第188話

 佑樹の手によって魔法がかけられた汀怜奈は、ロウソクの灯に浮かび上がるステージに進み出た。


 大勢の聴衆がいたのにもかかわらず、誰も彼女の登場に拍手する者はいない。もう震災のせいでその力も残っていないのだろう。

 汀怜奈は、そんなオーディエンスひとりひとりの顔を見つめた。どの顔も疲れきっている。そのうつろな瞳はいったい何を見ているのだろうか。


『たとえ私がどんなに天才ギタリスタだとしても、悲しみに漂うみなさんの心を、私の演奏で揺さぶり、励まし癒そうなんてできっこありません。ただ、私に出来ることは、みなさんの声を聞くことだけです。さあわたしのギターで、みなさんの前に凪の海を出現させましょう。あなたの心の声を聞かせてください』


 汀怜奈は弾き始めた。曲はフランシスコ・タレガ作曲「アルハンブラ宮殿の思い出」。

 タレガが、ここグラナダにあるアルハンブラ宮殿を訪れた際の印象を元に1896年に作曲。トレモロ奏法を活用した曲としても名高く、右手の薬指、中指、人差し指で一つの弦を繰り返しすばやく弾くことによりメロディを奏する。高度な演奏テクニックを有するギタリスタだけに演奏が許される、あまりにも有名な名曲である。


 曲が始まるとすすり泣く音が会場から聞こえてくる。弾いている汀怜奈はとっくにゾーンに入っているから、そんな音が聞こえるわけがない。しかしやがて汀怜奈の耳には、演奏を聴いている人たちの、心の叫びが聞こえてきていた。

 不安、悲しみ、挫折、中には耳を覆いたくなるような声もあった。心を揺さぶられているのは汀怜奈の方だ。しかし、それでも涙をこらえて弾き続けられたのは、その声の中に、小さな声であったが、汀怜奈への愛の声を聞いたからだ。


『がんばって、大好きな先輩。自分はここに居るから』


 その声に支えられて、汀怜奈は弾ききった。


 汀怜奈には永遠のように思えた5分42秒の名曲を弾き終えたあと、会場は静寂に包まれた。

 そして突然、雷のような激しい拍手が湧き上がった。


 外来ロビーに力なく座り込んでいた人々が、薄い毛布に横たわっていた人々が、立ち上がって拍手をしている。始まる前とはちがって、その聴衆の瞳にはわずかながらも力の灯火が宿っていた。そして、そのくちもとには、微笑みともとれるような優しい表情が浮かんでいた。


『話し尽くせば、多少は心に隙間が出来て、明日のことが考えられるようになるかもしれない』


 汀怜奈は佑樹の言葉を思い出して、聴衆のなかにその姿を探した。しかし、彼を見つけることはできなかった。


 拍手はいつまでもなり止むことがなかった。

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