第八章:狂った帽子屋《マッド・ハッター》

「ちょっと休もうか」


 マルトの金髪が振り返って告げる。


「ええ」


 急に体全体に纏いつくような疲れを覚えた。


 明日は筋肉痛だな、という懸念が頭を掠める。


 今もバレエのレッスンを受け、趣味としてクラブで踊るマルトに対して、私はもうバレエを辞めて久しいし、普段も歌や踊りなど嗜んでいない。


 傍目にはマルトと比べて随分下手で垢抜けない踊りに見えただろう。誰も私には注目してないだろうけど。そう思うと、疲れに後悔が滲み出した。汗ばんだ匂いを放つ体までが汚ならしく感じられる。


「今晩は、マルト」


「しばらくぶりだね」


 マルトの一際小さな金髪の頭は早くも人影に囲まれていた。


「大丈夫かい?」


 不意に間近で聞こえてきたパパの声に驚いて振り向く。


「君、随分激しく踊っていたから」


 声の主は私の目を見開いた顔をどこか真似る風に自分の目も一瞬、丸くすると柔らかく細めた。


「ピエール……ヴァディムさんですね」


 自分の声がいかにも大仰に震えて響くのを感じる。


「初めまして」


 相手は面差しこそ似ても似つかないが、パパそっくりの低い声で挨拶した。


「マリー・モーリヤックさんですね」


 自分ではなくどこかの女王か大女優の名前に聞こえた。


「すぐに貴女あなただと分かりましたよ」


 相手は目尻に小さな皺を刻んで微笑む。この人、年の頃は三十代半ばだろうか。前に雑誌で目にしたプロフィールでもその位だった気がする。多分、フェラン監督より少し年上だ。


「子供の頃、お父さんと一緒にテレビのインタビューに出てましたよね?」


 俳優兼監督のピエール・ヴァディムは古い友達にでも出会ったように懐かしげに語り掛ける。


「ええ」


 あのマルトと一緒に出たアメリカからのインタビュー番組だと苦笑いしつつ、相手から目が離せない。


 この人は低い声はパパに似ているけれど、顔はパパはもちろん、フェラン監督等と比べても全く美男子ではない。


 むしろ、かなり面長な部類で正面からだと馬かロバのような顔にも見える。


「お父さんに良く似た綺麗なお嬢さんだから覚えていました」


 そこまで語ると、相手はグラスに口を着ける。


 横向き加減になると、「不思議の国のアリス」の帽子屋をもう少し若く端正にした風にも感じられた。


「今は期待以上に美しくなられた」


「それは人違いでは」


 遠くに見える小さな金髪の頭に私は苦笑いする。


 クールな音楽が流れるクラブの席で最先端のファッションの男女に囲まれた“パリのプリンセス”。


 そうだ、今までもこんな男にはちょくちょく遭った。最初は私にやたらと優しくして、それを足掛かりにマルトに近付こうとする。


 正面から口説けば断られる結末の見えている男がよくやる手口だ。


 マルトもそんなつまらない男の魂胆は見透かして相手にしないけれど、私はそういう男に出会す度に心に黒い染みが増えていく。


 でも、この人くらいの立場ならわざわざ素人の妹をダシにしなくてもマルトに接近出来る気もしなくはない。


「マリー」


 怒りを微かに含んだ声に驚いて振り向くと、ピエール・ヴァディムの黒い瞳に正面からぶつかった。


 耳の中でクラブの喧騒が一気に遠ざかる。


「僕は君を見間違えたりしない」


 初対面の相手からこんな確固たる眼差しで見据えられたのは初めてだ。


「そう、その目だ」


 向かい合う相手の顔が「気の好いロバ」といった風情に変わる。


「底から輝くみたいな青灰色の瞳」


 マルトに語り掛ける時のパパの温かい声にそっくりだ。


 胸の奥が熱を帯びて高鳴った。


「お姉さんも確かに素晴らしいけれど」


 一瞬、何かを丁重に断る風な苦い笑いを浮かべた後、ピエール・ヴァディムは再びこちらを真っ直ぐ見据える。


「君は比類がない」


 ふわりと梔子の香りがした。


「初めまして」


 マルトが表面的には華やかな微笑を浮かべて告げる。


 しかし、私は汗ばんだブラウスの背中に寒気が走るのを感じた。


「こちらでお会い出来て光栄です」


 まだ十九歳の滑らかな小さい顔にも、無邪気に澄んだ声にも、どこにも老化の気配など無いはずなのに、茶色の瞳だけがゾッとするほど老けて見えた。


「初めまして」


 ヴァディム監督も穏やかだが大人の儀礼を纏った声で頷く。


 そうだ、この人は私たちより遥かに年上で、十八歳の私の倍も生きているのだ。


 急にそんな事実に思い当たる。


「それでは、また」


 早足で遠ざかる梔子の匂いを追うように私もその場を後にする。


「またの機会に」


 そう告げる彼の方を振り向くと、影になった横向き加減の顔は端正な帽子屋のように見えた。


 この人は角度次第で随分表情が違う。


*****


「あの人はやめなさい」


 車道に出て緩やかに走り出した所でマルトが呟くように切り出した。


「どういう人か噂で知ってるでしょ」


 ついさっき朗らかに挨拶したのが嘘のように苦い声だ。


「ピエール・ヴァディムは私なんか目じゃないでしょ」


 数々の美女と浮き名を流す、ゴシップ誌常連のプレイボーイ監督。それが今日、初めて会うまでに知っていた彼の噂だ。


「随分熱心に言い寄ってたじゃないの」


 マルトの疲れた眼差しは真っ直ぐ延びた道路の奥に注がれていた。


 今夜は曇りで月も出ていないらしい。


「地味な妹が独りぼっちで可哀想とでも思ったんでしょ」


 気のいいロバのような笑顔が浮かんだ。こちらが目にした中で一番安全な表情だ。


「次に会う頃にはあの人もすっかり忘れてるよ」


 私はもう外国に発つのだから。


 マルトは何も答えない。


 車は夜の道を家に向かって進んでいく。

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