第3話 雨とナポリタンをめぐる冒険
目的は達したのでもう、この夏休みにすることは何もないはずだった。それなのに、僕は再び故郷に向かうバスに乗っている。
隣にいるのは、あのメル・アイヴィーだ。
今度は、向こうから挨拶する。
「どうも」
「……どうも」
やっぱり、僕のほうは見ない。窓の外を見ている。
外はちょっと曇りがちで、昨日の青空が嘘のようだ。バスが故郷の町へと近づくにつれて、山々の緑が暗く沈黙し、川を白く噛む瀬が冷たく波立つのが感じられる。
トンネルに入るたびに窓に映るメルの顔も、心なしか厳しく見える。
「今日も撮影ですか」
「え……ええ」
今日は、僕のほうが答えるのにためらっていた。何だか、メルに会うためにわざわざバスに乗ったような気がしていたからだ。
いや、期待がなかったといえば、嘘になる。でも、彼女がもくてきだったわけじゃない、絶対に。
何か、何かが心の中に引っかかっていて、それが僕をバスへと駆り立てたのだ。
それが何かは、自分でもよく分からないけど。
バスを降りた僕は、頭にぽつんと当たるものに気が付いた。
「雨……降ってきたんじゃないですか」
「そうですね」
傘を持ってこなかった。本格的に降ってくる前に、撮るものを撮って帰らなくてはならない。
タイムリミットは、2時間。
僕は街中へと歩きだそうとして、はたと気付く。
……メルは、どうするんだろう。
昨日は不案内な土地だったから、バスの終点まで来てしまった。でも、今日もここまでやってきたのはどういうわけだろうか。
だが、その考える時間の無駄を、メルは省いてくれた。
「もう行きませんか、小平さん」
何のつもりか、メルは僕とこの日を過ごそうとしているようだった。
昨日は昼をまたいでしまったので、僕は僕なりに考えた。被写体を探すのは後回しにて、先に胃の腑を満たすことにしたのだ。
そして、今度こそ、支払いは僕がするつもりだった。
デートではないのだから、最初から割り勘だと分かっていればそれだけ気が楽なはずなのだが、僕は半分、意地になっていた。
僕について歩くメルを何度となく振り返りながら、僕はふと思いついた。
……メジャーなところだからダメなんだ!
そこで僕は、メルに声をかけた。
「ちょっと早いけど、何か食べていこうよ」
そう言うなり有無を言わさず、目についた喫茶店の扉を開けた。
その判断は、半分だけ正解だった。
店はガラガラに空いていて、隅っこのテーブルに少年がひとり、ぽつねんと座っているだけだった。これなら、昨日みたいにメルがこっそり、先に勘定を澄ますことはできない。
僕が半分だけ間違えたのは、全く別のことだった。
僕たちが最初に頼んだのは、楕円形の鉄板に卵でとじたトマトソース味のパスタだった。
いわゆる、名古屋系のスパゲティナポリタンだったが、それがよほど気に言ったのか、メルはもう1皿追加したのである。
「え……」
メルの食欲は止むことを知らなかった。鶏を辛い味噌で和えて焼いたいわゆる「ケイチャン」が数皿消え、「漬物ステーキ」が焼かれる。
いつの間にかテーブルの上は、きっと大人が宴会をやった後の居酒屋というのはこうなんだろうなという様相を呈していた。
店の外ですさまじい雷の音がとどろいたかと思うと、窓ガラスを打ち叩く大粒の雨が降り始める。
……もう、僕が奢れる額じゃなくなっていた。
だが、この店の中にはもうひとつ、更なる……いや、正真正銘の修羅場が展開されているテーブルがあった。
隅っこのテーブルは待ち合わせの場所だったらしく、そこにはいつの間にか1人の少女がやってきていた。
2人はすぐ出かけるつもりだったんだろうけど、この雨で足止めを食ってしまったみたいだった。ところが、店の扉がいきなり開けられたかと思うと、土砂降りの雨の中から別の少女が現れたのだ。
修羅場というのは、こういうことだ。
正直、これ以上いたたまれない空間はないのだが、この雨では出ていきようがない。その音も凄まじくて、小声で揉めている声はよく聞こえないし、聞きたくもない。
やがて、1人が店の扉を開けて飛び出していった。雨はまだ止んでいない。少年と少女は、気まずそうにうつむいている。
その沈黙のなかで、微かな歌声が響き始めた。
誰かが誰かの心の中にいて
他の人の心の中にもいるとき
その誰かさんはどうしたらいい?
人の心の中はそんなに広くなくて
本当に大切な誰かひとりぶんしかない
ひとりの人はふたりになれないのに
メルの声は、どこか怒りを孕んでいた。こんな風に歌っていないと、自分自身が弾けてしまいそうなくらいの。
しばしの間、雨の音だけが店の中を満たしていたが、やがて、少年は雨の中へと飛び出していった。
残された少女がつぶやいた。
「あなた、バカね」
その声に惹かれて、僕は思わず、その悄然とした後ろ姿に向けてシャッターを切っていた。
食後のプリンを食べ終わったメルは、もう勘定を済ませて僕を待っている。僕も代金をテーブルの上に置いて立ち上がった。雨に紛れて泣く、少女のすすり泣きに耐えられなかったのだ。
店を出る時、ご主人が傘を2本、貸してくれた。
「今度来る時でいいから」
その親切な一言に気をとられたせいか、店の中で少女がつぶやいたらしい声はよく聞き取れなかった。
トウヤくん、と言っていたような気もする。
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