参拾参ノ段

 冷たい床に無機質な音を響かせ突き立てた皇女の剣の先にオマルはいなかった。

「あら……?」

 オマルを抱きかかえ、フィアナのすぐ横に降り立った黒い影は傷つき苦痛に顔を歪めている彼女を見下ろし笑った。

「待たせたな」

「イメ……ツム」

 フィアナが安堵したのも束の間、皇女がイメツムへと飛び掛かり鋭い刺突を放った。

イメツムは緩やかな動作でオマルを床へ寝かせ、迫る細剣へと目を向ける。

「無駄だ」

 たった一言、そう皇女へと言い放ったイメツムは、細剣を赫焉の人差し指一本で受け止めた。

「なっ!」

 続いて右手から腹部への掌底が皇女の身体を宙へと跳ね上げる。

「がっ……は」

 時間にして僅か一秒に満たない攻防。しかし、それだけで既に勝敗は決していた。

 皇女は受身をとる余裕などなく床へと倒れた。

「イメツム、無事だったのね」

「あぁ……それにしても、これは一体どういう状況なのだ」

 二人の窮地に駆けつけたイメツムだったが、事態の深刻さはいまいち掴めていなかった。

「そう、オ……オルバスは…………負けた……のね」

 腹部を抑え、よろめきながらも立ち上がった皇女はイメツムを見つめる。

「動かぬほうがいいぞ。内臓にそれなりの衝撃を与えたからな」

「まだ……終われない。その子は私が…………殺すんだから」

 そう言うと、皇女は剣を杖代わりにして祭壇の方へと歩き出した。その足取りは重く、イメツムの攻撃は見た目以上に強力なものだったことが窺えた。

「ふぅ……」

 祭壇へと腰かけ、息を大きく吐いた皇女はフィアナとイメツムに微笑を向ける。礼拝堂に漂う神聖な雰囲気の中、祭壇の周りにいくつも並ぶロウソクの火がゆらゆらと揺れていた。それは微笑む皇女と同じように儚げで、どこか妖しく堂内を照らしていた。

「色々と説明してもらいたいのだが、構わないだろうか?」

 腕を組んだイメツムが皇女へと尋ねる。

「……そうね。もう幕を引かなければならないし、最後に話しておこうかしら。何から聞きたい?」

 両手を広げ、肩を竦めた皇女はフィアナの方を見ながら問いかけた。

 フィアナは未だに目の前にいる皇女を心のどこかで信じていた。聞きたい事など山ほどある中で、彼女が最初に選んだ問いを口にする。

「なぜ……生きておられるのですか? あなたは三年前にラ・シルで――」

「あなたは私の死体を見たの?」

 当時、皇女と入れ替わっていたフィアナは彼女の亡骸を見てはいなかった。皇族である者が臣下の死体を直接見にいくことなど許されておらず、ただ死んだとだけ報告されていた。

「当時はまだ王子だったオルバスがラ・シルへ来ていたあの晩餐会の日、私は国を出るために彼を利用したのよ」

 皇女は秘密裏にオルバスと会い、本物の皇女であることを告げた。そして、国を出て自由に生きたいと彼に話したのだ。

「オルバス自身も同じ思いだったから、私に同情したんでしょうね。あっさりと聞き入れてくれたわ。オルバスもあの当時はまだ正義感に溢れた綺麗な瞳をしていた。きっとお姫様を悪者から救う勇者のような幻想を抱いていたのかもしれない。懐かしい……まぁ、私は自由なんて本当はどうでもよかったのだけれど」

 皇女の言う通り、当時のオルバスは自分と同じ〝国に縛られた人間〟として哀れみ、彼女を連れだした。しかし、ドレイクで共に過ごしている内に彼は気付いた。皇女は自分とはまるで違う人間であること、そして胸に秘めた邪な情動に――。

「だったら何故そんな回りくどいことをしてまで国を出たのですか!?」

「知りたい? でもあなたはとても傷つくと思うのだけれど」

「……私が?」

 皇女の意味深な言葉にさらに困惑の色を強めた表情でフィアナは眉根を上げた。

「その前に拙からも聞きたい」

「どうぞ」

「気を失っているオマルの代わりに問う。お主とバランシュナイヴはどう繋がっている。あやつはお主の命で動いていたのだろう?」

 イメツムにはどうも合点がいかなかった。今は亡き虚空連邦アーカーシャにあった異端神問会の人間が何故、自国を捨てた皇女と繋がりを持っていたのか。

「バランは元々ラ・シルにいたのよ。私があの国で殺されたという工作を手伝ってくれたのも彼。あなた達も覚えておいた方がいいわ。虚空連邦、いえ異端神問会の者は四大国の中枢に深く関わっている。いずれ彼らが引き鉄となって大きな戦争が起きるでしょうね」

