弐拾肆ノ段

「はぁ……はぁはぁ」

 ぐったりとうな垂れたイメツムは、虚ろな視線をぬかるんでいる大地へと落としていた。

〈昔、昔あるところに一人の少年がいました〉

 すでに戦意を失っているイメツムに対し、見えざる声の主がわざとらしく声のトーンを上げて語りだした。

〈少年は一人前の忍になる為に厳しい修行を積み、幾多の試練を乗り越え、一五歳の誕生日を迎えました〉


 奈良時代以降、男子は一二歳から一六歳の間に元服と呼ばれる成人男性となる為の通過儀礼を行う。氏神の社前において大人の服に改めたり、武家などでは、これまであった自分の幼名を捨て新たに元服名が付けられる。しかし、一子相伝の天凪流忍者の元服式は普通のそれとはまるで違っていた。そのことに大きく関わっているのがイメツムの母親だった。

 イメツムの母親は伊賀の里の人間ではなかった。

 三歳の時に母元を離れ幻波に引き取られたイメツムは、月に一度だけ母に会いにいくことが許されていた。苛烈極まる天凪流の修行は幼いイメツムにも容赦なく課せられたが、それでも幻波は彼に母親へ会うことを禁ずることは一度としてなく、彼にはそれが不思議だった。

 真面目を絵に描いたような少年はふと思った。

『母さんに会いに行くことが決して嫌だとか面倒だとは思わない。でも本当にこんなことで立派な忍になれるのだろうか? 戦国最強の忍となる者が親の愛に甘え、修行の時間を削ってまで会いにいく余裕などあるのだろうか?』

 幻波は決してイメツムを甘やかしたりなどしない。死ねばそれまでと言わんばかりに、平気で五歳に満たないイメツムを滝壺へ突き落すような人物だった。

 イメツムが一一歳の時、母に会う月に一度の日のこと。彼はいつものように里を離れ、母の暮らしている村落へと足を運んだ。途中で仕留めた野兎の肉を手土産にして。

『母上……お久しぶりです』

 木造の小屋に一人で住まうイメツムの母は、いつものにように優しい笑顔で彼を出迎えてくれた。

『あら、今日は早かったのね。また背伸びたんじゃない?』

『背は変わってないと思いますが』

 母は彼が来るたびに同じことを訊いてくる。そして彼も同じ言葉で返事をする。

『ゆっくり休んでいきなさいね。母さんあなたのこと応援してるから、お父さんみたいな立派な忍になって……でもお願いだからお父さんみたいに私より早く死なないでね』

 母は乾いた笑いを浮かべながらイメツムにそう言った。それからは修行や任務のことを言える範囲で談話の種とし、野兎の肉を入れた鍋を二人で食べる。もう何年も繰り返し続けてきたことだ。その途中で半年前に辻斬りにあい死んでしまった陽菜の話をイメツムはした。

『母上、教えてください。なぜ陽菜が死ななくてはならなかったのでしょうか。私にはこの世の荒みが彼女を殺したように思えるのです』

『幻波様は何かおっしゃられた?』

 パチパチと爆ぜる囲炉裏の火を見つめながらイメツムは首を横に振った。

『余計なことは考えなくていいと、それだけです』

 ゆらゆらと瞳の中で燃える炎がまるで自分の心の迷いを表わしているようだった。

『そう……ごめんなさい。私にも解らないことね。時代のせいといってしまえばそれまでなのだろうけど、でもそれで消えてしまった命が浮かばれるとは思えないわ』

 母の言葉はイメツムの心の中にすんなりと入ってきた。

 何が正しいことなのかは分からない。けれど何が間違っているのかは分かる。母はそう言っているのだ。それを理解したイメツムは彼女を尊敬した。嘘偽りのないとても人間らしい言葉だと思った。

『少し気が楽になりました。母上、ありがとうございます』

『ふふ、役に立てたならよかったわ。でも――』

 箸を椀の上に置いた母は伏し目がちに呟いた。

『ずっと前から言おうと思っていたのだけれど、私のことを無理して母上なんて呼ぶ必要ないのよ? 私は武家の女ではないのだから』

『え……』

『普通にお母さんと呼んでくれないかしら?』

 イメツムは目をしばたかせて母の顔を見ていた。今まで母親の呼び方など意識した覚えなどなかった。しかし、敬っているというのは建前で自分は母親にどこか壁を作っていたのかもしれない。そう思えてイメツムは少し戸惑っていた。

『あぁ、別に私の勘違いならそれでいいのよ。ごめんなさい、ただの私の願望みたいなものかもしれないわね』

 母はそう言うと立ち上がりお椀を炊事場へと運んでいった。

『あ……あの、か……母さん』

 イメツムの言葉に母親は振り返り微笑んだ。

『なぁに?』

『その……今夜は……一緒に寝ていただいても……いいでしょうか』

 その夜、イメツムは母親の温もりを感じながら寝床へついた。

『かーごーめーかーごーめー、籠の中の鳥はー』

『母さん?』

『あら、覚えてない? あなたがもっと小さい頃、この歌が好きで寝る前はよく歌ってってせがんできたのよ。ふふっ』

 それは彼が物心つく前のことだ。イメツム自身はほとんど覚えていなかったが、母の歌声に心が安らいでいくのがわかった。

 静かな夜だった。月明かりが窓から淡く差し込み、虫の鳴き声が遠く聞こえる。イメツムが本当に何も考えずに眠りについたのは何年ぶりだったろう。

 それからさらに四年の歳月が流れイメツムが一五歳になった日の夕刻。

『では今日はもういい、母のもとへ行くがよい』

 歴代の天凪流伝承者が祀られている祠の中で、幻波はイメツムへそう告げた。

『え? しかし、月に一度の日にはまだいくらか日がありますが……』

『今日はよい』

 幻波は正座で向かい合うイメツムから視線を外し、横に置いてあった木箱から一振りの小刀を取り出した。

『元服の祝いだ』

 小刀を両手で受け取ったイメツムは、その重みを感じながら幻波へと尋ねた。

『この刀は?』

『天凪流伝承者に代々授けられる忍刀・徒華あだばなだ。肌身離さず持て』

『ありがとうございます。確かに受け取りました』

『よいか……いついかなる時も手放すでないぞ』

 光の無い漆黒の瞳でイメツムを見据えた幻波が念を押した。

 それから母のいる村へと向かったイメツムの心は珍しく弾んでいた。一五の誕生日を迎え、師に認められて徒華を貰い、母にも会いにいける。ここまで幸せなことが重なるなど初めての経験だった。日が沈んだ頃、イメツムは母の家へと着いた。到着が少し遅れてしまったのは、いつもよりも多くの獲物を狩っていたからだった。野兎に加え、鮎を二匹釣り、ついでに運よく見つけた松茸を採り意気揚々と家の戸を開いた。

『母さん』

 母はイメツムが急に来たことに少し驚いた顔をしていた。

『あら、今月はずいぶん早かったのね』

『師が今日は元服の祝いにと』

『そ、そう……そうよね。誕生日だものね』

 母は微笑みながらもイメツムの言葉に何故か浮かない顔をしていた。そのことに少し違和感を覚えたが、獲ってきた食材を自慢しだすと母はいつものように彼を褒めてくれた。

『じゃあ今日は母さんが腕によりをかけてご馳走を作るからね』

『母さん、私も手伝います』

 血生臭い忍とは違う、それはどこにでもいる普通の母と息子の営みだった。


〈そんな日々が漠然と続くと思っていたんだよねぇ。ぬふふふふ〉

〈でも人生そんなにうまくいくなんてことは、ありえないよ〉

〈そうそう! あれだけのことをしておいて自分だけが幸せになれると思ってた?〉

 耳のそばで何匹もの蚊が飛び回っているような不快な声音でそれは語りかけてくる。

 忌まわしい過去をまるで見てきたかのように……。

「イメツム!」

 霧の中から姿を現したフィアナが声を上げた。膝を突き、頭を抱え震えているイメツムを目の当たりにした彼女が急いで駆け寄る。

「イメツム! しっかりして!」

 いつもの冷静なイメツムはそこにはいなかった。

「違う……僕のせいじゃない。そうするしかなかったから……僕のせいじゃないんだ」

「何があったの……イメツム」

 別人のように怯えている少年の周りを見回したフィアナだったが、誰もおらず気配も感じられない。

「レプラクォーン達! いるなら出てきなさい! イメツムに何をしたのッ!?」

〈ぬふふ、ニセモノのお姫様のご登場だぁ!〉

〈知りたい? 聞きたい? この少年の悲しい哀しい昔話を〉

(くっ……こいつら頭の中に直接)

 フィアナの頭の中に流れてくるイメツムの過去。


 イメツムが一五歳の誕生日を迎えた日の夜のことだった。

『それじゃあ母さん、そろそろ里に戻ります』

『あら、今日は泊まっていかないの?』

『はい、明日も早朝から修行ですし、きっと夜には師から新たな任務を与えられると思います』

 夜更けの風が戸の隙間から入り込んできていた。

 外は風が強くなっているようで、木造の家は頼りなさそうにカタカタと音を立てている。

『それなら尚更、今夜は泊まっていきなさいよ。今から里へ戻ったらそれこそ遅くなってしまうわ』

『ですが……』

『ほらほら』

 母の手に押されるがまま家の中へと戻ったイメツムが頭をボリボリと掻く。

『はぁ、分かりました、分かりました。今宵は泊まっていくことにします』

 イメツムは観念したように両手を挙げて苦笑した。母は四年前と同じく、イメツムと一つの布団で寝るつもりだったが、さすがに一五にもなってそれは恥ずかしいと彼は丁重に断った。

『それじゃあ母さん、おやすみなさい』

『はい……おやすみ』


 闇の底、その一歩手前に意識を残して眠る。そんな習性のついていたイメツムは瞼の裏に紅く鋭い殺気を感じた瞬間に目を見開いた。同時に迫るギラつく白刃を、胸に抱えて持っていた忍刀・徒華で受け流す。

 イメツムはそのまま後方へと転がり壁を背に小刀を構える。

 闇に薄っすらと見える人影、その姿を正面に捉え口を開いた。

『なぜ……なぜ私を殺そうとするのですか。母さん!』

 闇に慣れた瞳がその人影の相貌を映し出す。それは紛れもなくイメツムの母だった。

 イメツムはここへ来た時から母が自分に殺気を抱いていたことに気づいていた。だから今日は泊まらずに帰ろうとしたのだ。しかし、その理由はまるでわかってはいない。

『答えてください! 何故ですか!』

 母はしばらくの沈黙の後、だらりとうな垂れて語りだした。

『幻波様の命令なの……あなたを殺さなければ私があの方に殺されてしまう』

『――嘘だ。師が何故、私を殺そうとするのですか。しかも母さんを利用してまで……』

『これが天凪流の元服式。あなたには情が残りすぎている。非情になれなければ忍としては欠陥品だと、そう言っていたわ』

 イメツムは言葉を失った。身体の力が一気に抜け、これまで信じていた全てが虚構の彼方へと消えていく。

 母は言いたくなどなかった。この世でたった一人、自分にとってかけがえのない存在に対して言ってはならない言葉。それでも言うしかなかった。

『私は死にたく……ないのよ。アンタなんか……産むんじゃなかった』

『そ、そうだ。共に逃げましょう……二人でどこか私たちを誰も知らない土地へ』

『伊賀は決して抜け忍を許さない。あなたもそれは知っているでしょう? 私を連れて逃げおおせるはずがない!』

 イメツムは解りきっていることを口にしてしまうほど混乱していた。

 そして、至極単純な答えに至った。

(自分が母に殺されれば済む話ではないか)

