第186話
汀怜奈は一度ホテルに戻った。
こんなことになるとは思っていなかったので、ドレスなどあるわけがない。もちろん演奏用のギターもあるわけがない。楽器は、佑樹が工房から1台借りてきてくれるとは言っていたので、とりあえず、質素ではあるが清純なワンピースを選んで着替えるとまた病院に戻った。
外来ロビーでのコンサートだから、音響設備もなければ照明設備もない。音の弱いギターの音を増幅するため、反射音が期待できるポジションにステージを設置し、照明としてはロウソクが持ち寄られた。冷たい病院の蛍光灯ではなくてロウソクの灯でコンサートをおこなおうというのだ。さすがヨーロッパ的といえばそうなのかもしれない。病院からのお知らせを聞いて、病院中の患者や家族が集まってきた。外来ロビーは人でいっぱいになった。
汀怜奈は、会場から離れてひとり、楽屋としてあたがわれた診療室にいた。会場の準備が着々と進む状況が報告されるたびに、彼女のストレスも高まっていく。
『佑樹さんはどこへ行ったの。魔法をかけてくれるって言ったのに…』
結局佑樹が楽屋に飛び込んできたのは、コンサート開始10分前。
「佑樹さん。あと1分でもおくれていたら、確実にバンナのハイキックがとんでますわ」
「すみません。ギターの仕上げに手間取って…でも大丈夫間に合いました。ほら」
佑樹が差し出したギターは、工房に預けていた橋本ギターだった。
「これが魔法ですか?」
「いえ、これは魔法を掛けるのに必要な小道具です。いいですか…」
佑樹は、汀怜奈の正面に座り、その両手を取った。
「目をつぶってください」
「目をつぶるんですか?」
「魔法って、そういうふうにかけるもんでしょ」
「そうでしょうか…」
佑樹に両手を握られて、少し早くなった鼓動を悟られまいと、汀怜奈は大きくため息をついて目を閉じた。目を閉じたのを確認すると佑樹は魔法をかけ始める。
「まずはじめに、自分にギターを教えていただいた頃を思い出してください」
汀怜奈は、狭い佑樹の部屋で、佑樹と佑樹のお父さんとギターをはさんで、楽しくおしゃべりしている光景を思い出した。
「あの時先輩は言いましたよね。音の弱いギターは音楽を聴かせるというよりは、語るって感じだと。だから、彼女をモノにしょうとするのに、ギターを選んだのは、案外正しい選択だったのかもしれないって」
「ええ、そうでしたわ」
「でも、本当にそうでしょうか?語るのはギターだけで、聴いてる方は答えてくれないんでしょうか?」
佑樹は汀怜奈の握る手に力を入れた。
「えっ、どういうことですの…」
「あっと、目を開けちゃダメです。次に思い出してもらいたいのは…」
汀怜奈は開きかけたまぶたをまた閉じて佑樹の言葉に集中する。
「おじいちゃんの昔話です」
そう、おじいさまが病床で最期の力を振り絞ってお話いただいた昔のお話し。汀怜奈は、時折息を継ぎながら、苦しくも楽しそうにお話しをされるおじいさまの顔を思い出した。
「あのときじいちゃんは『凪の海のようなギター』が素晴らしいギターなのだと言ってましたよね」
「ええ、そうしたら、ならば音の出ないギターのことなのって…おかしいですわね」
話しながら汀怜奈の顔に笑が溢れる。
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