第176話
佑樹は、丘の上の工房に向かって、急な坂を相手にひたすらペダルを踏み込む。
心臓がバクバクいって、息もだいぶ上がってきた。しかし、それが必ずしも上り坂を急いで立ちこぎしているせいとは言えないようだ。
佑樹は、工房で地震に遭遇した。安普請な工房だから、その揺れはひどかった。
壁や机に置かれた道具がガチャガチャと暴れだす。そして、生きているかのように、飛び跳ねて床に散らばった。木材はきしみ、作りかけのギターは、それぞれがぶつかり合い、倒れていく。
マルティン師匠が、2階の寝室からパジャマのまま工房へ飛び降りてくると、佑樹にしがみついた。地震に慣れないスペイン人の師匠は相当怖かったに違いない。佑樹は頭を守りながら、仁王立ちした。
外へ避難すればいいと思うのだが、足がすくんで動けなかった。幸い工房は、安普請なりの柔軟性を発揮し、大揺れの中で窓は歪み、ガラスが割れはしたものの、なんとか持ちこたえてくれた。
地震の揺れが収まり落ち着いてくると、まず佑樹の心に飛来してきたのは『先輩は大丈夫だろうか』の思いである。
いまだしがみつくマルティン師匠を無理やり引き離した。床にちらばる工房の道具や作りかけのギターを飛び越えて、佑樹は外に飛び出すと自転車にまたがった。止めるマルティン師匠の叫びも構わず、一目散で坂を下った。
マルティン師匠から聞いていた汀怜奈のホテルに着いて、まずひと安心。
くる道すがら、民家の倒壊を目撃していたのだが、この建物はしっかりと建っている。自転車を路上に投げ捨てて、ホテルに入ると、フロントで何か言い合っている汀怜奈が、いきなり目に飛び込んできた。
佑樹は絶句した。服はラフなものだったから、自分の家に出入りしていた時の先輩そのものだ。しかし5年前とは違い、艶々と光る真っ黒な髪を長くして…。先輩はあんなに綺麗だったのか。疑問とも、感嘆ともつかぬ想いが、佑樹の体をフリーズさせた。
先輩は、やがて首を振りながら、フロントカウンターから離れると、イラついた表情で長い髪をかきむしり、腕組みをして、どかっとソファーに腰掛ける。その細く白い二の腕と艶やかな黒い髪の対比が、このスペインの地には似つかわしくないエキゾチックな色香を漂わせた。
こんな非常事態に不謹慎と諫められるとは思うが、佑樹が始めて先輩をセクシーだと感じた瞬間である。
佑樹は吸い寄せられるように、汀怜奈を見続けた。これだけ見つめれば、見つめられる当人に気づかれないわけがない。果たして、ホテルの玄関に佇む佑樹は汀怜奈に発見されたしまったのである。
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