弐拾弐ノ段
刃を通して伝わってくる臓物の動き、滴る血。ずるりと崩れ落ち倒れた場所に血の海が広がっていた。徐々に光を失っていく瞳が、刀を握る少年に訴えかける。そして最早しゃべることなど出来るはずがない骸が、悔恨の念を口にした。
『アンタなんか……産むんじゃなかった』
「――ッ!!」
悪夢にうなされ目覚めたイメツムの眼前で、フィアナが目を丸くしていた。突然起きたイメツムに驚いたのだろう。
「イメツム……大丈夫?」
「あぁ、拙はどれくらい気を失っていた?」
「半日くらい……。あなたやっぱり無理してたのね」
イメツムは焼け焦げたポンデ村、その外れにあった納屋で目を覚ました。フィアナがずっと付き添っていたのか、周りには水の入った桶と絞られた布が置かれていた。
「無理をしていたつもりはないのだがな」
「とにかく、もう少し休んでなさいよ」
「いや……もう問題ない。それよりオマルは平気なのか?」
「えぇ、今はコルンと外にいるわ」
二人が話しているとオマルが扉を開き小屋の中へ入ってきた。
「イメツム! 目覚ましたんでつか!」
パァっと華やいだ笑顔で駆け寄ってきたオマルがイメツムへと抱きついた。
「お、おい……」
懐へ飛び込んできたオマルにイメツムが困った表情で頬を掻く。
「急に倒れたりしたから心配したでつよぉ」
イメツムが対応に困っていると、フィアナがオマルのフードを掴み引き離した。
「はいはい、心配だったのはわかったから休ませてあげなさい」
「むぅ……」
イメツムから離れたオマルが口を尖らせてジト目でフィアナを睨む。
「な、なによ?」
「フィアナは僕がイメツムと仲良くしようとするといつも邪魔しまつね」
「そんなことないわよ」
「ありまつ」「ないわよ」「ありまつ」
そんな二人の押し問答を傍目で見ながらイメツムは苦笑した。よくよく考えてみれば、他人がここまで自分の身を案じてくれたことなど今までなかった。師・幻波は厳格な人間であり、里の仲間からは同じ忍といえど、伊賀流とはまったく扱いの違う天凪流の後継者として、奇異の目で見られていたので友と呼べる者もいなかった。そもそも幻波から親しい人間を作ることを禁じられ、孤独に耐えながら生きてきたのだから。
「ありがとう」
自然と口から言葉が出ていた。イメツムの綻んだ顔に、いがみ合っていたフィアナとオマルが目をぱちくりさせる。
「急にどうしたのよ?」
「ん? 何かおかしかったか?」
「別におかしくないけど、いつものあなただったら『すまぬ(キリッ)』とか言ってたのに……ちょっと意外だったなって」
イメツムの顔真似をしながら目の端を指で吊り上げてフィアナがおどけてみせた。言われて気づいたことだが、イメツムが感謝の意を言葉にしたのはどれくらいぶりだったろうか。
六年前、修行と食料の調達として幻波に猪狩りを命じられた時のこと。
イメツムは山中を数日間彷徨いながら獲物を探していた。幻波からは仕留めるまで里に戻ってくるなと言われていたが、一〇歳に満たない子供で忍として未熟だった彼にとって、野生の獣を捕らえることは困難を極めた。空腹と疲労からふらつく足で深い霧に包まれた獣道を歩いていたイメツムは、茂みから突如現れた野犬の群れに襲われた。必死に逃げようと走ったイメツムだったが、不注意で足を踏み外し崖から落ちてしまった。オウギュスト山脈と似たような状況だったが、イメツムを助けたのは麓の村から山菜をとりにきていたある母娘だった。
川の中州で倒れていたイメツムを村まで運び介抱をしてくれた母の
『何もないけど、ゆっくりしていってね』
優しい眼差しと声でイメツムに告げた美冬は、そのまま畑仕事へと行き、家には陽菜とイメツムが残された。
『ねぇ、お兄ちゃん名前なんていうの?』
イメツムよりもさらに幼かった陽菜が無垢な笑顔を向けて尋ねてきた。
『それは…………言えないんだ』
その言葉に陽菜は小首を傾げる。
陽菜はイメツムの少し困った顔を見ると、幼いなりに察したのかそれ以上何も訊いてはこなかった。そして家の隅に腰をおろし、鼻歌を唄いながら
『笠か……そんなもの編めるんだな。まだ小さいのに』
『えへへ、おっかさんが教えてくれたの。おとっつぁんが戦で死んじゃって、おっかさん大変だから』
