四ノ段

 イメツムが立ち上がり注視した航路の先の海面が黒く広がり、海中から巨大な物体が上がってきた。すると、船内にいた船頭や乗組員、ガッドたちも慌てた様子で飛び出してくる。

「こ、こいつは!」

 船頭が今にも飛び出しそうなほど目を見開いて、海から出てきた巨大な生物にたじろいだ。周りの男たちは一様にして言葉を失ったままそれを眺めている。

「船長、あれは一体なんだ」

 冷静な態度でそう尋ねたイメツムに対し、船頭は頭を抱えながら答える。

「クラーケンじゃぜ……ッ! 海魔のバケモンが、なんでこんな所にいるんじゃぜ!?」

 その姿を海面から現した怪物は、乳白色の体表に暗い大きな目玉をぎょろぎょろと動かし、船の前方に立ちはだかっていた。

「やれやれ、タコの魔獣の次はイカか」

「何を呑気なこと言ってるんじゃぜ! 早く逃げんと船ごと喰われちまうわ!」

 クラーケンは古代からアーステアに生きている海魔獣だが、本来は人間たちが利用する航路には現れない。それは先人達がそういう航路を探求し作り上げたものであったが、イレギュラーな事態が発生した事例も少なからず確認されていた。

「イメツム、これ結構ヤバイわよ……」

 押し寄せる波で揺れる船体に必死に掴まり、フィアナが青い顔をして言った。

「ふむ、やるしかあるまい。今から船を反転させていたのでは間に合わんだろう」

「や、やるって……戦う気なの!? いくらあなたでも無茶よ! こんな海の上で、足場も何もないじゃない!」

「仔細ない。それよりオマルとユウタを安全な場所へ避難させておけ。拙は奴の注意をひきつける」

 そう言い残し、イメツムは船首から飛び降りた。

「あっ、ちょっとイメツム!」

 フィアナがイメツムの降りた先を船から身を乗り出して確認すると、彼は当然のように海面を走りクラーケンへと向かっていった。

 その様子にフィアナは大きく息を吐いて安堵する。

「……もうアイツを常識で考えるのやめよ」

 船からクラーケンまでの距離はおよそ一〇〇メートル。海面を駆けるイメツムは三秒とかからずその巨体までたどり着いた。そしてクラーケンの目玉がイメツムを捉える。

 しかし、明らか気づいているにも関わらず、クラーケンはイメツムを無視し前進を始めた。

「ちっ、利口にも船を狙っているのか」

 イメツムはその場から跳躍し、クラーケンを頭上から見下ろす形で手裏剣を二つ投擲した。目玉を狙って投げた手裏剣は弧を描くように飛んでいく。

(とりあえず視界を奪えば身動きもとれまい)

「むっ」

 イメツムの投げた手裏剣は、海面から飛び出してきた触手に阻まれた。そして、クラーケンの触手にある無数の吸盤が開く。

「ッ!?」

 イメツムが宙空でそれを視認した瞬間に背筋に寒気が走った。その直後、クラーケンの体内で圧縮されたと思われる超高出力の水の刃がすべての吸盤から放出される。例えるならそれは無差別に放たれたレーザーのごとき水流で、触れれば人の体など造作もなく両断されてしまうほどの威力を持っていた。

 思考する間もなく迫る水の刃に、イメツムは再び舌打ちをしながら身体をよじった。背中すれすれに抜けていった水の刃を目の端で捉えたものの、落下する先には息つく間もなく次の刃が襲い掛かる。

「跳んだのは悪手だったな」

 そう愚痴りながら右手で印を組み術を発動させる。

 ――天凪流導引術〝如法鞍耶にょほうあんや〟!

 術を発動したイメツムの体の関節は、人体構造を無視した形で曲がりだした。腕、脚はおろか腰から首にいたるまで艶めかしい軟体動物のように曲がっていく。

 如法鞍耶は特殊な呼吸法によって全身の骨を軟化させる術である。インド発祥のヨガを彷彿とさせるこの術は、天凪流二代目伝承者・我破真がはまという忍が編み出したものであった。

 我破真は初代天凪流忍者である幻波の実子だったが、天凪流を継承したその直後に抜け忍となり里から逃げ出した。その理由は定かではないが、伊賀は抜け忍を決して許すことがなく、我破真もその範疇に漏れず死の制裁を受けた。しかし、それはあくまで里の者たちがそう語るだけであり、その真偽もまた定かではなかった。

