第三章:残り香を抱きしめて
白と黒の鍵盤を前に息を飲み込む。
片手でゆっくり引き出す。
「恋は野の鳥 気まぐれ 気ままよ」
マルトの歌い出しに上手く乗せられた。
ソファーのパパが青灰色の目を奪われた風にこちらに、正確には私のすぐ脇に立つマルトに向ける。
「呼べど 招けど あちら向くばかり」
カルメンよりもジュリエットにこそ相応しい、澄んだソプラノの「ハバネラ」だ。
見守るパパの瞳が優しく細まる。
ふと、その隣に座るお祖母ちゃんと目線が合う。
相手は灰色の頭をゆっくり頷けた。
あなたはそれでいいのよ、という風に。
「手管こわもて 何の役に立つとぞ」
私の役目は伴奏。
拙ければお役御免だが、巧く出来てもそれは飽くまで主役の歌を引き立てるものだから、決して注目されない。
「恋知らぬ人に すりよる恋鳥」
白と黒の鍵盤を抑えながら、ふとミントに似た匂いを吸う。
パパの着けているコロンの香りだ。
イメージモデルを務めているブランドで出している最高級のコロン。
この匂いがすると、パパが帰ってきてくれたといつも思う。
「おお恋 おお恋 恋はジプシーの子よ」
でも、この香りを嗅ぐと、胸の奥がいつも痛くなって、ひやりと肌寒くなる。
「法も理屈もなしよ」
そして、この匂いが家から消えると、残り香を抱き締めるのだ。
「すげなくする人にあたしは焦がれるの」
「この前よりまたもっと良くなった」
パパは歌い終わった小さなカルメンを抱き締めてキスする。
マルトは鼻の上に微かに浮き出た雀斑(そばかす)を気にしているけれど、パパが進んでキスするのはいつもマルトであって、雀斑が無くても蒼白い私の顔ではない。
ピアノの白黒の鍵盤に緋色のカバーを掛けて更に固く黒い蓋を閉じる。
これで伴奏の役目はおしまい。
「マリーのピアノもずっと上達したわ」
お祖母ちゃんの声がした。
穏やかだが、底に厳しい何かを含んでいる。
振り向くと、お祖母ちゃんはマルトを抱くパパを咎める風に見詰めていた。
「一緒に習ってるけど、もうマリーの方がずっと先に進んでるの」
マルトが曇りのない笑顔で私を示す。
やめてくれ。
そう思った瞬間、パパがこちらに眼差しを向けた。
「そうか」
私と同じ青灰色の目はどこか虚ろだ。
「ニコルに似たんだな」
物心ついた時にはもう私たちの傍にはいなかった、生みの母親の名前だ。
パパの言葉にお祖母ちゃんはもちろん、マルトの笑顔もふと曇る。
「別れる頃にはいつも部屋に篭ってピアノの練習ばかり」
上流階級出身の妻が所詮は下層出の成り上がり者の夫に愛想を尽かして出ていった。
短い結婚生活に終わった両親について世間がそう見ていることを私たちも薄々知っている。
「ママも彼女がどうだったか覚えてるだろ?」
低く苦い声でお祖母ちゃんに言い捨てると、パパは背を向けて居間を出ていく。
家の中ですら、いつも仕立ての良い、崩れのない服に身を固めた、端正そのもののような後ろ姿。
後にはひやりとしたコロンの香りだけが残った。
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