笠を作って町まで持っていき売る。そうして稼いだ銭で食べ物を買う。陽菜はそんな生活を一年続けてきたと語った。真冬の寒い季節などは笠がよく売れるのだと話し、貧しさなど感じさせない晴れやかな笑顔をイメツムに見せた。
『拙も物心ついた時にはもう父上はいなかった』
『そっかぁ、戦はやく終わるといいのにね。どうして皆仲良くできないんだろう?』
『わからない……でも来るといいな、戦のない天下泰平の世が』
それから三日間、イメツムは美冬と陽菜の家で過ごした。その理由は崖から落ちた際に足首を捻りまともに歩けなかったからだ。その間、イメツムは陽菜に魚の釣り方や草笛の鳴らし方などを教えた。草笛に関しては結局上手く鳴らせなかったが、練習すればそのうちできるようになるだろうと思っていた。
そしてイメツムは三日目の夜に山へと出向き、猪を狩ることに成功した。その猪の肉を気づかれないように美冬と陽菜の家の前に置くと、別れも告げずに里へと戻っていった。幻波には当然厳しい叱責を受けたが、猪を譲ったことを正直に話した後は何も言われなかった。
それから二年後の天正六年。
イメツムは幻波の命を受け伊賀忍である下山甲斐の内偵を行っていた。下山は伊賀を裏切り織田軍に情報を漏らしているらしく、その密会場所へ潜入し確たる証拠を掴むことが任務だった。尾行をはじめてから数週間は特に何事もなく過ぎていった。
そしてイメツムが一度里へと戻り、幻波の指示を仰ぐことを決めた日の夜だった。雪の降る夜の町を屋根伝いに駆けていると、路上に倒れている人影が目に入った。
『辻斬りか……』
戦国の世では特に珍しいことではなかった。念のため遺体の確認をしようと、周囲を警戒しながら近づいたイメツムは言葉を失った。
『ひ……な…………?』
まだ微かに息のあったその人物は笠売りの少女・陽菜だった。辺りに広がる真紅の血が、深深と降り積もる雪に滲んでいた。もはや虫の息だった陽菜は、その虚ろな瞳の中にイメツムを映すと、以前と同じ無垢な笑顔で口を開いた。
『あ……、お兄ちゃ……ん。猪ありがとう……ずっと…………お礼言いたかったの』
『もういい……もうしゃべるな、陽菜』
『あとね……私、草笛……吹ける…………ように……なっ――』
礼の言葉を言うべきなのは自分の方だ。そう告げる間もなく陽菜は目を閉じ動かなくなった。
イメツムが真実を知ることはなかったが、笠を売りに町まで出てきた帰り道で、悲運にも辻斬りに出会ったしまった陽菜は、この二年間ずっとイメツムのことを探していた。当然、イメツムの名も住んでいる場所も知らなかった。町に出た際にそれとなく同年代の子供に聞いてみたりした程度だったのだが、町を歩く少年を見かけると自然と目で追ってしまう、そんな日々を送っていた。そしてその願いが叶うと同時にその生涯を終えたのだ。
『陽菜……なぜ笑っているのだ。こんな死に方で――――悔いしか残らぬではないか』
陽菜の亡骸を抱きしめながら雪の夜にイメツムの慟哭が響き渡った。
『陽菜……救ってやれなくてすまぬ。名前も感謝の言葉もまともに言えなかった拙を許してくれ』
イメツムは陽菜を抱きかかえて近くの木へと運んだ。陽菜の背を木の幹に預けるようにして座らせた後、羽織っていた外套を体へとかけた。
『ありがとう…………そして、さようなら』
そう言い残しイメツムは宵闇の奥へと走り去った。
美冬はどうなるのだろうか。帰ることのない娘を待つ母の気持ちを考えたイメツムだったが、自分にできることなど何一つないと解っていた。陽菜の亡骸を届けようかとも考えた。しかし、正直なところ怖かった。絶望する美冬を見ることと、自分が非難されるのではないかと思った時に、恐ろしくなった彼は逃げだしたのだ。
その日以降、イメツムはこれまで以上の厳しい修行を己に課すようになった。
『強くならなくてはならない……弱き者を守れる強さがいるのだ』
それからさらに三年の歳月が流れ、イメツムは愚直なまでに求めた強さが忍の範疇を超えていたことに自分でも気づいていなかった。戦国最強の武人が僅か一五歳の少年だったなどと誰が信じるだろうか。
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