 イメツムは次々と迫る水の刃をその軟化させた体で、すべて紙一重に避けていく。そうして海上へと着水した彼は、波打つ海面に手をつき呼吸を整えた。

「ふぅ、まさかこんな形で二代目の術を使うことになるとはな」

 イメツムは二代目と言ったが、師である幻波は我破真が抜け忍となった時点で天凪流の伝承者としての銘を認めてはいなかった。故に、本来ならイメツムが二代目を名乗るはずだった。しかし、イメツムは兄弟子である我破真への敬意から、自らを三代目伝承者としている。

「さてと……このデカブツをどうしたものか」


                 † † †


「イメツム……」

 クラーケンとの戦いを船から見ていたフィアナは、思いのほかイメツムが苦戦を強いられていることに少し戸惑っていた。しかし、いくらイメツムの強さが人の域を越えているとはいえ、敵は神話の時代から生きていると云われる怪物。一筋縄でいかないことは至極当然のことだった。

 それでも、イメツムは徐々にクラーケンの注意を引き付け、次第に航路から外れて遠ざかっていく。その光景を見つめていたフィアナはふと我に返った。

「船長! 今の内にこの海域を抜けましょう!」

「嬢ちゃん正気か!? どう考えたって引き返す場面じゃぜ!」

「クラーケンは必ずイメツムが倒すわ……必ずね」

 自信に満ちた表情でフィアナがそう告げると、船頭は訝しげな視線をクラーケンのいる方角へ向ける。彼にイメツムの強さの程を知る術などない。が、目の前にいる少女の言葉は何故か信じてみる価値があるように思えた。もちろん根拠も何もないが、長年に渡る船乗りの勘とでもいうものだろう。

「……ハハハハハ! 俺も焼きが回ったもんじゃぜ。船乗りが目的地を目の前にして尻尾まいて逃げ出そうなんてな!」

 船頭は笑いながら船内へと戻っていく。その途中に乗組員たちへ檄を飛ばしながら指示を出した。

「進路そのまま! 全速で飛ばすんじゃぜ、野郎ども!」

 海育ちの屈強な乗組員たちが、船頭の言葉に雄叫びのような声を上げて気合を入れる。そんな活気溢れる船上で、オマルとユウタだけは相変わらず船酔いとの戦いを続けていた。

「フィアナたん、あとどれくらいで着くんだお? うぷっ」

「二時間はかかるでしょうね」

 目を合わせず素っ気なくフィアナはユウタの問いに答える。心の中ではイメツムに協力してこいと言いたかった彼女だが、自分自身にそれが出来ないということもあり、その言葉を口にはしなかった。

「ふ、ふふふふふふ」

 するとオマルが船酔いで青白い顔をしながらも、不敵に笑いだした。

「オマル?」

「こんな事もあろうかと……オフィリアで銃を改造したんでつよ。こんな事もあろうかと!」

「大事なことなので二回言いました。オマルたんカッコよす」

 船酔い仲間として一方的な友情が芽生えていたユウタが、オマルの自信に満ちた横顔に瞳を輝かせていた。

「オマル、何か手があるの?」

「これでつ」

 甲板の隅に置いていた黒箱から取り出したのは一見何の変哲もない銃で、オマルが普段から使用しているリボルバー式の連発銃と同じタイプの物。そこに同じように黒箱から取り出したパーツを付け足していく。組み立てられる銃はみるみる内に小銃へとその形を変えていき、最後に照準器(スコープ)を取り付け完成した。

「オマルカ特製のリボルバー式カービン銃、その名も〝ネラエルーン二号〟!」

(名前だっさ!)

 オマルが得意気な顔で口にした銃の名前にフィアナは苦笑いを浮かべる。

「このネラエルーンでイメツムを援護するでつ」

「おお! スナイパーみたいでカッコイイお! 小銃だけど」

 銃身を船の手すりへと乗せて固定したオマルは、クラーケンの巨体が見える方角へと照準を合わせるように照準器を覗き込む。

 しかし、オマルは銃を構えた姿勢のまま何故か固まっていた。

「撃つなら早く撃ちなさいよ!」

「……じ、実はまだ試し打ちをしてなくてでつね。運悪くイメツムに当たったりしたら大変なんでつが」

「イメツムなら大丈夫でしょ。銃弾に当たって死ぬなんてマヌケな姿が想像つかないもの」

「いやでも万が一ということもあるでつし……僕の魔力計算が正しければ」

「あぁ、もうまどろっこしいわね! なら私が撃つから貸しなさいよ!」

「あ、危ないでつ! やめるでつ!」

 フィアナがオマルと揉み合っている時、背後に立っていたユウタが銃をひょいっとオマルの手から奪った。

「ここはFPSゲーム歴五年のボクに任せてくれお」

「あっ」「ちょっ」

 いつになく凛々しい顔で銃を構えたユウタが何の躊躇も無くトリガーを引く。その直後、撃鉄が弾かれ、銃口からは目の眩むような閃光と小銃とは思えないほど轟音が鳴り響いた。

