第4話 名前と記憶をめぐる冒険
メルの姿は帰りのバスでいつの間にか消えてしまったので、別に喫茶店に寄って、傘を返そうという約束がまとまったわけではない。それでも、僕とメルは次の日もやっぱり、長距離バスに乗っていた。
バスは比較的空いているから、僕はメルとは反対側の、窓際の席に座っている。実をいうと、乗ったときに隣に座ろうとしたら、あのブルーの瞳で怪訝そうに見つめられたのだ。
やっぱり僕なんかお呼びじゃないようで、女の子に対する図々しい振る舞いをいたく反省するきっかけとなった。僕は無言のまま、メルから顔を背けるように窓の外を眺めている。
雨は夕べのうちにすっかり止んで、窓から見る山々はしっとりとした緑に濡れている。ただ、昨日まで澄みきっていた冷たそうな川は、荒れ狂う濁流に変わっていた。
メルが、微かな声でつぶやくのが聞こえた。
「ごめんなさい」
「いや、そんな」
何を謝っているのか分からないけど、一応は返事をした。気にはかけてくれているのだから、応えなければならない。
でも、それっきりメルは何も言わなかった。トンネルを抜けるときに、反対側の窓を見やってみると、憂いに満ちた顔が浮かんでいた。
町に着いたところで、僕とメルは真っ先に、昨日の喫茶店に向かった。さすがにメルの大食らいが恥ずかしかったので、僕は傘を帰すと、さっさと店を出た。メルはといえば、ここでの食事に未練はなかったらしい。ただ、すぐに僕の後を追いかけてきて言った。
「いいところですね」
10年も離れていると、そんな気はしない。この町で何があって、誰と友達だったのかということさえも、記憶の中ではっきりできなくなっている。それでも、こう答えないわけにはいかない。
「そうだね」
雨の後だからだろうか、街中を行き交う人は少ない。僕は思い切ってカメラを出し、紅柄格子や、町屋の間の高い屋根がついた「うだつ」と呼ばれる防火壁、そして雨に濡れた緑に包まれた城などを撮りまくった。
だいたい、夏休みもそろそろ終わる。もう、ここに来ることもないだろう。
そう思っていたときに、メルがふと口にしたことがある。
「昨日、誰かが呼んでいませんでしたか?」
やはり、メルも聞いていたのだ。記憶を引き算してみると、店に残っていたあの少女しか考えられない。
でも、どうしても心当たりが思い浮かべられないのだ。
「いや……どうかな」
ごまかしてはみたけど、メルには通用しなかった。僕の隣に立って、低い声で囁く。
「あなたを覚えてくれている人なんですよ」
そう言われると、10年前の記憶を手繰らなければ済まされないような気になってくる。
メルの少ない口数の裏には、言葉にすると消えてしまう深い思いがあるのだ。
たった3日だったけど、僕にもそこらへんのことは何となく分かってきていた。
だから、僕がまっすぐに向かったのは小学校のグラウンドだった。探るとすれば、もうそこしかない。
立ち並ぶ町屋の端に教会のような建物があって、その体育館は濁流に横腹を晒している。これが、僕の通っていた小学校だ。でも、そこにいた人たちの顔はやはり思い出せない。
先生も、友達も。
「無理だ……もう帰ろう」
写真も撮ったし、傘も返した。用が済んだところに、長居する必要はない。
だが、メルは納得しなかった。
「誰かいるはずなんです、あなたともう一度つながりたいと思っている人が」
僕をずっと見据えてそう言うなり、静かな声で歌い始めた。
人は誰もが、眼差しの間で生きてる
愛や尊敬、あるいは憎しみや軽蔑
あなたを慈しもうという人
あるいは傷つけようとする人
でも、どちらもかけがえのない人
だって、あなたをそこに認めてるから
人は誰もが、記憶の中で生きてる
懐かしさ、あるいは忌まわしさ
あなたを覚えていようとする人
忘れてしまおうとする人
でも、どちらもかけがえのない人
だって、あなたを心に留めているから
見られもしない、覚えられもしない
それは、この世にないのと同じ
そこにいても、あなたはいない
どこにいても、あなたはいない
ないものを、心には留められない
だから、見て! 私を、あなたを
僕の記憶の中で、音と影が像を結び始める。
10年前。
小学2年生。
トウヤ君。
ミツヤ……。
ミツヤ?
「統也くん? 小平統也くん?」
昨日の声が、頭の中に蘇る。
いや、違う。確かに僕を呼んでいる。
辺りを見渡すと、じっとりと雨に濡れたグラウンドの中に、小柄な影が佇んでいた。その背格好は、昨日、あの喫茶店で見た姿によく似ている。
「ミツヤ……三屋?」
記憶の中に、小さな女の子が姿を現す。
僕の身体の中に、昨日の雷が轟いた。あの大雨の音が、僕を10年前に引き戻す。
「三屋……
そのとき、全てが頭の中でつながった。
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