第五章:かりそめの家

「今度の映画はこっちのスタジオで撮影してるの」


「そうなんだ」


 撮影所に来るのは初めてではないが、いつも埃っぽい引っ越し中の家のようで、それは不思議と嫌でなかったりする。


 相応しい家具が相応しい場所に相応しい雰囲気に配置されて、役目を終えたらすぐ片付けられる。


 本物の家よりもあるべき形に思えるのだ。


 向こうから、鮮やかな緋色のビロード張りの一人掛けソファーを二人がかりで運んでくる男性スタッフがやってきた。


 作業着姿のスタッフとはいかにも不釣り合いな、まるで「不思議の国のアリス」の女王でも腰掛けるみたいな非現実的に豪華なソファーだ。


「お疲れ様」


 家具に目を奪われる私の隣でマルトが笑顔で声を掛ける。


「お疲れ様です」


 男性二人の険しい顔が一気に緩んだ。


 ここでもマルトは愛されるプリンセスなのだ。


 そう思うと、作業着のスタッフでもなければ、ブランド物を纏ったスター出演者でもない、着古した白ブラウスに茶色のベロアスカートを履いた自分がいかにも場違いに思えた。


 私の思いをよそにクイーンのソファーは運ばれて遠ざかっていく。


 多分、あれはマルトが出るのとは別の作品の装飾プロップだろう。


 これから使うものなのか、もう片付けるものなのか。


 何故か後者に思えてブラウスの腕が微かに粟立った。


「こっちよ」


 マルトはもうよそ行きの笑顔で誘う。


*****


「ジャン、今日はマリーを連れてきたの」


「初めまして」


――あれが、マルト・モーリヤックの妹か。パッとない子だな。


――同じアランの娘なのに、片方は不器量ね。


 そんな心の声が聞こえてきそうなスタッフたちの眼差しを肌に感じながら、中央の人物に微笑みかける。


「初めまして」


 相手は穏やかな笑顔に温かな声で返した。


 マルトから聞いてはいたが、初めて目にするフェラン監督は「監督」という言葉が不似合いなほどまだ若い。


 スタッフたちの真ん中にはいても、何となく横並びというか、「映画学校の学生監督と同期たち」といった印象があった。


「マルトから噂は聞いていて会ってみたかったよ」


 黒い瞳の目尻に優しく刻まれた皺で私たちより年を重ねた人だと知れる。


 それでも、「映画監督」という地位や職業から一般に連想されるような気難しさや尊大さといった気質は感じさせない。


 もっとも、それは私がスタッフでも出演俳優でもない、彼にとって部外者だからこその温和さかもしれない。


 そんな思いが頭を掠めた。


「今、インテリアデザインの勉強してるんです」


 マルトと同じ道は目指してない。


 そう釘を打つつもりで目の前の映画人たちに告げる。


「映画のインテリアって人物たちの背景に馴染んでいて、キャラクターに過不足なく合っていて、それが魅力的ですね」


 口にしてから自分の声がいかにも素人臭い、映画に憧れるファンのそれそのものに響くことに気付いた。


 だが、私は何の本職でもないのだから仕方がない。


 監督、俳優、衣装、ヘアメイク、美術……。


 目の前にいる人たちは年子の姉を含めて全員とも何らかのプロなのだ。


 そう思うと、急に穏やかな面持ちのはずの彼らが冷厳に見えてくる。


「私も早くひとかどの仕事が出来るようになりたいです」


 ここでなくてもいいから。


 フェラン監督は優しい皺を刻んだ目で頷いた。


「僕も君と仕事出来る日が早く来ることを祈ってるよ」


 それをしおにやおら立ち上がった。


「じゃ、昨日の続きから始めよう」


 *****


「撮影、面白かった?」


 マルトは疲れを滲ませながら、しかし、まるで自分が見学者でこちらが出演者であるかのように尋ねた。


「うん」


 今日の撮影はマルトの演じるヒロインが不倫相手の男と初めて逢い引きする場面だった。


 高級ホテルの一室を模したセットの中でスタッフたちの環視の下に秘密の関係を演じる。


 しかも、その場には観客として実の妹がいる。


「なかなか出来ない経験だと思う」


 改めて姉の顔を見据えて告げた。


 ぞっとするほど老けた瞳だ。


 まだ十九歳の、雀斑の浮いた肌は滑らかで艶やかな金髪には白髪などない。


 すらりと長い手足には緩みがなく、背筋もピンと伸ばしている。


 それでも、こちらを眺めるブラウンの目は恐ろしいほど年老いて見えた。


 これがさっきまで自分の父親ほどの年齢の男をコケティッシュに翻弄する演技をしていた女優だとは信じられないほど。


「それは良かった」


 マルトは穏やかに微笑んで頷いた。


 それはフェラン監督の穏和な大人の対応と酷く似通っている。


 自分以外の人生を演じた分だけ、マルトの心も同世代の女性より早く老けてしまうのだろうか。


 私の一歩前をまた進み出した背中が呟く。


「ジャンは、あと数年もすれば私はきっとキャリアを確立できるって」


 それは一体、何と引き換えに得るものなのだ。


 つとその背中がまた振り向いた。


「踊りに行きましょ」


 いつもの、十九歳の快活な笑顔だ。


「うん」


 目の前のマルトを壊したくなくて頷いた。


 撮影所の外は、まだ夕方だ。

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