第173話
その時同時に、アルハンブラ宮殿から吹いてくる冷たい夜風にあたりながら、丘を上がっていく若者がいた。佑樹である。
汀怜奈と佑樹は、韓国ドラマのようにお互い気づかずに、道をはさんですれ違っていた。
木材の選定が順調に進んで、佑樹は予定より2日早く工房へ戻ってきた。現地で余った時間を観光に費やすなど、マルティン師匠が許すはずもない。
そして、工房について驚いた。思いも知らぬ橋本ギターとの再会である。このギターは5年前、親父に先輩に送ってくれと託したギターだ。当初は自分の目を疑った。しかし、マルティン師匠から。村瀬汀怜奈が来たことを告げられると、自然と顔が上気する。
『先輩がここに?このギターの修理で?なぜ?』
佑樹は、橋本ギターを見つめながら、答えが見つからぬ自問自答に無駄な時間を費やす。そして、しばらくすると抑え難い衝動が胸に飛来してきた。会いたい。会いたい。今すぐにでも先輩が泊まっているホテルを訪ね、先輩に会いたかった。
だが佑樹の衝動とは裏腹に、足は動こうとしない。思えば、佑樹がここに来ようと思ったのは、汀怜奈が原因である。おじいちゃんの告別式の日。先輩が汀怜奈であることを知らされた日。驚きとともに、先輩を失ったことへの耐え難い喪失感に怒りで身を震わせた。それから、時間はかかったが徐々に先輩が汀怜奈であることを受け入れる気持ちになっていった。
先輩を失ったとしても、汀怜奈が先輩なら、汀怜奈に少しでも近づくことによって、この耐え難い喪失感から逃れられるかもしれない。しかし、あの天才ギタリスタにどうしたら近づけることができるのか。今更ギタリスタとして汀怜奈の世界の一員になれるわけがない。自分にギタリスタとしての資質がないことは十分わかっていた。
考えた末、彼が選んだのはギターを作ることであった。そして、無我夢中でこのグラナダにやってきて「ベルンド・マルティン」と書かれた陶板の下に座り込んだ。
当初拒否していたマルティン師匠が、スペイン語もわからぬ佑樹の入門を受け入れたのは、言うまでもなく、おじいちゃんが橋本師匠に見込まれた方法を真似て、自分の耳をアピールできたからだ。
ここの工房でギター作りの修行をはじめることができたのだが、なにも、いつか自分が作ったギターを汀怜奈に贈ろうとは考えていない。汀怜奈にとって必要不可欠なギターを供給する名工となって、汀怜奈を見返そうという願いでもなかった。
同じギターの世界に身を置くことだけが、あの天才ギタリスタと過ごした日々が、忘却の海に沈むのを防ぐ手段になるのだと感じていた。
佑樹はギターを手にして、あらためてあの告別式を思った。そうだ、先輩はもう何処にも居ない。世界的な天才ギタリスタ村瀬汀怜奈がなぜこの工房の師匠にギターの修理を依頼したのかはわからないが、彼女は自分がここに居ることなど知るはずもなく、自分に会いに来ているいるのだとは到底思えなかった。
佑樹は、足を動かさず、代わりに手を動かした。明日すればいい修理だったが、どうせ今夜は眠れそうにない。
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