第七章:透明に乱れる

「妹のマリーも今日は一緒なの」


 梔子の匂いと共に大輪の花がこちらを振り向いた。


 不思議なもので、クラブの薄暗い中にあっても鮮やかなシェード付きのランプを点したようにマルトの華やぎが周囲に紛れることはない。


「初めまして」


 私はマルトの向こうにいる、洗練された最先端の身なりはしているが、それ故に暗がりの中では倉庫に仕舞われたマネキンじみて見える男女に微笑みかけた。


「私はインテリアデザインの勉強をしています」


 隣の姉と同じ道は端から目指していません。


「頑張ってね」


 返ってきた声には通りすがりの相手にだからこそ気軽に出せる親切さが込められていた。


 これでいいのだ。


 私が他人から得られる、望める好意はこれが最大限だ。


 *****


「踊りましょ」


 ちょうど曲の切れ目に来た所でマルトの澄んだ声が浮かび上がる風に響いた。


「ええ」


 無言の視線が集中するのを感じる。私を通り抜けて“名花マルト・モーリヤック”を見詰める無数の眼差し。


 ビートが始まった。


 すぐ前に立つマルトの、すらりと長い手足を持つ影が伸びやかに踊り出した。


 思わず避けて隅に寄る。これは私に限らず彼女と同じ空間で踊る人間が反射的に取る行動だ。


 バレエ教室でも、クラブでも、マルトが動き始めた瞬間、そこがプリマドンナの舞台になる。


 誰も隣では踊りたがらない。姿も動きも華やぎも段違いだと分かりきっているからだ。


 ドク、ドク、ドク、ドク……。心臓の鼓動に似たビートが鳴り響く。


「マルト」


「モーリヤック」


 薄暗い周囲から囁き声が切れ切れに聞こえてくる。


 ドク、ドク、ドク、ドク……。今、誰も私を見ていない。


 腹の底から急に込み上げて来るものがあった。


 ドク、ドク、ドク、ドク……。


 気が付くと、白いブラウスの両腕をバッと広げていた。


 くたびれたベロアのスカートの脚で大きくリズムに乗る。


 私は今、透明人間だ。どのように踊ろうが、誰も気付きはしない、嘲るほどの目線を端から注がない。


 それなら、この時間だけでも好き放題、踊ろう。


 恥をかいたって大丈夫。


 どうせ、私はもうすぐ異国へ旅立つのだから。


 そう思うと、腕も、脚も、体の全てが見えない縄から解き放たれたように動きたい方に向かった。


 体が汗ばむ、その感じすら心地好い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る