第九章:氷と雪の女王
「買っちゃった」
書店の入り口から石畳の路地に出た所で改めて息を吐き、買ったばかりの画集の表紙を眺める。
石畳の匂いに混じって微かなインクの香りが鼻孔を突く。
柔らかな真紅の薔薇、雪白に透けたチューリップ、黄色い灯りじみた
私には名前も分からない小さく地味な花までが鮮やかな輝きを持って描かれている。
このブーケの絵では全ての花が主役かつ他の花の魅力までも引き立てる脇役でもあるのだ。
ヤン・ブリューゲル、人呼んで「花のブリューゲル」の画集だ。
本当はアムステルダムのもう少し詳しいガイドブックを探すつもりだったが、この表紙に吸い寄せられるようにして買ってしまった。
一冊だけでも両腕にずしりと重い。
すっと息を吸い込んで重たい画集を胸に抱き直す。
湿った石畳の匂いが鼻から胸の奥を通り過ぎた。
写真よりも色鮮やかな生の輝きを放つ絵だが、もちろん、本物の甘やかな花の香りなどはしない。
胸の奥に微かな痛みが滲むのを感じつつ、私は通りを歩き出した。
――行きたければ、行けばいい。
アムステルダムに留学してインテリアの勉強をしたいと打ち明けた時、パパはそう答えた。
猛烈な反対もしない代わりに熱烈な応援もしない。
お前なんか、どうでもいい。そんな無関心な響きを持つ口調だった。
――費用は心配しなくていい。
そう付け加えてはくれたが、ショコラの入ったカップに口を付けた横顔はもう私を見ていなかった。
鋭い彫りの横顔は肉が更に落ち、鬢には白い筋が目立ち始めたと気付いた。
パパももう五十歳。美男子の代名詞的な立場はまだ変わっていないが、中年から老年に差し掛かろうとしているのだ。
スーッと音もない風が後ろから通り抜けて、ハーフアップにした髪が頬に貼り付く。
目の前で磨き上げられた黒塗りの車が止まった。
カチャリと金属的な音が響いてふわりと幽かなレモンの香りが流れた。
「あ……」
思わず口から声がこぼれ落ちる。私は反射的に画集を抱き締めた。
黒塗りの車から降りた相手は淡い金髪の、というよりほとんど銀に近い髪をシニョンに結った頭を振り向ける。
怖い程透き通った、「純度百パーセントのブルーダイヤ」といった趣の水色の目にぶつかった。
「マリー」
ブルーダイヤの瞳が一瞬、驚いた風に見開かれたが、こちらに呼び掛ける声はおっとりとしていながら高く澄んで、マルトのそれに似通っていた。
というより、マルトがこの人に似たのだ。
「マリー・モーリヤックね?」
黒いコートの肩が向き直った。
冷ややかな風にレモンが再びほのかに香る。
ニコル・ドヌーヴ。私たちの生みの母だ。
「はい」
私は「花のブリューゲル」の画集を胸に抱き直すと背筋を伸ばして答えた。
首筋にまとわりついた髪の毛をさっと払い除ける。自分でも幼稚な反抗の仕草に感じたが、致し方ない。
むしろ、この人に対してはそれが相応しい態度にすら思えた。
物心つく頃には、私たち姉妹の傍にはいなかった人。
パパは私に関心がなくても捨てはしなかった。
でも、この人は「ママ」と呼ぶ前からマルトも私も捨て去って隔てた場所へ行ってしまった。
音もない冷えた風がタイツの足元を吹き抜けて震えが背中まで一気に走る。
「アランやマルトも一緒なの?」
白々とした陽の光が射し込んできて、澄んだ声で尋ねる相手のシニョンの横顔を照らし出す。
この人はもう若くない。陽射しに炙り出された顔の明らかな皺で改めて感じた。
パパより五歳下だから四十五歳。
しかし、白銀の髪のせいか、もはや中年というより「絶世の美老女」という雰囲気だ。
アンデルセンの「雪の女王」が年老いたらこんな姿になる気がする。
ディズニー版のどこか人恋しげな雪の女王ではなく、思うままに吹雪の空を駆け、氷の欠片を覗き込む、一人の世界に充足した雪の女王だ。
「いいえ」
首を横に振ると、また首筋に髪が絡み付くのを感じた。
パパと同じ
「一人です」
相手は表情のない水色の目でこちらを見詰めている。
――名家ドヌーヴ家当主の父とスウェーデン貴族の母との間に生まれたパリ社交界の花。
――地上で最も美しい夫婦。
これが二十年前、アラン・モーリヤックの妻になったニコル・ドヌーヴを紹介する数多の記事に書かれた評言だ。
ネットで二人の名前で検索すると、まるでおとぎ話の王子様とお姫様のように寄り添った結婚式の写真が山ほどヒットする。
おとぎ話と違うのは、五年も経たずに別れてしまったことだ。
「そう」
雪の女王の瞳が一瞬、解ける氷のように煌めいた。
「マダム」
横から静かだがよく通る声がした。
振り向くと、五十半ばの、黒髪を纏め上げてスーツを着込んだ、一見してハイブランドのスタッフと分かる女性が立っていた。
「そろそろご到着と伺っておりましたので」
適度に親しみのある笑顔で、飽くまで丁重に。それがよく訓練された結果だということも感じさせないほどの自然さ。
女王に仕える模範的な王朝時代の女官という感じだ。王朝時代の女官を見たことはないが、そんな気がする。
「ああ」
雪の女王は思い出した風に銀髪の頭を頷けた。
水色の瞳が元通り固く凍り付いた風情に戻る。
「こちらはお嬢様ですか?」
忠実な女官が適度に親しみのある笑顔をこちらに向けた。
背筋がぞくりとする。
「ええ」
雪の女王はまた頷いた。銀髪が陽射しに煌めいて私の目の中に残像を刻む。
「アランにそっくりでしょう?」
マルトに良く似たソプラノで模範女官に念を押す。
「久し振りに見て驚いたわ」
自分の血を引いているはずなのにこんなハイブランドでもない服を着た、冴えない娘が歩いてきたから?
腕の中にある花のブリューゲルの画集は決して安物でもないけれど、この上流マダムとハイブランドのスタッフの目には物の数にも入らないだろう。
「確かに良く似ていらっしゃるわ」
多分、この人には反論する選択肢が無いのだろう。
ニコル・ドヌーヴはトップクラスの上客だろうから。
「じゃ、私にも用事がありますので失礼します」
取り敢えず、急いでこの主従の目の無い場所に立ち去るという用事が出来た。
再び湿った匂いの立ち上る石畳を早足で歩き始めた背中に生みの母の声が飛ぶ。
「ご機嫌よう」
どうしてそんな屈託の無い響きなのか。
振り向かずに足だけを速めた。
*****
ここまで来れば大丈夫だ。
横目に通り過ぎる店や擦れ違う人々から漂う取り澄ました空気が薄くなった所で歩調を緩める。
振り向くと、銀髪の雪の女王も、模範女官じみたハイブランドのスタッフも、黒塗りの車も、影も形も無かった。
こちらが意識するほど向こうは私に注目などしていない。
そう思い当たると、どっと疲れると同時に必死に急ぎ足で歩いていた自分がいかにも愚鈍に思えた。
腕に抱えた重たい画集を改めて見やる。
柔らかな真紅の薔薇、雪白の透けるチューリップ、黄色い灯りじみた金鳳花。
全てが先程買った時と変わらず描かれているのに、何かが空々しい。
そういえば、もうすぐアムステルダムに留学するともあの人に伝えていなかった。
パパやマルトが連絡を取っているとは思えないから、直接話さない限り、ニコル・ドヌーヴが私の近況を知ることは無いのだ。
――そう。
私の報告に頷く雪の女王の“純度百パーセント”の瞳が浮かんだ。
――ご健闘を祈るわ。
そんな他人行儀な応援をごく屈託の無いソプラノで与えさせするかもしれない。
そこでわざわざ否定や侮蔑の言葉を吐きかけるほどあの人は捨てた娘に今まで関心を持って暮らしていないから。
さっきだって、本当に偶然出くわしただけだ。
母の方ではもう完全に二番目の娘など意識の外にふるい落として、これから買うべきハイブランドのジュエリーか、衣装か、靴にでも見入っているのかもしれない。
絵に描かれた鮮やかな花々が視野の中でじわりと熱く滲んだ。
何故、涙が出てくるんだろう。
私だってさっき見掛けるまで生みの母のことなど忘れていたのに。
執着するほどの思い出も無いのに。
「マリー」
優しいパパの声がした。
「やっぱり君だったね」
振り向くと、“気の好いロバ”が立っていた。
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