phase2-1

 マナ、お客さんだよ、というトモダチの声はうきうきと弾んでいた。だからイヤな予感しかなかったけど、顔を上げて教室のドアの方を見れば、にこにこ笑顔のトモダチの後ろに、あたしの元カレが立っている。ほら、やっぱり。ため息を飲み込んで、目を逸らす。逸らした先の席に座ってるトモダチが、行きなよマナ、って真面目な顔ですすめてくるから、逃げ場を奪われてしまう。もう一度、教室の前の方を見る。友達はもうドアの側を離れてて、元カレがひとりで居づらそうに立っている。仕方ないから、席を立った。これ以上あのでかい人を放っといて、あたしが悪目立ちするのもイヤだ。気がすすまなくて眉間に皺が寄っているのが分かるけど、あたしが近づいていくと、元カレの顔が明るくなった。あたしの気持ちを察しているような感じじゃない。でも、元カレの表情を見ていると、自分がこんなに不機嫌でいるのが馬鹿らしくなってきて、肩と顔面の力が抜けた。

 元カレの前に立ち止まる。すぐ前に立つと、顔を見るために随分見上げないといけない。あたしとこの人だと、二十センチは身長が違う。あたしの頭の二十センチ上から、元カレは笑っちゃいるけどぎこちない目であたしを見下ろしている。

「久しぶり」

 いや、三日しか経ってないし。と考えたけど、口には出さない。黙ったまんまでじっと元カレの顔を見つめてやれば、笑顔が取り繕えなくなったみたいだ、眉をハの字にして、金魚みたいに口をはくはく動かしてる。おかしい、けどあたしは笑ったりなんかしない。まだじっと、元カレの顔を見つめてやる。あたしの後ろで、内容を聞き取れないぐらいの小さな声が何かざわざわ言っている。視線を感じるのも、その声の主たちからだろう。それに振り向いてやったりもしない。今、あたしがとっちめて相手にしたいのは、困った顔をしているこの元カレだけだ。

「久しぶりじゃないです。昨日、電話があったから」

「でも、ショウちゃんはすぐに切ったよね」

「それでも、久しぶりじゃないです。わたしは先輩の声を聞きました」

「僕は聞いてないよ。だからやっぱり久しぶりだ」

 言い終えると、元カレは力の抜けた笑みを浮かべて、あたしに同意を求めるみたいに軽く首を傾げてみせる。さっきも思ったけど、こういうところを見せられると、自分だけが力を入れて一生懸命になってるのが、本当に阿呆らしくなってくる。うつむいてため息をついていると「今、話せる?」という、元カレのひそめた声が聞こえた。俯いたままで横を向く。この間ワックスをかけたばかりでぴかぴかしている床が見えた。

「休み時間、もう終わりますよ」と、俯いたままで元カレに答える。電話なら無視できたのに、実際に顔を合わせてみたら、これだもの。あたしは機械みたいには出来てないみたいだ。それでも、顔を上げるのは何となくまだ嫌で、元カレの靴のつま先をじっと見つめてみる。あたしの返事に諦めて動き出してくれる気配なんてちっともない。このまま諦めてくれたらラクなのに。

「じゃあ、昼休みに迎えに来る、から」

 ひそめた声のままで元カレはそう言って、あたしの方に少し体を寄せる。あたしと元カレのすぐ横を誰かがすり抜けてった。移動教室だ、と騒いでるから、別なクラスの誰かだろう。うちのクラスの次の授業は退屈な数学Aだから、みんな席について先生が来るのを待ってればいい。あたしは、俯いたまま一度頷く。それが合図だったみたいに、チャイムの音がスピーカーから鳴り始める。元カレはあたしの頷きに返事もせず、ただ、大きな手のひらであたしの頭をそっと撫でてから、廊下を走っていった。受験生になるのに、授業があるのに、バカな人。まだチャイムが鳴っている間に席に戻ろうと、踵を返して机と机の間を小走りで急ぐ。自分の机の上に出したままだったスマホの画面には、新たな通知がぽかりと浮かんでいる。「letter_space」が、今日も飽きずにメッセージを送りつけてきていた。