 自分の命を差し出せば母親は助かる。目の前で母が手に持つ刃をこの胸に受け入れれば、それだけで全てが丸く収まる。

 イメツムは覚悟を決めた。それが自分の運命で、自分の人生に未練もない。これから先、忍として多くの人間を殺めるであろう自分と、そんな世界とは無縁の母親、どちらの命が尊いものかなど考えるまでもなかった。

『生きたければ私を殺しなさい! でなければここから今すぐ去りなさいッ!!』

『母さん……いいのです。もう、ここで終わりです』

 イメツムの言葉に母は眉根を上げた。

 母はイメツムに自分の言葉を聞き入れてほしかった。しかし、そのどちらも選ばなかったイメツムの言葉に安堵してしまった自分が恐ろしかった。何をどうすればいいのか、もうわからなくなっていた。どんな言葉で焚き付けたところで息子は自分を怨みはしないし怒りもしない。

 イメツムの母は自ら命を絶つことも考えた。しかし、そんなことをして何になるのだろうか? 自分が自害したところで幻波の目を欺くことなどできるはずがない。

 わなわなと震えながら合口を正眼に構えた母の瞳から涙が溢れていた。ぽたぽたと垂れた水滴が袖に吸われて消えていく。その時、手に持っていた合口の刃、そこに刻まれた紋様が母の目に映った。その合口は昨日、幻波に手渡された物……。

(殺せ……殺せ……殺せ殺せ殺せ殺せコロセコロセコロセコロセ)

『なに……?』

 まるで見つめた紋様に意識が吸い込まれていくような感覚だった。震えていた腕が止まり、胸の奥から激烈な殺意が沸きあがってくる。そして彼女は息子へ向かって駆け出していた。

『あの紋様は……天凪流操心術〝偽心暗忌ぎしんあんき〟。そうか、師もぬかりがないな』

 イメツムは諦めたように、そして安堵したように一つ息を吐く。

 その紋様には強力な暗示のかかる仕掛けが施されていた。

 母が術に操られ自分を殺そうとしている。とても悲しいことだったが、イメツムにとっては都合が良かった。どんなに追い詰められても母は自分を本気で殺そうとはしていなかった。殺気も薄っぺらなものだとわかっていた。こうなっていなければ、今度は自分が母に言いたくもない暴言を言わなければならない。

 イメツムはさきほどの母と同じことを考えていた。

『重荷を背負わせてしまうことをお許しください。母さん……』

 そしてイメツムは目を伏せ最期の時を待った。走馬灯というのだろうか。母と過ごした数少ない想い出、辛かった修行、陽菜の顔、師の顔、すべてが瞼の裏を駆け抜けていった。

 しかし次の瞬間、イメツムは閉じていた目を見開いていた。迫る合口の切っ先がとても遅く見え、それが胸に突き刺さる直前――――。


 気がつくと母の首筋から血が噴き出し、イメツムの身体を赤々と染めていた。

 心と身体はまったく別の行動をとっていた。死を受け入れたはずの心とは裏腹に、イメツムの体は自分に危害を加えようとした〝敵〟の命を一寸の狂いもなく刈り取っていた。まるで飛ぶ蝿を叩き落とすかのようにごく自然に。

 くずおれた母親の身体をその胸で受け止め、立ち尽くしていたイメツムが信じられないものを見るように虚空を見つめる。

『よく……できたわね』

『……なんで……違う…………僕じゃない。こんなの……嘘だ』

 母はもたれ掛かったイメツムの顔の横で囁くように呟いた。

『かーごーめーかーごーめー、籠の中の鳥はー……いーつーいーつー……出会ーう、夜明けの晩につーるとかーめが滑っ……た、後ろの正面…………』

 最後の歌詞を云えぬまま母は息絶えていた。

『あぁ……う…………うああああああ!!』

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