「そん……なっ……!」

 飄々とした態度でそう告げた皇女に、フィアナは血が凍りつくような恐怖を覚えた。

「彼ら異端神問会は、国が崩れるであろう火種さえ与えれば大抵の要求は聞き入れてくれたわ。私が国を出ることに協力したのもその程度の理由なのよ」

 皇女が国を捨て、偽者であるフィアナのことが知れれば貴族社会である皇国内では少なからず影響がでる。小さな綻びはやがて貴族や民衆から皇族に対する不信感へと変わる可能性もあった。それが火種となることも有り得るのだ。そんな火種がいずれあちこちで燻り始めれば大火となって大陸全土を焼くだろう。

「ちなみに今回の件で私がバランに支払った対価は魔蒸機関の情報。これはオルバスの目を盗むのに結構苦労したわ」

「わからない……全然わかりません! あなたは一体何がしたいのですか!?」

 フィアナは傷ついた体を省みずに立ち上がり、皇女に問いただす。その表情はすでに困惑から怒りへと変化していた。

「あっはははははは! わかるはずがないでしょう。自分自身が何者であるかすら理解できていないあなたに、私のことなんてわかるはずがないじゃない!」

「……どういう意味? 私がなんだっていうのよ!」

 くすくすと嫌らしい嗤いを含ませながらフィアナの問いに皇女は答える。

「あなた……両親の名前は覚えている?」

「父と母の…………名前?」

 この状況で皇女の問いに何の意味があるのか、フィアナにはその意図が解からなかった。しかし、そんなことよりも重大な事実に気付かされたのだ。

「フィアナ、どうしたのだ?」

 目を泳がせ明らかに焦りの色を見せている彼女にイメツムは声をかけた。

「思い……出せない。父と母の名前も顔も…………どうして」

「ふふ、思い出せないのはそれだけ? 自分の本当の名前は?」

 フィアナの記憶に残っているのは自分を置いて父と母が町から去っていく後姿、そして皇女と初めて会ってから過ごした時間のみだった。

「どうして……どうして何も思い出せないの。父と母のことも自分の名前も……どうしてッ!!」

 自らの肩を抱き、震えだした身体に耐え切れずにフィアナは両膝を突いた。そんな彼女を嘲笑う皇女は、その端正な顔立ちを醜く歪めている。

「ぷふっ……あはははははははは! いい! その表情すごく興奮しちゃう! 思い出せるはずないじゃない! 元々ない記憶をどうしたら思い出せるっていうのよ! はは!」

「やめろ!」

 尋常でない怯え方をしているフィアナを気遣い、イメツムが皇女の言葉を遮った。その手には苦無が握られている。いざとなれば――イメツムはそう考えていた。

「真実を知るためにここへ来たのではなくて?」

「いや! もう何も聞きたくない!」

 耳を塞いで皇女の言葉を拒んだフィアナは、今にも溢れそうなほど瞳を潤ませていた。そんな彼女を見下ろし、尚も皇女は話を続ける。

「あなた、私に仕える前は何処でどう生きてきたの?」

「わ……私は、ラ・シルのスラム街で…………父と母と……一緒に」

「そんな偽りの記憶を植え付けられていることに、何故いままで気付かなかったのかしら。いえ、気付いていながら目を背けてきたのでしょう?」

 皇女の言う通りだった。

 フィアナは確かに過去の記憶に曖昧な点が多く、釈然としないことに気付いていた。しかし、それも皇女の影として、そして皇女自身となって生きていくことで自らのアイデンティティーを確立させ、過去の空漠たる記憶は薄れ消えていった。それが今、音を立てて崩れていく――。

「偽り……? 植え付けられた?」

 俯いていた顔を上げ、恐る恐る顔を上げたフィアナに対し、絶対零度の眼差しを向けながら皇女は口を開いた。


「――あなたは私が造った複製人間クローンよ」

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