第189話
翌朝、佑樹は工房の木材を切り出す作業のために裏庭に出ていた。しかし、作業の手をほとんど動かすことなく丸太に腰をかけてぼうっとしている。
夕べの汀怜奈の演奏は素晴らしかった。音が奏でられた瞬間からもう佑樹は涙が出て止まらなかった。感動というのは、まさにこういうことなのだろうとあらためて実感する。人の心に染み入る演奏をする汀怜奈はやはり天才である。そして、天才は世界のいや人類の宝だ。決して個人が独占するべきものでもないし、手にいれられるものでもない。
演奏が終わって、すべての聴衆から感動の拍手を受ける汀怜奈を見たとき、告別式でスカートを履いた汀怜奈を見た時と同じ気持ちが湧いてきたのだ。再び、汀怜奈と自分との間には何万光年もの距離があることを実感した彼は、逃げるようにして会場をあとにした。
もう会うまい。仮に会っても何度も同じ気持ちを味わうだけだ。こんな気持ちをずっと繰り返していたら、気が変になってしまう。出会った時から汀怜奈は自分にとって、家族以上に一緒にいたいと思える人であることは変わらない。しかし今となっては、出会ってしまったことが幸福だったのか、不幸だったのかよくわからなってきた。
汀怜奈への思いを吹っ切るように、彼は腰を上げると、その丸太にミノを打ち込んだ。
「佑樹さん」
背後から彼を呼ぶ声は汀怜奈のものであることはすぐにわかった。
アルバイシンの丘を登ってやってきたのか多少息が上がっている。佑樹はなぜか怖くて振り返ることができなかった。
「佑樹さん。呼ばれても無視するのは礼儀に反しませんか」
佑樹は心を読まれまいと、無表情の仮面をつけて振り返った。見ると大きなバッグを持った汀怜奈が、肩で息をしながら仁王立ちしている。
「昨夜は人にコンサートさせながら、挨拶もなく帰ってしまうなんて、冷たいとおもわれませんか」
佑樹は黙って返事も返さなかった。
「私は…空港も稼働を始めたので、今日中にマドリードへ戻って、帰国しなければなりません」
汀怜奈はそう言って佑樹の顔を覗き込んだ。佑樹もバツが悪くなって口を開くが、皮肉しか出てこない。
「そうですか。世界の村瀬汀怜奈ですから…当然ですね」
喋れば喋るほど自分が嫌になってくる。しかし、そんな自己嫌悪に陥る佑樹にお構いなく、汀怜奈は平然と言葉を続ける。
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