 青い寄生虫があたしの手のひらの上でうぞうぞと蠢いている。寄生虫には目がない。口もないし、耳や触角もない。脚もなかった。芋虫をもっとシンプルにした形の生き物が、あたしの手のひらの上でもがいている。全部が筋肉でできてるんだろう体をくねくねと動かしている。真っ青な寄生虫は空から落ちてきたみたいに軽くて綺麗だった。どうしてあなたはそこに居るの、と尋ねてみようと考えた。

「死んでいるからね」と、寄生虫がしゃべった。口もないのに寄生虫がしゃべるなんておかしなことだけれど、確かに寄生虫がしゃべったのだ。だって、ここにはあたしと寄生虫しかいない。頭の中に直接響いてくる、男か女か分かりにくいハスキーな声は、寄生虫が目もない触角もない頭を私の方へ向けて持ち上げて、語りかけているのだ。「ようやくここへ来られたんだ」

 ここへ?

「そう、ここへ。君が、幸いにもわたしの頼みを聞いてくれたから、こうして居る」鼻歌でも続きそうな陽気さでもって寄生虫の声はあたしが考えただけの質問に答える。どうしてあたしの考えていることが分かるんだろうって疑問が浮かんだけれど、もう死んでいるから、寄生虫だからっていう答えがあたしの思考を遮った。「君もわたしが怖いかい」

 ううん、怖くはない。でも、変なやつだなあと思う。「そうだね、確かに変だ。わたしが生きていた頃からそれはよく言われていたけど、わたしはいつも思うんだけど、まったく変じゃない人間を探すことなんて、とてつもなく難しいよね。誰だってちょっとぐらいは、例えば身長とか体重とか、スカートの丈とか髪の長さとか、使ってるリップクリームのメーカーとか、どれかひとつぐらいは、平均値から外れてるじゃない。それがどこからどうなったら変で、どこからどうしたら変じゃないんだろうか。わたしにはそれが分からない。君は分かる?」

 鎌首もたげて寄生虫が首を傾げるのに合わせて首を傾げる。どちらが本体だか外から見たらきっと分からないかもしれない。真っ青な寄生虫、それは、あたしであり、わたしだ。

 ううん、分からない。分からなくたって良いんだ、わたしだって分からない。誰にも分からないよ、変じゃないこと、普通であることなんてさ。ただ、それを立ち止まって考えないことが普通であることの必要条件なのかもしれないね。ほら、どうやって息をしてるかなんて、普段考えたりしないだろう。どうやって生きてるかなんて普通考えたりしないだろう。ううん、考えることはある、でも、考え続けたりはしないよ、それを考えるのってきっとはしかみたいなものだから、みんな一回考えたらそれで忘れちゃう。ああ、なるほど麻疹か。じゃあ、わたしはきっと麻疹の治り損ねなんだな」

 寄生虫はもたげた首をうんうんと上下に動かした。あたしも一緒に首を振った。寄生虫の言うことは思ったよりも易しくて、あたしでも話につきあうことができた。寄生虫の頷く声はどこか満足げだった。それをあたしは少し誇らしく思う。水底に居るときみたいに歪んだチャイムの音が、不安げに聞こえてくる。あ、起きなきゃ、と自然に考える。そういえばこれは夢だった。「夢でも、会えて良かった」手のひらの上の寄生虫はそう言って、青いからだを死んでいるみたいにあたしの肌の上に横たえた。あたしは目を閉じる、黙祷をするみたいに。寄生虫のからだは軽いから、目を閉じてしまえばここにあるかどうか分からない。確かめるために思いきり手を握ってみるけど、指先が手のひらに食い込んで柔らかいだけだった。ゆっくり目を開ける。立てておいた教科書のページがぼやけて見える。チャイムの残響がまだ少し残っていて、それを払いのけようと思って首を横に振る。教卓の前に居る先生は、ノートやら教科書やらをまとめて、そこから立ち去ろうとしている。黒板の真ん中には、今日の課題の番号が大きく書いてあった。最悪だ、どこから眠っていたんだろう。授業は終わり、昼休みが始まっている。

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