第六章:花と蜜蜂と私
「撮影が終わった後はよくここに来るの」
マルトはエレベーターのボタンを押しながら呟いた。
二人しかいない密室なのに、まるで第三者に聞き付けられるのを恐れるようだ。
「そう」
仕事の後に彼女がクラブに踊りに行っているのはこちらも知っているし、ここは別にいかがわしい場所でもなさそうだが。
「ここならおかしな人はまだ少ないから」
艶やかな金髪の背が更に声を潜めて告げる。
梔子の香りがふと鼻先を通り過ぎた。
というより、この匂いに慣れて無感覚になっていたのが改めて蘇った格好だ。
「そう」
有名人で若く美しい女性となれば、外を歩くだけでもサバンナを歩くシマウマのようなものだ。
「一応、気を付けて」
心細げな瞳で私を振り向くと、マルトはエレベーターのボタンを押した。
音楽と煙草と酒の匂いが私たち二人に押し寄せる。
「あら、マルト。今晩は」
「久し振りだね」
流行りのモードで着飾った男女が笑顔で近付いてくる。
やはり最先端のファッションに身を包んだ他の客たちも申し合わせた風にこちらに目線を向ける。
「お久し振り」
マルトが雀斑の浮いた顔に笑いを浮かべると、出方を窺う風に眺めていた人たちの表情もふっと和らいだ。
場所を変えただけの、いつもの光景だ。
私の隣に咲く大輪の花と群がる蜜蜂。
目にする度に、自分が透明になったように感じる眺めだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます