第184話

 翌朝、汀怜奈はまた病院行きのタクシーに載っていた。


 昨日の朝と違うのは、腹を立てていること、そしてフロントに今日の交通事情を問い合わせもしなかったことである。


『昨日のあの失礼な態度はいったい何ですの。私なにか悪いことでもしましたか?ちゃんと会って謝ってもらわなければ気がすみませんわ』


 そう言って口をへの字にして腕を組む汀怜奈。彼女独特の言い回しではあるが、平たく言えば佑樹に会いたいのである。


 病院に着いて、佑樹を探したが、彼の姿はなかった。まだ早くて、病院へは着いてないのだろうと諦めて、汀怜奈はいま自分ができることを始めた。患者さんやその家族のあいだを巡りながら、優しく声をかけ、話しを聞いて回ったのだ。

 汀怜奈と触れ合った患者さんや家族は、最初は警戒するものの、いつしか自らの全霊込めて汀怜奈に話しはじめる。怒鳴る人もいれば、泣きじゃくって言葉にならない人もいる。それぞれの人のそれぞれの人生があるからこそ、震災から生まれた悲劇は形も違えば深さも違う。人々が共有できる悲劇などないのだ。聞いて回っているうちに、佑樹を探すことを忘れていった。


 フロアを回っていると、汀怜奈は昨日話しを聞いた女性と目があった。彼女は昨日と違って泣いてはいなかった。涙が枯れてしまったのだろうか。彼女はじっと汀怜奈を見つめていたが、かすかにその瞳に生きる決意が宿っていた。

 ああ、佑樹が言ったように、胸に溢れるものを声にして吐き出し、ようやく明日を考える隙間が出来たのだろうか。汀怜奈がやっていることが決して無駄ではないことが実感できた。


「セニョリータ・ムラセですよね…」


 汀怜奈は、カイゼルヒゲをはやした白衣の老人に声をかけられた。


「はい、そうですが」

「私はここで病院長を務めていますモナルデスといいます」

「ドクターモナルデス なんの御用でしょうか」

「震災の被害者に献身的な介護をしていただいて、病院長として心からお礼を申し上げます」

「そんな…あたりまえのことですわ」

「献身的な奉仕をいただいているのに、重ねてのお願いは誠に申し訳ないのですが…」


 汀怜奈はなんとなく病院長の依頼が察せられた。


「実はインターネットで、セニョリータが世界的に著名なギタリスタであることを知りました。ご存知のように、スペイン人はギターとその楽曲を祖国と同様に愛しております。今、震災で打ちのめされた人々がこの病院に集まっております。そんな人たちを励まし癒すために、少しの時間でも結構ですから、この病院のフロアでギターの独演会をしていただくわけにはいかないでしょうか」


 汀怜奈は少し考え込んだ。人道的には断るべきではない。

 しかし、汀怜奈には躊躇する理由があった。だから、必死に断れる言い訳を探した。

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