論には気が付いていないふりをしておく。どうせ、今からたんとその話はするのだから、何も今ここで始める必要はない。元カレは一瞬だけあたしを振り向いて、すぐに前へ向き直って、角を曲がった。元カレの腕をつかんだまま、あたしもそれへついて行く。ここまでくると、すれ違う人も居なかった。昼休みの特別教室には、誰も用がないのだろう。
元カレが、ドアの前で立ち止まる。必然的にあたしも立ち止まって、上を見る。「書道室」と、単純明快な名前が掲げてあった。本来は昼休みに食事をとるために使う部屋でないのは明らかだけれど、今日は部屋の方に諦めてもらわないといけない。ポケットから取り出した鍵で、元カレはためらいないなくドアの錠を開け、ドアを横へ滑らせて、教室の中へ踏み入っていく。としたら、あたしもそれへついて行くのが必然だった。薄暗い教室に足を踏み入れると、少しだけ慣れた墨のにおいがした。前か、前の前の時間にでも、ここで授業があったのかもしれない。普段居る教室の半分ほどの広さしかない部屋には長机が整然と並んでいて、窓の側には流し場が作り付けられていた。元カレが、あたしの手をそっと振りほどく。教卓の裏へ回って、一瞬その姿が見えなくなったと思ったら、またすぐに現れて、背もたれのない腰かけるところが丸い椅子をふたつ、胸の前に抱えていた。手首に提げたビニール袋が押しつぶされているけど、あまり気にしてないようだ。元カレはあたしの前にひとつ椅子を下ろして、にこりと笑顔を見せた。
「どうぞ、ショウちゃん」
どう返事をしたら良いものか分からなくて、あたしはまたうつむいてしまう。黙ったまま素早く椅子に腰かけて、お弁当の入ったトートバッグを膝の上に置く。ため息をつくと、肩の力がふっと抜ける。元カレが、もう一つの椅子を床に下ろして、それへ腰かけているのが見えた。がさがさと、ビニール袋のこすれる音がする。元カレは袋の中からフィルムに包まれたサンドイッチと野菜ジュースを取り出して、側の机の上へ置いた。ビニール袋は、ズボンのポケットにねじ込まれたようだ。それから、元カレの両手は軽く握り拳をつくって、両膝の上へ置かれた。さっさと食べ始めればいいのに、そうはしないのは、あたしのせい、だろうっていうのに、元カレから送られてくる視線で気が付く。お弁当を広げて食べるのは一緒に、っていうのが暗黙の了解だった。
トートバッグからお弁当箱の包みを取りだして、バッグは側の机へ置く。お箸のケースも一度机の上へ置いておく。淡い水色のナプキンの結び目を解いて、中から現れたお弁当箱を、一旦トートバッグの横へ置く。ナプキンのしわを軽く伸ばして半分に折りたたんで、腿の上へ広げる。お弁当箱を留めているゴムバンドを外して、二段のお弁当を一段ずつにして、広げたナプキンの上へ置く。お箸をケースから取りだして右手に持てば、準備はばっちりだった。
「いただきます」
箸を持ったまま手を合わせてそう言う。元カレと同時になったから、言った声がどちらのものか、よく分からなくなった。変な感じだ。でも、元カレはフィルムを外したサンドイッチにかぶりついているし、あたしもほうれん草のゴマ和えを口に運んでいるから、さっきのが合図で間違いはないみたいだ。口の中に入れたおかずの味は、分からない。噛んで飲み込んで、また口に入れてみても、同じだった。ものが入っているのは分かるし。それを噛んで飲み込むのも分かるのに、味だけがない。食べている、という感覚に乏しい。それは三日前から続いていることだ。食べてるけどおいしくない、おいしくないけど食べている。生きているから仕方がない。ほうれん草のゴマ和えがなくなったから、次は卵焼きに箸を伸ばす。
「ごちそうさまでした」と、元カレの声が言って、ぱんと手を打つ乾いた音がした。見ると、元カレの手元にあったはずのサンドイッチはもうなくなっていて、汚れたフィルムがくしゃりと握りつぶされて、ビニール袋に押し込められるところだった。野菜ジュースにストローを刺して、口元へ運ぶ。大きな手の中じゃずいぶんとかわいらしく見える紙パックは、すぐに空になったみたいだ。空気と液体を同時に吸い込む汚い音がしばらく続いた後、紙パックはぺしゃんこにつぶれていた。その紙パックを折りたたんで、ビニール袋に入れて、袋の口を縛る。丁寧な口調で話すし、人当たりも柔らかいけど、こういうとこを見ると、雑だなあというか、この人も男の子なんだなあ、なんてことを思う。卵焼きを飲み込んで、箸を一旦置くと、元カレがあたしの方を向いた。
「ショウちゃん」
あたしの名前を呼ぶ元カレの声は、目に映っているすがりつくような必死さを覆い隠して、妙に薄っぺらく感じられた。あたしに気取られないようにしてるつもりなんだろうけど、気付かれたが最後、取り繕ってる様は急に滑稽に見えてくる。あたしが気付いていることが分かればまだ良いんだろうけど、元カレの真剣な目つきからはそのどちらともつかなかった。
「なんですか、先輩」
「もう一度、ゼロからつきあいませんか?」
