弐拾伍ノ段

 惨劇の夜、イメツムの黒かった髪は見る影もなく白く染まっていた。血涙を流しながら野山をひたすらに駆け、月に吠え、夜の闇を切り裂く疾風となり里を目指していた。


〈結局のところ自分の命が惜しかったんだよねぇ〉

〈かっこつけても自分が一番可愛かったんだ! たった一人の親を殺してまで生き延びたかったんだぁ!〉

「これが……イメツムの過去?」

〈そうだよ、母殺しの少年はこうして今も生き恥を晒しているのさ。ぬふふふふ〉

「…………そっか、だから初めて出会ったとき、髪を触ろうとしたらあんなに怒ったのね。忌まわしい過去を思い出してしまうから。ごめんなさい……イメツム」

 フィアナは怯えうずくまっているイメツムの頭を優しく撫でると、鞘から剣を抜いて地面へと突き立てた。

「噂でしか知らなかったけど、レプラクォーン……あなたたち本当に最低ね。許さない!!」

〈あ、怒った? ニセモノのお姫様が怒ったぞぉ〉

〈ニーセモノ! ニーセモノ! ニーセモノ!〉

「今さらそんな挑発が通用するものですか!」

〈ぬふっ、自覚が無い〝本当のニセモノ〟お姫様。君はそこの少年よりももっと辛い現実をこの先で知ることになるよ。ここを生きて出られればの話だけどね〉

「戯言を! 凍てつく風の大いなる導き手よ、我が声に応え、永久を今ここに刻め! 散華氷界陣ユグド・サンファム!!」

 突き立てた細剣を中心に薄氷が円状に広がり冷気が一帯に立ち込めた。

 霧と冷気が重なり視界はほぼゼロの状態。

〈ぬふふふ、こんな目くらましに何の意味があるのかな?〉

〈ボクたちの姿も見えないのにね!〉

「それはお互い様よ……あなたたちも姿が完全に見えなくなってしまえば心を読むことが出来ない。そうでしょ!?」

 レプラクォーンたちはフィアナの言葉に何も答えなかった。

「卑怯者! 姿を現して私と闘いなさいよ!」

(声は聞こえているのに、どうして……気配が一片も感じられないの?)

 フィアナは敵の分析をしようと思考していた。その時だった――。

「フィ……アナ」

「イメツム!?」

 弱々しく伸ばされた左腕を掴んだ瞬間、フィアナはその左腕が発する熱に驚き手を放した。

「あっつ! 何? どうなって……」

 イメツムはゆらりと立ち上がると、全身から蒸気のように湯気を立ち昇らせていた。濃霧の中で煌々と輝きを放ち赤熱化している赫焉を見て、フィアナは言い知れぬ不安に駆られる。俯きながら立ち尽くしていたイメツムが口布を下げ、何かをぶつぶつと呟きだした。

「イメツム……? ねぇ、どうしちゃったの?」

「殺す……」

「――え?」

 フィアナはイメツムの呟きに耳を疑った。

「……殺す。殺す殺す殺す殺す!! 殺す――――ッ!!」

 身体をギリギリと弓のようにしならせ、イメツムは左腕を振りかぶった。

〈これ、ま、まずくない? なんか凄く嫌な感じがするよ!〉

〈みんな! 逃げ――ッ!〉

「ヴォオラァァァ――――――――ッ!!」

 イメツムの咆哮と共に辺り一帯の霧がすべて吹き飛んだ。そして同時に振り抜いた左腕が、熱風を伴って何もない虚空に爪痕を刻む。

 焼け焦げたかのように剥がれて消えた空間の先に妖精・レプラクォーンが三匹固まっていた。

「じ……次元を…………切り裂いたの?」

 フィアナが驚愕し、イメツムの左腕にある赫焉を見ると指先が鋭利な鉤爪のように変形していた。それはとても禍々しい気を放っており、イメツム本人の顔も狂気に満ちたものへと変貌している。

「ゴアアアアガアァッ!!」

 再びの咆哮――。その直後、空間の向こう側にいた三匹のレプラクォーンが悲鳴をあげる間もなくボロ雑巾のように引き裂かれた。飛び散る血しぶきと肉片が切り裂かれた空間の向こう側へと消えていく。そして傷口が塞がっていくように、開かれた空間は戻っていた。

 その後、獣のような雄叫びあげたイメツムが意識を失いその場に倒れこんだ。その雄叫びは勇ましさよりも、哀しみに嘆いているようにフィアナには感じられた。

「イメツム……あなたは」


 フィアナは気を失ったイメツムを背負い、オマルと繋がっているロープを辿って湿原を歩いていた。その道中には、おそらくオマルが置いていったであろう青色の石が数メートル間隔で置かれていた。

(これは、オマルが目印に置いていったのね。ありがとう)

