第四章:巣立ちの季《とき》

「で、どうして今日は私も一緒なの?」


 車窓を流れていくプラタナスの木々を眺めながら、私は小さく息を吐いた。


 マルトが新しく買ったばかりの車の中は、もううっすらと梔子(くちなし)の香りがする。


 モデルを務めているブランドの香水だ。


 別に普段、他のブランドの香水を着けたところで咎められて違約金が課せられるわけではないだろうに、マルトは律儀に毎朝この甘やかな匂いを纏って家を出る。


 パパと同じで、自分に課せられたイメージに飽くまで忠実なのだ。


「本より撮影所の方が生きたインテリアが見られるでしょ」


 ミラーに映る顔にはどこか心細げな笑いが浮かんでいた。


 昔、バレエスクールの子たちに囲まれて私を呼び止めた時と同じ目だ。


「無理してオランダに行かなくてもフランスでもインテリアデザインの勉強はできるのに」


 行き先を見詰めるマルトの目はどこか虚ろだ。


 この前、十八歳の誕生日を迎えた私に対して十九歳。


 こんなにも爽やかに晴れた空の下、同い年の女の子ならまず手が出ないような香水を着けて、本来なら企業の重役が乗るような高級車を運転しているのに。


“天下の美男が最も愛する娘”なのに。


“もはや父親の名を必要としない美貌と才能”なのに。


 この前、客演したハリウッド映画でも、封切前は同い年のハリウッド女優がドラッグ中毒から復帰した第一作として話題になっていた。


 だが、いざ公開されると、ヒロインの彼女よりマルトの方が注目された。


“うまく大人になれない『アリス』とパリから来た『プリンセス』”


 窶れて蒼ざめたハリウッドの十九歳と花のように微笑むマルトの写真を並べたレビュー記事は残酷だった。


 数年前は吹き替えをしていた「天才少女」をマルトは下したのだ。


「ちょっと旅行するのと留学するのじゃ違うでしょ」


 不意に射し込んだ陽の光に、鏡の中の姉の、端正な鼻の上に散った雀斑が幽かに浮かび上がった。


 巷ではマルトのこの雀斑を真似るメイクが流行っている。


 人形のような冷たさがなく却ってキュートだと言うのだ。


 でも、本人は隠したがっていつも鼻の辺りのファンデーションは厚塗りしている。


「私は行きたいの」


 オランダの未来的なデザインに惹かれているのは嘘ではない。


 しかし、それ以上に私は出ていきたいのだ。


 ひやりとしたコロンの匂いにも優雅な梔子の香りにも胸を痛めずに済む所へ。


 パパの娘でもあなたの妹でもいられずにいる所へ。


「お祖母ちゃんも亡くなったばかりなのに」


 静かに告げるマルトの声の暗さが胸を刺す。


 近付く撮影所を見据えるブラウンの瞳は小さな闇そのものに見えた。


 マルトの目はパパや私ではなくお祖母ちゃんにこそ似ている。


 それは今に始まったことではないが、プラタナスの緑色の影が揺れる面影を眺めていると、若返った幽霊じみて見えた。


 ふと背筋に走った寒さを振り切るように反駁する。


「お祖母ちゃんだって応援してくれてたでしょ」


 一月前、居間で事切れていたお祖母ちゃんを最初に見付けたのは、学校から帰ってきた私だ。


 パパが買い揃えた豪華な調度品の並ぶ家の中、最高級のソファに凭れて、しかし、本人は極めて質素な服を纏って眠るように息を引き取っていた。


 決して小柄な人ではなかったのに、その姿は不思議の国に迷い込んで小さくなった体のまま息絶えたアリスに見えた。


 傍らのテーブルには古びた栗毛の人形と縫いかけの小さなドレス、そして、飲み掛けのショコラがまるで甘い毒のように冷め切って残されていた。


 貧しい中で育てた息子が大スターになり、豪邸で苦しまずに逝ったのだから、世間からすれば、幸福な最期だろう。


「本当はお祖母ちゃんに合ったインテリアも作りたかった」


――このお人形さんはマリーそっくりで可愛いからおうちに連れてきたわ。


 お祖母ちゃんもあの古びた栗毛に青灰色の目をした人形の服を最期まで作ろうとしてくれた。


「あんたが行ったら、あの家には私一人」


 優雅な梔子の香りを纏ったプリンセスは孤児院に送られていく少女さながら心細げな目で前方を見詰めている。


 あの豪荘な家の本来の主であるパパはたまに帰ってくるお客さんでしかないのだ。

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