第133話

 汀怜奈はプロの演奏家である。演奏中に雑念に囚われることはない。


 しかし、ギターの弦から指を離してしまったら、やはり平凡なうら若き女性に戻るしかないのだ。案の定、1曲目の練習曲を終えると、彼女の頭に、肩をいからせてカフェを出て行った佑樹の後ろ姿が、風船のように浮かんできて仕方がない。


 何が彼をあんなに怒らせてしまったのだろうか。彼女自身まったく思い当たる節がなかった。理解できなければ、もうその件は理解することはやめて切り捨てよう。そう思って次の練習曲に取り組むのだが、その練習曲が終われば、また頭に彼の後ろ姿が浮かんできてしまう。


 御茶ノ水のカフェで別れてから、佑樹とは全く会っていない。普段は、レッスンの終り際に次回のスケジュールを話し合うのだが、あの時の佑樹の剣幕ではそんなことができる状態ではなかった。

 だいたいあんな別れ方をするなんて、彼は失礼だ。彼に会って説教をと思うのだが、会うためには、こちらが彼の家に行くか、連絡するかだが、こちらから動くようなことは汀怜奈のプライドが許さなかった。


 佑樹は、汀怜奈の携帯番号はもちろん、家の連絡先や住所も知らないから、彼から連絡が来るとは到底思えない。聞かれなかったから、汀怜奈から教えもしなかったのだが、今となっては、そんなことすらも聞かない佑樹の家のユルさが恨めしい。


「あら、汀怜奈さん。お出かけ?」


 玄関で靴を履く汀怜奈を目ざとく見つけた母が声をかける。


「ええ、ちょっと疲れたので、気晴らしに渋谷へ買い物でも…」

「そう…私もご一緒しようかしら」

「えっ、あぁ…ついでに運動不足だから、階段うさぎ跳びで渋谷ヒカリエ全階制覇でもしようかと思っていますの…それでも行かれます?」


「あなた…呆れたわね…」


 娘の奇言に絶句する母。しばらく娘を見つめたあと、笑顔を取り戻して言った。


「一人で行きたいなら、そうおっしゃいな」

「すみません。お母さま」

「うさぎ跳びかなんだか知りませんけど、もう少し女らしいかっこして外出されたらいいのに」

「行ってまいります」


 母の観察に耐え兼ねて、汀怜奈は言葉が終わらぬうちに玄関の外へ出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る