第185話
「音楽家としてお役に立てるのであれば、ぜひともお力になりたいのですが…。実は、こんな時にこんな話は甚だ不適当かもしれませんが、エージェントとの契約事項がありまして、エージェントの許可無く私の一存で勝手に演奏会を開けないのです」
モナルデス病院長の落胆は尋常ではなかった。
「…そうですか…契約なら仕方ないですね」
「どうしたんです、先輩。肩が震えてますよ」
日本語で背後から声がした。振り返ると佑樹が立っていた。
「弾く自信がないんですか」
「佑樹さん。人の話しを盗み聞きして、勝手なことをおっしゃるのはやめてくださる」
「世界の村瀬が、弾く自信がないんですか」
その生意気なものの言い様と態度にプライドの高い汀怜奈は切れた。
「私はプロの音楽家です。いつでも、どこでも、乞われれば演奏はできます」
「なら、なぜ断るんです」
「だから契約が…」
「嘘でしょ。世界の村瀬汀怜奈がエージェントとの契約を怖がるわけがない」
「プロの世界はいろいろあるのです」
「いや、先輩が嘘をつくときはすぐわかる」
「何言ってらっしゃるの。私が告白するまで女だってわからなかったくせに」
汀怜奈の剣幕に、佑樹も少しムキになってきた。
「いやっ、そういうこともあったけど…今回の嘘はわかりますよ」
「なぜわかるのですか」
「先輩は、不安だったり、悲しかったり、迷ったり、そして悲しい嘘をつく時には、かならずその細い肩を震わせるのを、知ってました」
佑樹はそう言い放つと勝ち誇ったように汀怜奈の瞳を覗き込んだ。そして、瞬く間に後悔の念に襲われる。汀怜奈の瞳には涙がいっぱい溢れていたのだ。
「そうです…佑樹さんの言うとおりです…自信がないんです。ここにいる患者や家族の皆さんのお話を聞いて…その悲しみや悲嘆の深さを知って…知れば知るほど…ただ音色が綺麗というだけで、なんの『ヴォイス』も聞こえてこない私のギターが…そんなみなさんへの励ましや癒しになるとは思えないの…」
ついに汀怜奈は泣き出してしまった。
『音楽家としても、そして人間としても、なんて純粋な人なんだろうか。この人は…』
佑樹は、泣きじゃくる汀怜奈の肩を優しく抱いた。しばらくして汀怜奈も落ち着いてくると佑樹は優しく言った。
「まだ『ヴォイス』の呪文が解けないで苦しんでいたんですか?もうとっくに解けているかと思ってましたよ」
「そんな簡単な、話しじゃないですわ」
佑樹は汀怜奈にハンカチを差し出した。
「大丈夫ですよ。先輩。だったら自分が先輩に、呪いを解く魔法をかけてあげます」
「えっ?」
佑樹はモナルデス病院長に向かって自信を持ったどや顔で言った。もちろん今度はスペイン語でだ。
「病院長。どうぞコンサートの準備を進めてください。セニョリータ・ムラセは演奏してくれますよ」
これまで不可解な日本語での慌ただしいやり取りと、ふたりの激しい感情の変化を、ただ呆然と見守っていた病院長も、とにかくコンサートが出来るとわかって、安心したように笑顔で頷いた。
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