第十一章:帽子屋の家
「君さえ良ければ、ゆっくりして行って欲しい」
「ありがとうございます」
中に入ってみると、仄かな薔薇の匂いが漂う他はまるで新しく出来たばかりの病院のようにシンプルな清潔そのものの内装だ。
というより、この空間にあっては幽かな薔薇の香りすら咲きかけの白薔薇のように清純なものに思えた。
これまでの色事の相手は本当にこの家で彼と抱き合ったのだろうか。
私なら仮に今、誘われてもちょっと気後れする。
それとも、この人には複数家があって情事を楽しむ相手はまた別の家に連れ込まれたのだろうか。
「疲れたろう」
パパそっくりの温かな声で届いた。
「僕はショコラを飲むけど、君は何がいい?」
気の好いロバじみたこの笑顔を見ると、本当にただこの素朴な家で寛ぎたいだけなのではないかという気がする。
「私もショコラでお願いします」
答えてから、またあっさり応じてしまった自分に改めて気付いたが、今さら拒否するのも却っておかしいだろうとも思い直して薔薇の香りの漂う家の奥に進む。
*****
「じゃ、僕がショコラを淹れるから君はここで座って待ってて」
ガラス戸から無地のレースカーテン越しに差し込む白々とした日の射し込む、真っ白な壁に囲まれた客間。
その中でそこだけ鮮やかに色付いたようなワインレッドのビロード張りのソファを彼は指し示す。
「ありがとうございます」
家の更に奥の、恐らくはキッチンに向かう彼の後ろ姿がパパに似ていると改めて気付いてホッとする。
むろん、パパよりは若いけれどずっと年上の人だからおかしな行動には出ないだろうし、パパではないからこちらが常識的に振る舞う限りはひやりと押し退けられることもないだろう。
取り敢えず、このブリューゲルの画集でも見直すか。
そんなことを思いながら、どこかルージュを引いた女性の唇に似たソファに近付く。
「あれ?」
ソファは空だが、傍のテーブルにはチェス盤じみた開いた四角いチョコレートの箱と飲み掛けの紅茶の入ったティーカップが置かれていた。
薔薇の形をしたホワイトチョコレートや馬の横顔を
これは……。
バタバタと忙しく近付いてくる足音に私は思わずビクリと画集を抱き締めて振り返った。
「ああ……」
ピエール・ヴァディムは既に何粒か食べられたチョコレートの箱を認めると、“しくじった”という風に片手を軽く額に当てる。
何だかチェスで困った手を打たれて次にどう出るか思案している人みたいだ。
「ご家族が戻られたんですか?」
これはきっと女で、この人の
ホワイトチョコレートで出来た薔薇とミルクチョコレートの馬の横顔が向かい合う様を改めて目にしてもそんな感じがした。
縮れた長い黒髪を垂らし、端正だがどこか険しい切れ長い瞳をした、「美女」というより「美青年」と呼ぶに相応しい、大人になったアリス・リデルの白黒写真が頭を過る。
この教会じみた家でこの人と暮らすのはそんな女性に思えた。
「お取り込み中でしたら、また今度に」
次はもう無いだろう、私はオランダに発つから。
この人とまだ見ぬ女性とはこれっきりだ。
ホッとしたような、どこか寂しいような思いで花々の描かれた画集を抱き締めて告げる。
「いや」
額に片手を当てたまま、こちらに
「君にも紹介しよう」
あなたの恋人に?
