第132話

「ああ、佑樹か…」


 寝ているおじいちゃんを起こさぬよう、静かに水差しを替えようとしたのだが、佑樹の努力も無駄だったようだ。


「起こしちゃった?ごめんね、じいちゃん」

「そうか、佑樹…今、わしは起きているのか…。いかんせん、先生がくれる薬で、痛みが和らぐのはいいんだが、一日中、起きているのか、寝ているのか、わからんようになってしまった」

「そうなの…」


 佑樹の胸が締めつけられた。そんな動揺を隠すように、彼はいそいそと水差しの盆にこぼれた水を拭う。


「ところでな…佑樹」

「なあに、じいちゃん」

「師匠とのギターの練習はやめたのか?」

「えっ、なんで」

「最近、お前や師匠の弾くギターの音が聞こえない」

「や、やだなぁ。聞こえてたの…下手くそなのに…」

「お前の部屋からこぼれてくるギターの音を耳にするとな…ああ、わしは今起きている。まだ生きているんだ…と思えてな」


 佑樹はどう返事を返していいかわからなかった。


「なあ、佑樹、お願いがあるんだが…」

「なんだよ。じいちゃんあらたまって…」

「一曲でいいからお前のギター演奏を、聴かせてはもらえないか」

「えー、俺まだ下手くそで、人前で弾くなんてレベルじゃないよ」

「いいんだ」

「…ましてや一曲通してなんて…まだ無理だよ」

「それでもいいんだ。わしももう長くない。しかも、一日で意識がはっきりしている時間も少なくなった。まだ意識があるうちに、お前のギターを近くで聴いてみたい」


 じいちゃんは、佑樹の瞳をじっと見つめた。佑樹はそんなじいちゃんの濁った瞳を見ながら、こみ上げてきそうになる。


『ギターは、楽器を囲むほぼ2メーターの範囲で音楽を聞かせる楽器というのが本来の姿だったんです。…ギターを囲むほぼ2メーターの距離と言ったらそこに居るのは、演奏者自身か、演奏者の大切な人ぐらいなもんでしょう』


 不意に先輩が言っていた言葉が佑樹の頭に浮かんだ。


「わかった、じいちゃん。先輩と相談してみるよ」


 佑樹はそう答えるのが精一杯で、水差しを持って逃げるように部屋を出た。

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