第190話

「だから、私には時間がなくて…でも、佑樹さんとやりたいことがあるから、協力して欲しいのです」

「なんですか、なんで村瀬さんに協力しなければならないのです」

「だって…私のこと好きなんでしょ」


 汀怜奈のあまりにも突然な発言に佑樹も咳き込む。


「ち、ちょっと待ってください。なんで僕が村瀬さんのことが好きなんですか」


 声を荒立てる佑樹にも、汀怜奈は平然としている。


「家族以上に一緒にいたいとおっしゃってたわ」


 汀怜奈の言葉に、彼はさらに気色ばんで声を上げた。


「何度も言わせないでくださいよ。自分が好きだったのは先輩であって、村瀬汀怜奈ではないんですから」


 それでも汀怜奈は平然として、佑樹に近づいていく。そして、しなやかな美しい指で、無精ひげの生えた佑樹の顎をとらえた。


「あなたの口から聞こえる言葉は信じません。あなたの胸から聞こえてくる声を私は信じます」


 そう言うと、佑樹の顎を引き寄せてその唇にキスをした。

 その甘美でやわらかな汀怜奈の唇を感じた瞬間に、佑樹はもはや廃人も同然、抵抗する気力も力も失っていた。


「いい?一度しか言いませんからよく聞いてくださいね。天才ギタリスタ村瀬汀怜奈は世界のものだけど、ただの村瀬汀怜奈は、あなただけのものになりたいと願っているのよ」

「そんないい話し、一度しか言ってくれないんですか…」

「当たり前ですわ…さあ、納得したらこの服に着替えてくださる」


 汀怜奈は、大きなバッグから白いタキシードを取り出すと佑樹に渡した。


「なんです?」

「いいから、早く」


 キス一発でもう汀怜奈のいいなりになっている佑樹は、首をかしげながらも、もちろんその服に着替えた。一旦工房の部屋に入っていった汀怜奈だが、出てきた彼女の姿を見て佑樹は度肝を抜かれた。


「なんでウェディングドレス?」

「いいましたわよね。私は、今日中にマドリードに戻って帰国しなきゃならないって」

「でも…」

「帰ったら公演会、公演会で時間がないんです。下手したら、そのままおばあちゃんになってしまいます」


 汀怜奈は、佑樹の手を持ってアルバイシンの丘を下っていった。目指すは、サンタ・マリア・デ・ラ・アルハンブラ教会。


「ちょっと先輩。信者でもないのにそんなとこで式を挙げられないでしょ」

「教会コンサート1回でバータ交渉しました」

「あれ、勝手にコンサートできない契約だって、先輩言ってたでしょう」

「そんなの嘘に決まってるじゃありませんか。でも…式を挙げる前に警告しておきますけど…式を挙げてから私を先輩って呼んだら、本当にバンナのハイキックをお見舞いしますからね」


 いいなり佑樹はそのまま教会に連れ込まれ、幸せそうな顔をして神父の前で、汀怜奈へ生涯の愛を誓った。

 

 ふたりの結婚を告げる鐘の音が、地震からの復興をスタートさせる合図かのごとくグラナダの街に鳴り渡った。

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