第十章:本物より似ている

「ブリューゲルの画集?」


 ピエール・ヴァディムは“気の好いロバ”の気配を残した笑顔のまま、低く端正な声で尋ねた。


「ええ」


 そう言えば、この人は俳優をしていた時期もあったらしい。


“ペテルブルグ生まれ、十四歳でパリに移住、十七歳で舞台デビュー”


 いつか見た雑誌に記されていたプロフィールが頭を過る。


「僕は“農民のブリューゲル”の方が好きだけど」


 本来はロシア人のこの人がこんなに訛りなく、また、かなり低い声にも関わらずくぐもらず相手に明瞭に聞こえるように話せるのは、演劇的な訓練の結果に他ならない。


「ヤン・ブリューゲルの花は本物より生きている」


 こちらに向けられた黒い瞳に鮮やかな画集の表紙が映る。


 腕の中にある紙とインクで出来た花々が急に蘇った気がした。


「彼の手にかかれば名前の知れない花すら画面の主役になるんだ」


 この人は私の心が読めるのだろうか。


 目の前の相手はむしろ人懐こい笑いを浮かべていた。


「僕もフランドルの画家は好きでうちに画集は何冊か持ってるよ」


 フランドルとは今のオランダとベルギーにまたがる地域の古い呼び名だが、彼の声を通すとこちらこそが本来の形で「オランダ」「ベルギー」の方が不幸な分裂の結果に感じる。


「ブリューゲル一族の他にはボッシュとかステーンとか」


 この人の家ってどういうお宅なんだろう?


 薄暗い地下の書庫で一人古い画集を取り出す帽子屋じみた横顔が浮かんだ。


 まあさすがにそれは大げさとしても、案外、一人の時は色気のない、図書館か資料室のような書斎が落ち着くとかいう人かもしれない。


「これから見に来るかい?」


 青空の下、陽の光を浴びた彼の顔はまるで同性の親友を飲みにでも誘うような気軽い笑いだけで、挑発や誘惑めいた嫌らしさなど微塵もなかった。


「いいんですか?」


 思わず胸の画集を抱き締める。


 いや、私とこの人は飽くまで良い友達として付き合うのだ。


 この人の方がそこはずっと大人のはずだし。


 *****


「僕のうちは小ぢんまりとしているから君が見たらびっくりするかも」


 運転席の彼は、しかし、誇らしげに行く手を見詰めている。


「うちは父が無駄に大きく建ててしまいましたから」


 両親が結婚していた当座は母が連れてきた住み込みの使用人たちも居てそれなりに豪邸として機能していたようだが(これは当時の映画雑誌やネットの写真記事で窺い知れる)、私たち姉妹が物心付く頃には月二回清掃やクリーニングの業者に来てもらう他は基本的に家族だけで暮らしてきた。


 お祖母ちゃんの死でその家族すら減ってしまった。


「家族の話になると、いつも寂しそうだね」


 温かいパパそっくりの声が届いた。


「うちは色々と特殊ですから」


 パパは小さな頃から家にはいないことの方が多かった。


 年子でまだ十九歳の姉も最近ではそうだ。


 離婚自体は世間ではありふれているけれど、別れた両親の結婚生活や母親のその後について当人たちから直接聞くより雑誌やネットの記事から情報を得る方が多い家庭なんて稀少だろう。


 唯一いつも一緒にいてくれて人並みの肉親らしい関係だったお祖母ちゃんも亡くなった。


 車窓を見知らぬ家々が流れていく。あの家の、あの窓の一つ一つの奥に、異なる家族が住んでいて泣いたり笑ったり、愛し合ったり憎み合ったりしているのだ。


 触れることも覗くことも出来ないまま、そんなことを思う。


 運転席の彼は何も言わずにひたすら前を見据えている。


「君は」


 車を走らせながら、帽子屋に似た端正な横顔が不意に尋ねた。


「もう家を出たいのかい」


 逆光で彼の横顔がシルエットになって、パパに似た声の優しい響きが浮かび上がる。


 仄かなミントの香りが流れた気がした。この人もやはりコロンを着けているのだろうか。ピエール・ヴァディムのような裕福な著名人なら別に不自然な話ではないが、この人がわざわざこの匂いを纏っていることに胸の奥が熱く騒いだ。


「もうすぐ出ます」


 むしろ、自分の中のざわめきを断ち切るべく、きっぱりとした口調で答える。


「デザインの勉強のためにオランダに行くつもりです」


 私はあなたの一時の色事のお相手ではなく、もうすぐ旅立つ友人です。


 年長者への敬意を表するに相応しい笑顔で告げる。


「そうか」


 パパそっくりな声が肯定も否定もしない風に答えると、シルエットの肩越しに流れる車窓の風景が高級住宅街特有の洗練を帯びてきた。


 ふと、立ち並ぶ家々の中から壁の白々とした、十字架でも付ければそのまま教会になりそうな一軒が視野に浮かび上がった。


 あれだろうか?


 いや、いくら何でもあれは耽美的な作風で知られるプレイボーイ監督の家にしては清浄過ぎる。


 青空を流れる雲と同じ真っ白な壁をした、高級住宅街の中ではむしろ地味過ぎるほどの素朴な造りの建物。


 あれはプレイボーイ監督や色事の相手や業界人といった人たちよりも歌楽隊の男の子たちや信心深いお爺さんお婆さんが出入りするにこそ相応しい建物だ。


 そう思う内にも水色の影が差す白い壁が視野に迫って来る。


「着いたよ」


 車が止まったことで今までずっと小刻みに揺られていたことに改めて気付いた。


 ピエール・ヴァディムは正面を向いた気のいいロバの笑顔で告げる。


「こぢんまりした家と言ったろ?」


 驚くポイントはそこではない。

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