第183話
佑樹は汀怜奈を乗せて走り去るタクシーを見ることさえ辛かった。
汀怜奈の澄んだ瞳など正視できるはずもない。自分がボランティアで駆り出された病院に汀怜奈がいたことには、心底驚いたが、最も驚いたのはそこにいたのは、村瀬汀怜奈ではなく、地元商店街の八百屋で、もやしの取り扱いに自信なさそうにしていた『先輩』だったのだ。
彼の口から、思わず先輩と声をかけてしまった。先輩はあの時と同様、素足のまま佑樹のところに駆けてきた。自分の胸で泣き始めたのには戸惑いもしたが、先輩らしいといえばそうかもしれない。
その後は昔と同様に素直に先輩と接することができた。悲嘆する女性の話を優しく聞いてあげている姿も、暖かく見守ることができた。
しかし、居合わせた医療スタッフが『あの人は、天才ギタリスタのセニョリータ・ムラセだ』と同僚にとささやきあい、スマホに汀怜奈の姿を撮影しはじめたのを目撃して頬を打たれた気分になる。
『そうだ。何が先輩だ。あそこにいるのは村瀬汀怜奈じゃないか』
それからというもの、佑樹は汀怜奈と会って溢れ出てきていた得体の知れない気持ちを、抑え込む努力を始めた。やっとのことで心の奥に押し込めたと思ったが、帰り際出口で自分を呼び止める汀怜奈の声を聞いて鍵がはずれかかる。
それだもの、汀怜奈の瞳でも見ようものなら、得体の知れない気持ちがびっくり箱のピエロよろしく飛び出してしまう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます