第140話

 8月1日。ミチエは珠の様な女の子を出産した。


 若いふたりはお互いの一文字ずつをとって、ヤスエと名付けた。

 泰滋が喜んだのは当然のことだが、実際誰よりも喜んだのは、泰滋の父にちがいない。実のところ、パパママなどと孫に呼ばせる息子の趣味は、全く気に入らない。

 一人息子を同志社などというハイカラな大学に行かせたことをあらためて後悔するものの、孫を手に抱くとそんなことはどうでも良くなる。おじいちゃんは初老の目尻のシワの本数をますます増やして、似合わぬ幼児言葉で孫のヤスエに語りかけた。


 ミチエはヤスエが、ギスギスしたパパとお義父さんの間に入り、緩衝材の役目を果たしてくれることが嬉しかった。実際ヤスエをふたりの間に置くと、ヤスエを見る二人の顔には笑顔が絶えることがなかったのだ。


 ヤスエは日々すくすくと育ち、その喜びに背中を押されながら泰滋は一層仕事に励んだ。毎日朝早くから大阪の事務所に出勤し、商品のカメラを持って四国方面へ行商に行った。時には四国のお得意さんを渡り歩き、何日も家に戻れないこともあった。

 家族の笑顔が消えぬよう励むがあまり、自分の体に無理を強いていることに意識がいかなかったようだ。ヤスエが1歳の誕生日を迎えた年、泰滋は病に倒れた。その病とは結核である。


 昭和10年代であれば、結核は死亡率の第1位の病である。毎年10万人以上の日本人が結核で亡くなり、結核はその当時、若者の命を奪う不治の病として人々に恐れられていた。欧米に追いつくことが日本全体の目標であった時代に、国の宝である若い労働者や兵隊の命を奪う結核は、国家的損失をもたらす「亡国の病」と考えられていた。国を挙げて富国強兵が叫ばれていた時代では、日本最大の敵が結核だったのだ。


 しかし昭和24年、ストレプトマイシンが日本に登場し事態が一変する。結核に対するこの薬の効果は驚異的なものであった。登場時には余りにも高価な薬だったので、ごく限られた富裕層にしか処方できなかったのだが、昭和25年に国内生産が開始され、さらに健康保険でも使用できるようになり、多くの人たちがストレプトマイシンの恩恵を受けることになった。


 この薬の流布により結核は徐々に減少することになる。そしてまもなくして、パス、ヒドラジドとの3剤併用も始まり、結核患者は目に見えて減っていった。この昭和25年を境にして、それまで不治の病とされていた結核の予後が大きく変わったのである。このわずか数年の違いによって、結核患者の生死が大きく分かれることになった。


 泰滋が結核を患ったのが、昭和29年。もし5年早く結核を患っていたら、彼の命はなかったのかもしれない。幸い薬のおかげで、彼の容態は良くなったものの、同じような無理をすれば薬の効果も得られない。さらに、京都は湿気の高い地域とされており、結核菌の繁殖を防ぐためには、もっと風通しの良い地で過ごすことが必要だった。

 泰滋は両親と話し合い、3ヶ月を目安に療養を兼ねて京都から出て暮らすことにした。石津家の遠い親戚を頼り、泰滋はミチエ、ヤスエの手を取って福岡県久留米市へ旅立っていったのだった。

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