壱の段

(暗い……それに冷たい、耳鳴りも酷いな。そうか……死んだのか)

 雲を抜け、風を裂いて広がる青空の中を落ちていく。高々度による減圧と外気温の低さで失っていた意識を取り戻し、黒装束の男は目を見開いた。

「これは!? 空ッ!? なぜ!?」

 考えのまとまらない内に抜けた雲の先が視界に入る。鬱蒼と茂る緑の木々が広がる大地が目前へと迫りつつあった。

(この高さ、速度で墜ちれば絶命必死! しからばッ!)

 男は印を組むと大地に向かって両腕を伸ばした。

「天凪流風遁術〝雲心月勢うんしんげっせい〟!!」

 両腕から竜巻のように巻き起こる風。その威力を以って落下速度を落とすことで致命傷を避ける。そのはずだった――。

「なッ!?」

 風は男の予測を遙かに超えた威力を発揮し、身体を浮かすどころか再び空へ巻き上げた。

 体勢は完全に崩れ、上か下かも分からないほどの強風の中で男は再び意識を失っていた。


 高い水柱が水面から立ち昇り、その後にスコールのような雨が辺り一面に降り注いだ。遙か上空から落下してきた〝それ〟に驚いた鳥や獣といった生き物たちは、その水柱を中心に森の奥へと散っていった。

「ぶっはぁ! ぜぇ……ぜぇぜぇ、死ぬかと思った」

 水面から勢いよく顔を出した男は口布を外しながら息を荒げる。そして、空へ打ち上げられた水飛沫がすべて落ち切った時、男は目の前の人影にようやく気付いた。

 夕日に照らされた稲穂のように輝く金色の髪に、透き通るような白くきめ細やかな肌。まるで絵画の中から現実へと出てきたかのような、麗しい少女の姿がそこにはあった。

「う……美しい。ここは極楽浄土であったか」

「な……なっ――」

 一糸纏わぬ姿で湖畔に佇む少女は、口をぱくぱくさせながら落ちてきた男を見つめている。

「くっ、拙はやはり死んだのか……師匠お許しください。仇を討つこと叶いませんでした」

 男はそう言いながら拳を強く握り締めた。

「不埒ものッ!」

 金髪の少女は木に立てかけていた剣を手に取ると、男に向かって猛然と斬りかかっていった。

「へ?」

「ハァ――ッ!!」

 その細腕からは想像できないほど鋭い斬撃で水面を裂いた少女。その剣を紙一重で男は躱す。飛び散り、煌めく水飛沫の間で二人は視線を交錯させた。

「貴様ッ! どこの国の者だ!」

「お、落ち着け! 拙は怪しい者ではない。というか服を着ろ!」

 男は少女から次々と繰り出される斬撃、刺突を小刀であしらう。

(こいつ、目も開かずに私の剣を!)

 森の奥から聞こえた声に気付いた少女は、後方へ飛び退き木の枝に吊るしていた白マントをすばやく羽織った。

「姫! 何事です!?」

 ガシャガシャと音を立てて現れた男は、重厚な鎧に身を包んだ騎士だった。端整な顔立ち、少女と同じ金色の髪と瞳に口元から顎にかけて薄っすら切り傷が見える。ガドラフと呼ばれたその男の後ろから、仲間らしき騎士がさらに四人ほどついて来ていた。

「フィアナ姫、こやつは一体……?」

「急に空から落ちてきたのよ。見たこともない瞳の色をしている。それにかなりの手練れよ」

「漆黒の瞳……魔族かもしれませんな」

 フィアナと呼ばれた少女とガドラフ、その他四人の騎士たちもすべて金色の髪と瞳をしていた。そんな彼女たちを見ながら黒装束の男は思った。

(師匠に聞いたことがある。確か異人は髪が黄金色だと)

「おい、お主たち……ここは何処だ?」

「ここは〝風の皇国ラ・シル〟の領地。貴公こそ何処から参られた」

 ガドラフは剣の切っ先を黒装束の男へ向けながら問い質した。

「拙は日ノ本の国の忍だ。理由は分からんが気が付いたらここにいたのだ」

「ヒノモト? シノビ? 知らんな。とにかく、姫の命により貴公を拘束する!」

 ガドラフを中心に四人の騎士たちが一斉に剣を鞘から抜き放つ。

「話の分からない奴らだ」

 そう小さく呟くと、立ち塞がる一人目の騎士の足を蹴りで払い落とし、その勢いのまま二人目を組み伏せる。三人目の騎士には苦無を投げ剣で弾かせた後、顔面に膝蹴りを浴びせた。

「ちょこまかとッ!」

 四人目の騎士が背後から斬りかかりにきたものの、男は微動だにせず腕に仕込んだ鉄甲で受け止め腹部へ拳を打ち込んだ。鎧の上からにも関わらず、その衝撃は内部へと伝わり騎士は悶絶し倒れこんだ。

「……動きが遅すぎるぞ。手を抜いておるのか?」

「き、貴様ァ!」

 倒れた四人の騎士たちを横目に、激昂したガドラフが剣を振り上げた時――。

 目の前にいたはずの黒装束の男は一瞬にして背後に回り込み、ガドラフの首元に白刃をあてながら囁いた。

「無益な殺生は好まぬ。だが、これ以上続けるのなら」

「ぐっ……」

 先ほど倒れた四人の騎士が二人を包囲する形で機を窺っている。

 首の皮に刃が食い込み血が伝う。このまま刀を引けば血しぶきが辺り一帯を赤々と染めるだろう。それを止めたのは少女の一声だった。

「そこまでよ! 皆の者、剣を納めなさい」

 フィアナの命令に戸惑いながらも、騎士たちはその場から下がり鞘に剣を納めた。

 その様子を一瞥し、ガドラフを解放した黒装束の男は小さく安堵の溜め息を吐く。

「姫、何故止めたのですか!?」

「彼がその気だったなら、あなた達は全員殺されていたわ。でもそうしなかった……、悪い人ではないと思う」

「しかしッ!」

 ガドラフが口にしかけた反論をフィアナは鋭い眼つきで制した。

「彼と二人きりで話がしたい。皆は〝ドローミ〟へ戻っていなさい」

「あんな得体の知れぬ輩と話など、危険ですぞ!」

「ガドラフ! 下がりなさい」

 小さな怒気の込められたフィアナの言葉に萎縮し、「お気をつけて」と言い残し、ガドラフは騎士達を引き連れて来た道を引き返していった。

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