漆ノ段
風の皇国ラ・シルの第一皇女フィアナ・ファラリアス。彼女には瓜二つの少女が一人、騎士として仕えていた。元来、騎士の家系ではなかったが、その容姿から皇女のスケープゴートとして貧民街から連れてこられた少女。ここでは影の少女と呼ぶことにしよう。
影の少女は生まれてからずっと自分が何故この世に生を受けたのか、その意味を神に問い続けていた。そして皇女に仕えることになったその日から、生きる目的を得たことが嬉しかった。
この人の為に私は生まれ、今まで生かされてきたのだと。
騎士の修行を積み、皇女の影として皇族の振る舞い、作法とあらゆる教育を受けた。
苦だと思わなかった。両親は自分が皇女に仕えることになったその日に、金貨が大量に入った袋を手に行商として街を離れていったが、それで彼らが幸せに生きていけるなら構わないと影の少女は思った。そして何より影の少女にとって、支えになっていたことが一つあった。それが皇女フィアナの存在だ。
皇女は影として仕えていた少女に優しく、それこそ姉妹のように接してくれた。辛いことがあるといつも温かい紅茶を淹れ、悩みを聞いてくれた。
目の前の同じ顔をした少女が、皇女であることを時に忘れてしまうほど慕い、そして絆を深め合っていった。
『フィアナ皇女、何か御用でしょうか?』
『突然呼び出してごめんなさいね。あなたにお願いしたいことがあるの』
『と、いいますと?』
『今日一日で構わないの。私の代わりを務めてくれないかしら? 私どうしても街を見てみたいのよ』
『しかし、本日はドレイク王国の王子を迎えた皇室行事の晩餐会がございます』
『私はあのような退屈事は好きではありません。誰も私のことなど見ていない……私の機嫌を伺うばかりで、誰も本音で語りかけてくることがないのよ』
影の少女はこの時の皇女の顔をよく憶えている。
皇女という記号に押し込められた無為な存在。それはそのまま、フィアナ・ファラリアスという個人を否定されているに等しいことだった。
立場こそ違えど、かつての自分と同じ境遇の人間がいる。だからその願いを叶えてあげたいと思ったことは、影の少女からしてみれば当然のことだったのかもしれない。
『わかりました……。本日だけ私が皇女の代わりを務めさせていただきます』
しかし、それが全ての過ちだった――。
皇女の騎士である影の少女に成り代わったフィアナ。
彼女はその日、死んだ。殺されたのだ。
貴族社会主義の意識が色濃い皇国では、皇女の側近騎士が貧民街出身であることに対しての反発心と妬み嫉みが強い。影の少女自身、貴族主義の精神を持つ同じ騎士仲間から謂れのない迫害を受けることが多々あった。そして、その悪意が暗殺という形でその日起きてしまった。その事を知る者は、皇女に成り代わっていた影の少女と一部の上層部のみ。
皇女の影、その騎士を殺した罪は今も闇に葬られたままになっている。
「そう、あの時……私が皇女の願いを叶えようなどと自惚れなければ、皇女を殺したのは私みたいなものよ」
何も聞かずに耳を傾けていたイメツムは、俯いたままの彼女にたった一言だけ尋ねた。
「お主の本当の名は?」
その問いに彼女は顔を上げ答える。
「私は風の皇国ラ・シル第一皇女フィアナ・ファラリアス。目的を果たすまではこの名を捨てるつもりはないわ」
その真っ直ぐな瞳と言葉を聞いたイメツムは、自分の中で何かが一瞬音を立てた。そして無意識に口角が上がり笑みが零れていた。
「フッ、ならば拙のするべきことに変わりはないな」
「お互い本当の名前を知らないなんて、変な感じね」
「ハハハッ! 違いない」
心から笑ったことなど何年振りだろうか。
イメツムは自分の中にまだこんな感情が残っているとは思ってもいなかった。忍としての未熟さに呆れながらも、それが何故か心地良かった。
「うっ……!」
「どうした? フィアナ」
「大丈夫、頭痛がするだけだから。昔のことを思い出そうとすると、ちょっとね」
「……そうか、無理するなよ」
フィアナは指笛を鳴らすと、声を張り上げて呼びかける。
「コルーン! コルーン! お願い……戻ってきて」
「崖から落ちる時に片目をやられていた。下流の方へ流されているはずだが、生きているかまでは……」
川の深さ的には落ちても地面に激突するほど浅くはなかった。近辺に死骸がないところを見ると、川に落ちたことはまず間違いない。今の状況で二人がこの場から生還するにはどうしてもドローミの足が必要だった。しかし必死に呼びかける声も空しく、コルンが姿を現すことがないまま二時間ほどが経った。
「歩ける?」
「止血はした。問題ない」
イメツムはフィアナが羽織っていたマントを裂き包帯として使っていた。それでも動く度に焼けるような痛みが走る。正直な話、熱を帯びた身体を動かしていたのは精神力だけだった。
(せめて印さえ組めればな……)
イメツムの術には大きく分けて二つの種類がある。
一つは両手で印を組み発動させる遁術。もう一つは片手の印でも発動できる法術。
遁術は火、水、風、雷といった自然の力を利用した主に攻撃用の忍術で、法術は占星術、錬金術、風水術を源流とした防御用の術である。
つまりイメツムはもう遁術を使うことができない状態にあった。
「でも……おかしいわね。時間的にガドラフ達が近くに来ていても、おかしくないはずなのに」
「山賊のアジトの奥にいた者の殺気……只者ではなかった。足止めを食っているのかもしれんな。術の威力も天凪流に劣らぬものだった」
イメツムやコルンが受けた風の魔法、人体を容易く切り裂くほど圧縮された空気の刃は術者の実力の高さを物語っていた。
(最悪、ガドラフ達は殺されているかもしれんな。それほど禍々しい気だった)
「ッ!?」
木の枝がパキリと折れる音がした。林の奥から何かが近づいてくる。
二人の間に緊張が走った。腰に下げた剣に手をかけフィアナが臨戦態勢に入った。
霧の中からゆっくりと現れた大きな影。それは巨躯の狼・コルンだった。
「コルン! 無事だったのね!」
小走りでコルンに近づいたフィアナは、嬉しそうにその鼻先へ抱きついた。
コルンも主人に会えた喜びから喉を鳴らし彼女の頬を舐める。
「おぉ、お前がこのワン公の飼い主でつか?」
「だ、誰!?」
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