第138話

 卒業式を終えて、社会に出た泰滋は、本当によく働いた。


 依然と彼の父との不仲は続いていて、同居はしていたもののこれ以上金銭的な部分で親に頼りたくはないと、泰滋は意地を張っているような節もある。もっとも、若いとはいえ彼は妻ともうすぐ産まれる子どもを養わなければならない。このような状況下では、理屈をこねる前にまず体を動かして稼がなければ、なにも始まらないのも事実だ。


 時々、労働者の権利とか人権とか、そんなものに熱く議論をしていた新聞部時代の自分を懐かしく感じる。しかし今は、そんな議論や思索に時間を費やすより、身重の妻が出産に耐え、元気な子どもを生み、そして育めるよう、とにかく働く事の方がずっと大切だと思える。時には名門同志社大学卒のプライドが踏みにじられ、今まで経験したことがないような苦労と挫折を味わうこともあったが、それで彼の笑顔が曇ることはなかった。


 彼を楽天家と呼ぶ人もいたが、筆者はあえて、彼には自分が選択した新しい生き方を、実に素直に受け入れられるという資質の持ち主なのだと言いたい。逆の言い方をすれば、今以外の道を選択した自分を全く思い描くことができないということだろうか。

 『かもしれなかった自分』を想像できないのだから、当然今の自分と比べようもなく、したがって後悔もない。これはもしかしたら誰もが羨望するような資質なのかもしれなかった。とにかく、朝早く大阪の会社に出勤し、夜は残業や得意先の接待営業に励み、毎晩終電で帰宅する毎日であったが、家に帰ってシンドイの一言も発っすることがなかった。


 一方身重の妻ミチエは、女子高時代と同様に忙しい毎日であった。石津家の家事の手伝い。慣れない京都での暮らしと人付き合い。妊婦として日毎変わっていく、からだの変化に対する驚きと対応。

 高校時代の忙しさの日々は、バスケの部活が、彼女その忙しい毎日を生み出す根源であると思っていたが、そうではなかったのだとミチエはようやく悟った。


 この忙しい毎日は、実は宇津木家の女系に延々と伝えられているDNA。つまり、『朝ごはんを食べながら、昼ごはんの準備を考え。昼ごはんを食べながら夕御飯の献立が気になる』というせっかちな性格が作り出していたのだ。

 それゆえに嫁ぎ、夫を持ち、ましてやこどもまで生まれるとなれば、もはや忙しくない毎日など考えられない。結局自分の毎日は生涯を通じて忙しいにちがいないと、今では諦めるようになっている。


 泰滋と違って、ミチエのこの性格は、誰もが羨望するような資質とは言えないが、誰からも愛される資質だと言えるかもしれない。実際、ミチエはお義父さんからもお義母さんからもえらく可愛がられていた。

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