ただ、元カレが言いだすことはとっくに想像がついていた。連絡をとろうとしてきた理由も同じだろう、 元カレはあたしが強く望んだから首を縦に振っただけで、本心から納得なんかしてないことは、あのとき目を見ていれば分かった。その場でなくって今になってこれを尋ねてくるのが、この人の臆病なのか、打算なのか、優しさなのか、それもまた判断がつきかねるけれど、それを決められないうちはきっとこの質問へ首を縦に振ることはないんだと思う。
「ゼロじゃなくてマイナスじゃないですか? 一回付き合って、別れたんだから」
「手厳しいなあ。……ショウちゃんにはそうなんだろうけど、僕にはそうじゃないんだよ。そもそもあの話だって、納得してたわけじゃない」
「だったら、あのときに何か言ってくれれば良かったじゃないですか」
言い訳がましい元カレに向ける自分の声は、思ったよりも憤っている。あたしは、あたしが切り出した別れ話に抵抗もしないで首を縦に振った元カレに失望したんだし、今になってあのときの無抵抗を翻されたことに腹が立っている。単純なジャンケンだったら、後からだした方が勝つに決まっている。
「それは、できなかったんだ」
「嘘。しなかっただけでしょう。先輩は……先輩は、あの場でわたしを言い負かせないって分かってたから」睨みながら言うと、先輩の表情が一気に曇った。痛いところを突かれたんだろう、次に打つ手を考えあぐねて視線が宙をさまよっている。ここで取り繕えないなら、はじめから話を始めなければいいのに。せめて反応しないだけでも、あたしの失望がいっそう深まることはなかった。結局、この人も自分の理想を守るためにあたしと居ただけなんだなと悲しくなった。理想がどうのこうのっていうならあたしだって似たところはあるけど、あたしは、あたしの理想に対して、少なくともこの元カレよりは誠実に向き合いながら居たと思う。「そんな話だけなら、やめにしましょう。わたし、教室に戻ります」
「じゃあ、話をしないなら一緒にいてもいいんだね」
その元カレの返事を聞いて、自分の頭にかっと血がのぼるのが分かった。本当に、この人は自分のためにあたしに会いに来たのだと、腹立たしさと、それを塗り込めてしまうような悲しさが、あたしの視界を少しだけ潤ませた。気取られるものかと思って、下を向いて、お弁当のおかずに箸を伸ばす。ブロッコリーとハムを炒めたのを口に入れる。塩味がしたけど、それが口の中にいれたもののためにしているのかは、分からない。噛んで、飲み込んでもまだ口の中に残っている。残りの炒めものも口に入れて、噛んで飲み込んで、一度箸を置くと、トートバッグの中でスマホが震える音がした。お弁当箱を一度机の上へ避難させてから、トートバッグの中を手で探る。指先に固いものがぶつかって、それはまた小刻みに震えだした。震えが収まったところで、スマホをつかんでトートバッグから取り出して、膝の上に置いた。左手でスマホの背面を支えながら、右手で画面にタッチする。画面の真ん中にぽかりと浮かんだ四角の中には、「letter_space」の文字。要らなくなったメモを丸めて捨てるみたいに、通知をスライドさせる。あるSNSのアイコンが大きく浮かんで、アプリが起動した。まばたきを何度かする間ぐらい待つと、アプリの画面には、真っ青な寄生虫に宛てた投稿が表示される。
『
今週の日曜日、駅前の広場で十時に、待ってます。約束してたの、見に行きましょう。
』
いつものように短いけれど、いつもとはまた違った文章に、それを読んで理解した、数歩遅れで悪寒があたしの背筋を震わせた。だって「letter_space」は、青い寄生虫が、「小宮尚史」という三日前に死んだどこかの誰かが、生きていることにしてこの投稿を送りつけている。その人が死んだことは知っているはずなのに、あたしと違ってちゃんと、それを知っているだろうに。
それとも、あたしが勝手にそう思っているだけで、もしかすると「letter_space」も、SNSの上でだけしか「小宮尚史」のことを知ってはいなくて、その人が死んだことを現実に確かめたわけではないのだろうか。それとも、「小宮尚史」という人が本当は生きていて、でも、こうして青い寄生虫を誰かに送りつけて姿をくらます、なんていう遊びを楽しむような人なんだろうか。どれだっていい。どれが本当かは、分からない。ただ、心臓を取り出してかきむしりたいほど、胸が苦しかった。
「ショウちゃん?」
元カレの戸惑っている声があたしを呼んだ。視界の端から入り込んでくるその声を邪魔だと、鬱陶しいと感じながら、すがりつきたいような気もした。あたしのスマホの中に住み着いた真っ青な寄生虫が、ひどく羨ましくて、仕方がなかったから。
「さっきの話、やっぱり週明けまで待ってもらえませんか?」
画面に表示された「letter_space」と青い寄生虫の約束事を見つめながら、あたしはそう言ってみる。元カレは返事をしなかった。別に良い気もしたけれど、あたしだけがその気になってるようじゃ無様だなと思って、顔をあげる、週末は暇だったかしら、と考えながら。
「しろ先輩」と、頭の中のスケジュール帳の空白を思い浮かべながら元カレを呼ぶと、元カレは見開いた目であたしを見ていて、ほんのりと頬を紅く染めながら、まばたきを繰り返した後、重々しく一度頷いた。手の中のスマホは今は静かなままだった。
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