 ロープが再び切れてしまった時の保険だったのだろう。

 オマルは持っていた貴重な精霊石を砕き、道標に使っていた。

「フィアナ……」

「気がついたのね」

「済まぬ」

 イメツムと出会ってから何度その言葉を彼の口から聞いただろうか。

 大体、何を謝ることがあるのか。あの状況では助けられたのはむしろ自分の方だというのに、彼はなぜ謝るのか。フィアナはそんなことを考えて口をつぐんだ。

「怒っているのか?」

「そんなんじゃないわ。ただ、なんて言ってあげればいいのかわからないの。あなたの過去、不可抗力とはいえ知ってしまったから」

「そうか……」

 目を覚ましたにも関わらず、イメツムを下ろさずにフィアナは歩き続ける。そんな二人の間にしばらく会話はなかったが、やがてイメツムは重々しく口を開いた。

「……母さんを殺してしまった後、拙は里に戻り師匠に会ったのだ」


『師よ、なぜ母さんを巻き込んだのですか。なぜッ! 母さんはただの母親だった……どこにでもいる普通の人だったのに』

 幻波はイメツムに背を向け窓から月を眺めていた。咥えていた煙管を口から離し、溜息と共に吐き出した紫煙が窓の隙間から夜空に消えていく。そして幻波はゆっくりと口を開いた。

『忍とはなんぞや?』

『……くっ! いまさらそんな問答に何の意味がある!』

『答えよ』

 師の問いかけに対し、苦々しい表情を顔に張りつけながらイメツムは答えた。

『忍とは、闇に生きる殺戮者。甘さを捨て、心を滅し冥府魔道を歩む者也』

 その言葉は伊賀の忍ならば、誰もが幼い時分に説かれる教義であった。

 答えながらイメツムは己の中で理解してしまった。その非情さこそが忍であると。

『それがお前の答えか。儂は育て方を誤ったのかもしれぬな』

 幻波の言葉の意味が理解できなかった。それでも、人として認めるわけにはいかなかった。何が正しい事なのかはわからない。ただ、何が間違っているのかはわかる。

『拙は……もうあなたを師だとは思わない。あなたは仇だ…………必ず償わせてやる』


 フィアナは忍のことも、戦国の世のことも深く知らない。だからイメツムと彼の師匠との間にある隔たりについて何も言えなかった。

「それから拙は幾度となく師の命を狙った。すべて失敗したがな」

 しかし幻波はイメツムの襲撃を退けるばかりで、彼を殺そうとはしなかった。結局、イメツムは幻波をその手にかけることなく、織田と伊賀の和議のために犠牲となって自ら命を絶った。

 天凪流最後の忍として――。

「いま思えば、師はこうなることを予期していたのかもしれん」

「それなら、あなたの師はあなたを守ったということにならないの?」

「わからぬ……師の考えも今では闇の中だ。だから拙はその行き場のない想いを織田信長という男へとぶつけたのだ」

 母の仇として狙っていた師・幻波の命を奪った織田。戦乱の世の象徴たる織田信長という男を討ち果たすことができれば、何か答えが見つかるのではないか。イメツムはあの時、漠然とそう思っていた。

「でもそれは口実だったのだろうな。結局、拙は誰かを殺せるか殺せないかでしか物事を判断できない根っからの人殺しというわけだ……ははっ」

 消え入りそうな乾いた笑い声がフィアナの耳に届いた時、彼女はわなわなと肩を震わせてイメツムの身体を支える両手に力を込めた。そして――。

「むむ――――――んッ!!」

 イメツムの身体をそのままぬかるんだ地面へと頭から叩き落とした。

 イメツムは逆さまになりながら手足をばたつかせもがいている。

「んんぐっ……ぶっは! ぺっぺっ……いきなり何をす――」

 口に入ってしまった泥を吐きだしフィアナに抗議をしようとした時だった。

「フィ……な、泣いているのか?」

「泣いてない! 馬鹿ッ! なんで私があなたのことで泣かないといけないのよ!」

 そう否定するフィアナの目には確かに薄らと滲むものが見えた。

「拙は……どうすればいい」

 イメツムは膝を突いた状態のまま、フィアナの言葉を待った。

 まるで自分のことのように悲痛な表情を浮かべるフィアナが胸の前で手を握り締めて言った。

「それを私に訊くの? 答えて欲しいのなら答えてあげる。でも本当にあなたはそれでいいの?」

「…………」

 フィアナの言葉にイメツムは押し黙った。

「自分の生き方を他人に委ねるなんてあなたらしくないわよ……イメツム」

「お主の……言う通りだな。済まない、忘れてくれ」

 陽菜の死も、母の死も、幻波の死もイメツムには何も教えてはくれなかった。もはや彼にとって忍とは生き方ではなく、生きる為、戦う為の術でしかない。乱世に終止符を打つためにはもっと別の強さが要る。イメツムはそれが知りたかった。

 真の強さ、最強とは何を以ってして最強足り得るのか。

 イメツムは強さの意味を、以前よりも一層知りたくなっていた。

 再び歩き出した二人が湿原を抜けたのはそれから一時間後のことだった。

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