弐の段

 先ほどまでの争いなど無かったことのように、穏やかな風が木々の葉を揺らしている。

 樹に背を預け、空を見上げていた黒装束の男は考えていた。本能寺でのこと、信長のこと、そしてこの見知らぬ大地は何処なのだと。

「私は風の皇国ラ・シルの第一皇女、フィアナ・ファラリアス。あなた名前は?」

 凛とした表情と声音で問いかけてきた少女に男は答えた。

「忍に名など無い。どうしても呼びたければ已滅無いめつむとでも呼べ」

「シノビ? イメ……ツム? 変わった名前ね」

「仏教の言葉で『過去に滅したもの』という意味だ」

 フィアナは顎に指を当て、何ごとかを考えると再び口を開いた。

「仏教ってなによ。イメツムはひょっとして異界人なのかしら?」

「異人はお主達であろう。その髪の色は海を越えた先にある異国の者達の特徴だ」

「……なるほど、その様子だとやっぱり迷い込んだみたいね」

 木陰に置いてあった鞄から取り出した紙を、イメツムの前で広げたフィアナは一点を指して説明を始めた。その紙は羊皮紙で作られた地図で、イメツムには読めない文字で記されていた。

「私の国である風の皇国ラ・シル、そして火の王国ドレイク、水の神国オンディーヌ、地の帝国グノームがそれぞれアーステアを支配しているの。でもこの世界であなたのような黒い瞳の人間なんて聞いたことがないわ」

「『あーすてあ』? それがこの大地の名か」

 イメツムは本能寺で信長と対峙した際、天凪流忍術の奥義が信長の思わぬ反撃で発動を阻害された。その際に消し去るはずの信長から、術の座標と効果が乖離し次元の門が開いてしまった。そして異世界であるこのアーステアに迷い込んだ。その事実をイメツムはまだ理解できていなかった。

 イメツムはフィアナからこのアーステアのこと、その歴史に関して軽く説明を受けた。

「んー……、にわかには信じ難い話だな」

 夕焼けの空に浮かぶ三つの月を眺めながらイメツムは嘆息する。

「イメツム、あなた行くあてが無いのなら私の護衛として来ない?」

 白銀の鎧に身を包んだフィアナが髪を結いながら言う。女性用のフリューテッドアーマーはフィアナの機動力を活かすために造られているのか、鋼の部分が極力削られ皇族らしい雅やかな彫り込みがなされていた。

「護衛? 誰かに命でも狙われているのか?」

「特定の誰かに……というわけではないわ」

 フィアナは地図に記してある自国を指し、そこから道程をなぞるように指を動かした。

「まず山道の険しいオウギュスト山脈、ここは山賊の縄張りになっている。次のアジダハカの森は魔物こそ少ないけれど、ドラゴンも出るし、グノーム帝国の国境線沿いにあるから彼らに見つかると面倒ね」

「『どぅらごん』とは何だ」

「竜よ、おっきな竜」

「おぉ、この世界では龍が実在するのか。是非見てみたい」

 どれほど危険なのかイメツムには想像出来るわけもなかったが、ここで一つの疑問が浮かぶ。

「仮にもお主は一国の姫君なのだろう? 危険なのであれば、軍勢を率いて向かえばよかろう」

 イメツムの言葉を聞き、フィアナは改めて彼が異世界人なのだと理解させられた。

「そのうち解ることだけれど、この世界において大軍を率いて戦うことは無意味よ」

「何故だ? 戦は数で勝る方が有利なのは必定だろう」

「魔物相手ならね。でも騎士や魔導士には通じないし、無駄な犠牲が増えるだけだわ」

 いまいち要領を得ないフィアナの回答にイメツムは小首を傾げたが、「そのうち解る」という彼女の言葉を受け入れ話題を切り替えた。

「それで、拙がお主に協力して得られる対価はなんなのだ?」

「そうね……あなた元の世界に帰りたいのでしょう?」

 イメツムは無言で頷く。

「ラ・シルにはないけれど、これから向かうドレイクは歴史の古い国なのよ。だから異世界に関する書物や魔術が多分あるわ。そこに帰れる手掛かりがある……かもしれない」

 どこにその根拠があるのか、とイメツムは彼女を訝しむ。

「な、なによ」

「随分と他力本願な対価だな……」

「情報料よ! 情報料! この世界のこと何も知らないあなたにしたら十分でしょ! それにアナタ、私の裸見たじゃない!」

 頬を紅く染めながら取り繕うようにフィアナは訴えた。

「ふむ、不可抗力とはいえ女人を辱しめた罪は確かに重いな」

「じょ、条件を飲めば、その罪を帳消しにしてあげるわ……ってぇ――!? なんで脱いでるのよ!!」

 イメツムは黒頭巾で顔を隠したまま、着物を全て脱ぎ去っていた。

「どうだ。これで対等だろう」

「そういう問題じゃないわよ! はやくソレ隠しなさいよぉ!」

 両手で顔を覆いながらも、指の隙間からフィアナはソレを凝視する。

(お、男の人の……初めて見ちゃったけど、あんなに大きいモノなの?)

「やれやれ、フリチンぐらいで大袈裟な娘だ」

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