第139話

「ねえ、考えたんだけど…」


 ミチエがとなりの布団で大の字で寝転ぶ泰滋に声をかけた。今床に入ったところだから、よもや寝てはいないだろうとミチエは問いかけたのだが、疲れきった泰滋はもう眠りの門に片足を入れている状態であった。


「ねえ、もう寝たの?」


 もう寝たのと問いかけるのは、起きろと行っているのと同じだ。泰滋は、名残惜しそうに眠りの苑に背を向けた。


「なに?」

「子供が生まれたら、自分のことをなんと呼ばせるの?関東風におとうさん…それとも京都風におとうはん?」


 ミチエは、大きくなったお腹をさすりながら泰滋に尋ねた。せっかちな彼女らしい質問だ。生まれる前からそんなどうでいいようなことが、気になってしかたがないようだ。


「どっちもあかん。そんな呼ばせ方はさせない」

「じゃなんて…」

「パパ」

「えーっ、嘘でしょ。じゃ私は…」

「ママ」

「…ちょっと、変じゃない…」

「どうして?」


 同志社育ちの泰滋にはなんともなくても、下町育ちのミチエが躊躇するのもわからなくもない。昭和28年代、パパ、ママという呼び名は、欧米スタイルに傾倒しているブルジョアの家庭では使われていたとしても、庶民の実生活の中で実践されるには多少気恥ずかしい時代だ。


「とにかく、あすも忙しいし…もう寝ましょう。ママ」

「ちっ、ちょっと待ってよ。いきなり始められても…」

「いざ子供が生まれた時に照れくさかったらアカンやろ。今から慣れてへんと…」

「でも…困ります泰滋さん」

「只今より、もう『泰滋さんと』呼んでも、返事をしません」

「そ、そんな…」

「もう一度言うよ。もう寝ましょう、ママ」

「…そうしますか…パパ…って恥ずかしい」


 おおいに恥ずかしがったミチエだが、ふたりは、それ以来お互いを、パパ、ママと呼び合うようになった。


 突然グセの京男にせっかちな東女。そんな夫婦らしいといえばそうなのだろうが、ふたりはわずか10カ月という短い新婚生活を終えて、早々と子供のいる新しいライフステージに立とうとしていた。

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