第137話

「おかあさま…確か『アナと雪の女王』観たいって言ってらしたわね」

「えっ?」

「ちょうどいい、自分その映画のチケットを持ってるんです。よろしかったら差し上げますよ」

「そんなものいりませ…」

「おかあさまも離婚してから、映画なんて久しく見てないでしょ」

「そうなんですか…自分もだいぶ前に佑樹の母親と別れまして…お気持ちはよくわかります」

「そんなこと、余計なお世話…」

「どう?お母さま。離婚した同士、おふたりで仲良く映画でも観に行かれたら」

「えっ?」

「えっ?」


 ふたりが同時に汀怜奈を見た。

 汀怜奈の母親は明らかに驚愕の顔であるが、佑樹の父親の顔は、嬉しさ半分困った半分である。汀怜奈は、佑樹の父親の困り顔の理由を察して素早くテーブルの下から、1万円札を握らせる。

 父親の顔が緩んだ。


「そうですか…まあ、息子さんがそう言うなら…この際どうです、ご一緒に…」

「息子って…ご一緒って…変なこと言わないでください」

「お母さん『僕』はひとりで大丈夫。先に家に帰ってるから」

「僕ってなんですか!」

「おとうさま、わたしのお母さまをよろしくお願いします」

「わかりました。お母さまを少しお預かりますよ。さっ、行きましょう」

「あなた、いったい何を…触らないで…だから…汀怜奈…助けて!」

「いってらっしゃーい」


 佑樹の父親に拉致されて、汀怜奈の母親がホテルを連れ出された。そんなふたりを見送りながら手を振っていると、汀怜奈の顔に自然に笑いがこみ上げてくる。


「キッ、キッ、キッ、キッ、キッ…」

「先輩、なんでここに…」


 振り返ると佑樹が立っていた。10年ではない。たかだか10日ほど会わなかっただけなのに、なぜか汀怜奈の目に涙が浮かびそうになる。なんか佑樹さん、少し大人になったようだ。


「笑ってたかと思うと、今度は涙ぐんで…大丈夫ですか、先輩」

「余計なお世話ですわ」


 汀怜奈はハッとした。女言葉を使ってしまった。また、佑樹は怒り出すのだろうか。しかし佑樹は優しい笑顔を崩さなかった。


「この前は、失礼なことしてすみませんでした。二度としませんから、許してください」


 佑樹は素直に頭を下げた。そんな笑顔で謝られたら…佑樹に会った時にと準備していた説教シナリオが、どんどん崩れていく。


「先輩に、会いたくて、会いたくて、でも連絡先もわからないから…」

「そんなに…会いたかったのですか?」

「ええ」

「どうして?」


 なんて大胆なことを聞くの?汀怜奈は自分の言葉で顔を赤く染める。


「どうしてって…今、先輩は自分にとって一番必要な人だからです」


 佑樹が言葉を止めて、下を向いてしまった。汀怜奈の胸の心拍数もレッドゾーンに達している。彼の答えひとつで気絶しそうだ。


「1曲でいいんです。じいちゃんに、どうしてもギターの演奏を聴かせたいんです」


 佑樹は、じいちゃんとのやり取りを汀怜奈に話した。汀怜奈は、意外な方向に進んでいく佑樹の話しに戸惑いながらも、次第に心が落ち着いてきて、言いようもない温かいものが満ちていく気分を味わった。


「また自分にギターを教えてください。もう、残された時間はそんなにないんです」


 佑樹はそういって口を閉じ、真剣な眼差しで汀怜奈を見つめた。


 その目はとても澄んでいると汀怜奈は思った。相手がどう思うかを気にするのではなく、自分の思いを無警戒にそして素直に表した瞳である。そう、この瞳こそ佑樹なのである。


「わたしが女言葉を使っても、気にしませんか」

「はい」


 佑樹は即答した。透き通ったいい返事に、汀怜奈も心のわだかまりが溶けたような気がした。


「佑樹さんも…やっとギターがうまくなるんだ、という覚悟ができたみたいですね」


 汀怜奈の言葉に、今度は佑樹の表情がゆるんだ。


「ありがとうございます」


 頭を掻きながら汀怜奈に礼を言う佑樹。しかし、ふと何かを思い出したのか、あたりを見回しながら彼は言った。


「…ところで、うちの親父を見ませんでした?」

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