 フィアナとオマルは思わず鼓膜を守るようにして耳を押さえる。

「おぉ!?」

 放たれた弾丸が通過した海面は一瞬にしてその軌跡を示すように凍りついていく。

 オマルが改造したネラエルーン二号は属性魔力を込めた弾丸を、銃の威力、つまり運動エネルギーを魔力へと増幅する役割を果たす改造魔銃である。さらに、放たれた弾丸が周囲にあるルーンを内部に取り込むことで属性魔力を強化、変換するという仕組みになっており、オマルが予め氷属性の魔力を封じた弾丸を精製していたことで海面が凍りついたのだった。

「マズイ!」

「ふぇ?」

 弾道を見ていたフィアナが思わず叫んだ。クラーケンの触手を躱しているイメツムの回避方向と銃弾の着弾予想地点が見事に重なっていたのである。


「やはり触手はいくら切っても再生するか! ――ッ!?」

クラーケンと対峙していたイメツムの聴覚が、風を裂いて飛来する弾丸の音を微かに捉えた。寸での所で弾丸を躱した彼は何事かと船の方を見やる。

「莫迦者ォ! 殺す気かッ!」

 イメツムが三人に聴こえないとは理解しつつもそう叫んだ直後、背後にいたクラーケンの触手に当たった弾丸から爆発的な魔力が放出された。触手がみるみる内に凍りだし、クラーケンの左半身は天まで届きそうなほど高く、冷たく分厚い氷の壁に包まれていた。

「凄い威力だな、オマルの仕業か?」

 この威力には、銃を改造したオマル自身も驚いていた。確かに計算上は銃の威力、つまり火薬量や口径といった物理的なものと、大気中から取り込むルーンの量で発揮される魔法効果が増減するわけだが、まさか海魔であるクラーケンにここまでの威力を発揮するとは予想していなかった。その不安要素を考えれば彼女が撃つのを躊躇っていたのも頷けることだった。

 不幸中の幸いだったのはイメツムがこれに巻き込まれなかったことだろう。

「兎にも角にも、好機到来ッ!」

 イメツムは身動きが取れなくなったクラーケンに向かって走り出した。

氷漬けになっている左半身へと回り込み、鞘から抜いた小刀を口に咥える。そのまま両手で印を素早く組み、術を発動させたイメツムの前に人魂の様な炎の塊が円状に浮かび上がった。

「煉獄の焔(ほむら)に焦がれよ」

 ――天凪流忍術奥義・紅焔の段〝黒蝕天紅こくしょくてんこう〟!

 浮かび上がった炎が小さく分かれていく。それがヒラヒラと羽をはためかせる蝶の形となり、クラーケンを取り囲むようにして展開されていった。その数およそ五〇〇〇匹。

 一見、幻想的に見えるその光景は、次の瞬間――。

「爆滅ッ!」

 イメツムが起爆の印を刻むと、火蝶の群れが連鎖的に爆発しだした。爆音が爆音の中で鳴り響き、大気をも震えさせるほどの衝撃と爆炎が広がっていく。それらがクラーケンの肉を抉り焼き尽くし、悲鳴とも呼べない低く重い叫びが木霊した。

「づぇあああああああああああああ!!」

 爆発の中で身悶えるクラーケンの正面から、小刀を振り下ろしたイメツムは続けざまに刃を返す。その刃はクラーケンの焼け焦げた肉片を再生不可能になるまで切り刻むという無慈悲の斬撃であった。


「……我身の栄華を極むるのみならず」

 細切れとなったクラーケンの肉片が海中へとぼたぼたと落ちていく中、鞘へと刃を収めたイメツムは口布を下げて大きく息を吐いた。

「ふー……ッ!」

 安堵した瞬間、目の前から飛んできた何かを咄嗟に左手で掴んだ。それは赫焉が付いている左手で掴んだことがイメツムにとって偶然であり、幸運なことだった。

 握った左手を広げて飛来してきた物を目にしたイメツムは眉根を上げた。

「蟲か?」

 その蟲はイメツムが見たことのない昆虫だった。光沢のある翡翠色をした蟲で、イメツムの知識で一番近しいものでいえばコガネムシだろう。しかし、口部から突き出している針には毒液らしきものが絡みついている。もしも右手で掴もうとしていたら刺されていた可能性が高い。

「……フィアナ、オマル」

 一瞬、胸騒ぎがした。

 クラーケンと戦っている時から違和感はあった。突如現れた怪物を船から引き離そうとしていた自分が、実は逆に船から引き離されていたことに気づいた時、イメツムは胸の内から湧き上がる焦燥に駆られたことで確信した。

「クラーケンは囮……狙いは」

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