第141話

「先輩…やっぱ、もう少し練習してからの方が良かったのでは…」

「これ以上は、いくらやっても同じです。」

「でも…」

「佑樹さん。もうここまできたのですから、覚悟を決めなさい」


 離れの床で、おじいちゃんと父親が佑樹たちを待っている。部屋に入る襖越しで、佑樹がもじもじして、部屋に入ろうとしないのだが、汀怜奈はこの期に及んでの、佑樹の弱気を許さなかった。


「おじいさまが起きていられるお時間は限られているのですよ。これ以上時間を無駄にするなら、ハイキックを食らわしてでも…」

「わっ、わかりましたよ」


 チンピラを吹き飛ばしたハイキックを見舞われたらたまらない。佑樹は両頬を叩くと、気合を新たにして、襖を開けた。


 おじいちゃんは、床にいて、布団を折りたたんで椅子状態にし、上半身を起こしてふたりを待ち受けていた。どうも半分目を閉じかけている。


「なにやってんだよ。爺ちゃんが待ちくたびれちゃって、寝てしまうぞ」


 開口一番父親の非難を浴びながらも、佑樹は無言でじいちゃんの前の椅子にすわると、汀怜奈に教えられた姿勢で、ギターを抱える。汀怜奈も父親に並んで、観客側に座った。


 佑樹がおじいちゃんのために準備した曲は『上を向いて歩こう』である。この曲は、元々は中村八大が1961年7月21日に開催した自身のリサイタルのために制作した(作詞は永六輔)楽曲であったが、坂本九のシングル曲としてレコーディングされ、世界でも最も知られる日本の楽曲となっている。

 おじいちゃんにも馴染みのある曲をということで、汀怜奈が選曲したものだ。それを佑樹が引きやすいように、単純なメロディーラインに整理したり、決めのところでしっとりとした和音を入れ込んだりして、汀怜奈が美しい曲にアレンジした。


 佑樹は汀怜奈に教えられた通り、しばし目をつむって指先で弦をさわってその温度を確かめる。こうすると周りからのプレッシャーが意識から遠ざかり、ギターとだけ向き合うことに集中しやすくなるのだそうだ。


「それじゃ…じいちゃん。始めます。聞いてください」


 佑樹はそういう言うと、最初の音をつま弾いた。そして佑樹自身も口ずさみながらゆっくりと弦を弾き始めた。テンポに追われるのではなく、自分の歌にあわせて音が出るようにする。これも、汀怜奈から教えられたことである。自分自身に歌がなければ、楽器の音も曲にならないのだそうだ。


 一方、師匠である汀怜奈は、佑樹のギターに緊張状態。観客席にいてこんなにハラハラするなら、自分が弾いたほうがよっぽど気が楽だ。おじいちゃんを見ると、ギター演奏を聴いているのかいないのか。はんば目を閉じてじっとして動かないでいる。

 汀怜奈はあらためて佑樹の演奏を聞くと、なんとも自信のない音でつながってはいるものの、彼の素直な心が現れていると感じた。この曲はもともと不思議な憂いをもつ楽曲ではあるのだが、おじいちゃんとの別れを意識した佑樹の悲しい気持ちが手伝ってか、その憂いが余計に深いような気がする。


 やがて佑樹も最後の音を弾き終わると、すべての力を出し切ったように、大きなため息をついた。佑樹に負けないくらいの緊張で拳を強く握っていた汀怜奈も、やっと汗だくの手を開いて拍手をした。

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