白黒のアリス・リデルの気難しげな瞳にジロリと睨まれる場面を想像して背中がゾクリとする。
「こっちだ」
ピエール・ヴァディムは端正な帽子屋じみた微笑を浮かべると奥に誘う。
ほのかな薔薇の香りに彼の纏ったミントの匂いが混ざり合って通り過ぎる。
大丈夫だ。
私とこの人には何も無いんだから。
どきつく胸を画集の固い背表紙で抑えて彼の後を追う。
*****
――コン、コン。
ピエールはさりげない調子で黒に近い焦げ茶色をしたウォールナットのドアを叩く。
シンとした沈黙が訪れた。
ドアの向こうからは何の返事もないまま、薔薇とミントの入り交じった香りだけが私たちの間に濃く立ち込めていく。
「ここではないみたいだな」
パパそっくりの後ろ姿が呟いた。
多分、このドアの向こうが“アリス”の部屋なのだろう。
中身は確かめられないまま、クルリと踵を返した彼の後を追う。
*****
――コン、コン。
場所は異なるものの先ほどと同じウォールナット造りのドアを彼はまた叩く。
再びシンとした沈黙が訪れた。
――ガチャリ。
思いがけず、彼がドアを開けた。
「ここは僕の書斎なんだ」
ピエールが振り返って微笑む。
「素敵なお部屋ね」
頑丈そうな金属製の本棚の並んだ、まるで小さな図書室だ。
ガラス窓から差し込む柔らかな午後の陽射しが誰もいないセピア色のソファーを照らし出している。
「ブリューゲル一族やボッシュ、ヤン・ステーンも置いてあるよ」
「そうでしょうね」
改めて腕に抱いた花のブリューゲルの画集に気付いた。
これは応接間に置いてくるべきだったかもしれないと今更ながら思い当たる。
こちらの思いをよそに彼は再び踵を返して廊下を歩き出した。
*****
フーッ。
三つ目のドア(これも先の二つと全く同じウォールナットで出来た焦げ茶色のドアだったが)の前に来ると、ピエールは肩で静かに深呼吸した。
その様子を目にすると、画集を抱いたこちらの胸も高鳴った。
――コン、コン。
「入って」
中から返ってきたのは、むしろ物語のまだ少女のアリスにこそ相応しいようなあどけない声だった。
――ガチャリ。
ピエールはむしろ窮地や理不尽に慣れ切った人の開き直った落ち着きでドアを押し開けた。
深紅の薔薇を思わす濃い香りと共にサッと一気に押し寄せてきた眩しい午後の光に思わず目をすがめつつ、彼の背中を追って足を踏み入れる。
「ヴァヴァ」
三、四人くらい並んで眠れそうな大きなダブルベッド。
その上から真っ白なブランケットで深い溝を形作る鎖骨の辺りまで覆い隠した女が無邪気な調子で呼び掛けた。
「お友達も一緒なの?」
小さな顔に比してやや過剰なほど大きな黒い瞳がこちらに向けられる。
私はまるで髪の毛が蛇になった女と目線を合わせたように体が固まるのを感じた。
偽コインのように輝く黄金色に波打つ豊かな髪。
女豹じみた大きな黒の瞳。
普通にしていても濡れて見える、ふくよかな赤い
そして、真っ白なブランケットの上からもそれと分かる、メロンじみた巨大な二つの乳房。
銀幕のセックスシンボル、“MM”ことマリアンヌ・モローは、直に目にすると、「美しい」とか「セクシー」というより「人間離れしている」と形容すべき姿をしている。
「マリー・モーリヤックだよ」
ピエールの端正な帽子屋じみた横顔が答える。
彼の口と声を通すと、何だか自分ではなくマリアンヌ・モローと同格以上のセレブリティの名前に思える。
「今日は街で偶然会ったから、僕が彼女をうちに誘ったのさ」
この人は私がパパの娘であることもマルトの妹であることも口にしない。
そこに妙な安心と誇らしさを覚えた。
「初めまして」
私も極力どうということのない笑顔で裸のMMに告げると、花々の描かれた画集を抱え直した。
これで疚しい目的でこの家に来たのではないと分かるはずだ。
盾のように「花のブリューゲル」の画集を人並みの大きさしかない胸の前に抱えた見知らぬ十八歳を金髪のメデューサは女豹じみた大きな黒い目で見やった。
「あなた」
赤く濡れた唇が物問いたげに開かれる。
そうすると、彼女は不思議に童女じみた表情になった。
雑誌で見たプロフィールが確かならマリアンヌ・モローは確かもう二十七歳で私より九歳年上のはずだ。
だが、この人を見ていると、どうも年齢による一般的な基準を当てはめることが出来なくなる。
「アランのお嬢さん?」
こちらと目線を合わせていた黒い瞳が急に宝物でも見付けたように煌めいた。
「はい」
私の姓と青灰色の瞳と栗色の髪はパパと同じで
「お嬢さんが二人いると聞いたことがあるから」
マリアンヌ・モローは輝く金髪の頭をピエールの方に向けてごく無邪気な調子で語った。
――MMは偽金髪で本当は
今更のようにそんな話を思い出す。
別にこれは噂というほど根拠のない話ではなく、雑誌にもデビュー前のまだ色濃い焦げ茶の髪の少女だった彼女の写真が当たり前に載っている。
航空会社の社長令嬢で本人もバレリーナとしての将来を嘱望されていた栗毛に黒い瞳の美少女はピエール・ヴァディムに見初められて彼の最初の妻になった。
それが今やフランス映画のセックス・シンボルになったマリアンヌ・モローのプロフィールだ。
「君はどうしてここに?」
ピエールは苦笑いしつつ、どこかに温かさの残る声で尋ねる。
「だって、自分の家だもの」
MMは悪びれずに言い放つと、それですっかりくたびれたという風にパタンと金髪の頭を枕の上に落とした。
「まだ夫婦でしょ、私たち」
女豹じみた黒い瞳で彼と隣に立つ私を見据える。
「ソフィー、君の部屋は確かに元のままだけど」
ソフィー?
あれ、マリアンヌ・モローは確か本名ではなかったかな?
いや、姓は今は変わって、マリアンヌ・ヴァディムかもしれないけど。
混乱する私をよそにピエールはまるで幼い娘をあやす父親のように優しいが、何かをはぐらかす調子で続けた。
「“彼といたいから”と君は自分で出ていったんだよ」
“彼”が誰なのか知らないが、MMが夫であるヴァディムとの家を出て男性遍歴を繰り返している話はしょっちゅうタブロイド誌にも載っているし、まだこの二人が夫婦であると認識している人は世間にも少ない気がする。
というより、私はこの二人が法律上もとっくに他人に戻ったのだと思っていた。
「ヴァヴァ」
ベッドに寝転がったマリアンヌ・モローは彼女だけの呼び名でピエールに呼び掛けると、黒い目を虚ろにして天井を見上げた。
「私は帰りたくなったの」
小さな子供が遊ぶのに飽いて「もうおうちに帰りたい」とそれまで遊んでいた友達に言い放つような無邪気で残酷な響きだ。
むろん、白いブランケットがまるで石膏のように象った巨大な二つの乳房も長い脚も彼女の肉体が既に子供でないことを示してはいるけれど。
「そう思うなら」
胸の中だけで呟いたはずの言葉が口から溢れた。
「今からでも遅くないのでは」
ベッドの上のマリアンヌ・モローはゆっくりと見事な金に染め上げられた髪に半ば埋もれた小さな顔をこちらに振り向けた。
――余計なお世話。
――あなたには関係ないでしょ。
きっとそんなきつい拒絶の言葉を浴びせかけられるのだ。
実際、この夫婦のそれまでにとって私は全くの第三者でしかないし、そうでなくとも、MMなんてわがままスターで有名な人だし。
私はむしろ自ら石になるのを望む人になった気持ちで相手と眼差しを合わせた。
「それもそうね」
女豹の大きな黒い瞳が急に剥製のガラス玉じみた、虚ろな輝きに転じる。
と、白いブランケットに包まれた上体全体が持ち上がった。
身長一七〇センチ、バスト九十センチ、ウエスト四十九センチ、ヒップ八十九センチ。
一糸纏わぬその姿は、直に目にすると、やはり「セクシー」とか「スタイルがいい」というより「人間離れしている」印象が真っ先に来る。
近くの長椅子に忘れられたように掛けられていた真っ赤なワンピース(いかにも派手派手しい服なのに彼女が手にするまで私は全くその存在に気が付かなかった)を取り上げると、MMは金髪の頭から被って着た。
「今日は疲れたからもう帰る」
誇りを傷付けられた女よりも叱られた子供にこそ相応しい面持ちで告げる。
無地かと思われた赤いワンピースは、彼女の二つの大きな乳房の丁度真ん中辺りに真っ白なハートが一つプリントされていた。
元の模様はさておき、何だか白いハートがいびつに引き延ばされて血を抜かれてしまった後のように見える。
そう思う内にも彼女は早足でベッドルームを出ていく。
――カツ、カツ、カツ、カツ……。
遠ざかるヒールの音と入れ替わるように、薔薇とチョコレートの入り交じった匂いが鼻先を通り過ぎた。
あのチェスの駒を模したチョコレートを持ってきて食べたのは彼女だったのだと今更のように思い当たる。
「彼女、いつもああなんだ」
声に振り向くと、ピエールがこちらを見詰めていた。
こちらが気付く前から目を注いでいたのだと分かったが、気の好いロバの笑いだったことにホッとした温かな気持ちになる。
「帰れる家が沢山あって、ここもその一つだと思ってる」
まるで反抗期の娘について語る父親のようだ。
「まだ夫婦だと彼女は言っていましたけど」
“ソフィー”はまだ彼の妻でいたいのだ。何故なら彼女はまだ“ヴァヴァ”を愛しているから。
たった今までこのだだっ広いベッドに横たわっていた女豹の虚ろな黒い瞳や叱られた子供のように俯いた面差しを思い出すと、遅まきながら胸に痛みが走るのを覚えた。
むろん、MMは今日会ったばかりの無名の小娘などから同情されたくはないだろうが。
「それは昨日まで彼女も忘れていたことだよ」
ピエールはカラカラと笑って促すように私の背を押しつつベッドルームを後にする。
「確かにまだ夫婦だけど、ずっと僕の妻でいたいと彼女が言ったことは一度もない」
白々と清らかに眩しい陽射しを背にした彼の顔は陰になっていて良く確かめられないが、語る声はどこか苦く乾いていた。
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